猫を起こさないように
映画「スーパーマン」感想
映画「スーパーマン」感想

映画「スーパーマン」感想

 キメツによって劇場を占拠される直前にすべりこむようにして、アイマックスでスーパーマンを見る。以下は、2006年公開のスーパーマン・リターンズにおけるスタジアムの場面を、こよなく愛する人物による感想です。「いまさら、この超有名ヒーローの設定説明を必要とする人間なんて、地球上におるめえよ」とばかりに怒涛の冒頭キャプションだけで作品世界のビルドアップをすませたあとは、「3分前:スーパーマン初の敗北」から当該の人物がナナメにスッとんできて雪の大地へと激突するという、じつに人をくったオープニングにはじまり、DCコミック版のリブートというよりは、「ジェームズ・ガンのスーパーマン」とでも名づけたくなるような、ユーモアたっぷりの演出が続いてゆきます(特に、格納庫のシャッターがゆっくりと、それこそ1分ほどかけたワンカットで開いていくのを見せるシーンは、スーパーマンというよりガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの文法になっていました)。ストーリー展開としては、「膨大な体力ゲージを持つオポネントに対して、初撃が当たれば無限につながるコンボの完遂をねらう格闘ゲーム」がずっと続く感じで、レックス・ルーサー側へ感情移入できれば手に汗をにぎれるのでしょうが、スーパーマンのファンはカタルシスの爆発を延々とひきのばされて、イライラすることうけあいです。また、他のヒーローたちと共闘する姿は新鮮でしたが、「あらゆる生命を助ける、リスも助ける」場面はシリアスなのかギャグなのか、はたまた、このリスがのちの派生作品でヒーローになる伏線なのか、いだくべき感情がわからなくて困惑しました。

 物語のクライマックスにおけるスーパーマンのスピーチは、過去の失言をツイッターから掘りおこされて、監督降板にまでいたったジェームズ・ガンその人が憑依したような内容で、数テイクは撮影しているはずなのに、少々ドモッてロレツのあやしい部分があるものを採用していて、おそらく熱量が優先されたのでしょう、舞台演劇をナマで見るような迫力がありました。そのあとに続く、あれだけ饒舌な道化師であったレックス・ルーサーが、ただ無言でスーパーマンをにらみつけながら静かに涙を流すシーンでは、「永遠の日陰者であり、けっしてヒーローにはなれない者」の玄妙きわまる感情を、同じ属性を持つ小鳥猊下としてモロにくらってしまい、「泣くなや! なに、泣いてんねん!」と言いながら、いっしょに泣いてしまいました。「中東のユダヤ国家によるホロコーストを免罪符としたジェノサイド行為」に対する強い批判が、本作にはこめられているとの指摘があるようですが、日々のニュースを心に留めないよう聞き流していたつもりで、ずっとフラストレーションが溜まっていたことに気づかされました。なぜなら、ただのフィクションであるにもかかわらず、鑑賞後にかなりその溜飲が下がってしまった感覚があったからです。これはすべての物語がおのずと持つ癒しの効果にはちがいありませんが、本作の高評価にその事実がいくばくかでも寄与しているのだとすれば、きわめて危険なことのようにも思います。それは、虐殺の現場にいない者たちのストレスを慰撫しているだけであり、現在進行形で殺されている者たちとは、なんの関係も連絡もないからです。「創作者によるフィクションの効能とメッセージ性へ向けた過大なまなざし」には、適切な批判が必要なように感じました。監督色がマーベルの「工業製品っぽさ」を越えた独特の”読み味”を本作にあたえていることはまちがいありませんが、同時に時事色にもドぎつく塗られた最新のスーパーマンを単純にシリーズのリブートとしてあつかっていいのかについて、個人的には疑問が残ります。

 あと、よい大人のnWo(猫を起こさないように)は25年前から猫派なので、皆様が話題にするマントをはおったテリア犬の愛嬌と狼藉は、特に刺さりませんでした。