猫を起こさないように
SHIROBAKO
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アニメ「スーパーカブ(11話)」感想

 アニメ「スーパーカブ(10話まで)」感想

 あかん、スーパーカブの11話がおもしろすぎる。あとでなんか書くかも。

 スーパーカブ11話、見る。作画崩壊って言葉があるじゃないですか。納期に追われて絵が間に合わなくなるやつ。いや、作画は安定してますよ。問題なのは、それ以外のすべてです。今回ついに、シナリオが崩壊し、演出が崩壊し、極めつけは主人公の一人称が「スーパーカブ」になって人格が崩壊しました。

 前回も言いましたけど、友人の遭難事故に際して、まず警察と相手方の両親に電話してから、それでも居ても立っていられなくなって、カブで走り出すならわかるんですよ。それを「スーパーカブが行く」などと自我と無機物との境界が壊れた言葉を放ったあと、無連絡の単機で救援へと向かうのです。そのあげく、ぬかるみに車輪を取られて二次遭難しかかる描写が丁寧に入っていたり、視聴者の情動をどう誘導したいのかサッパリわかりません(主人公のアホさへの苛立ち?)。

 そして、沢で倒れている友人を発見したスーパーカブはほとんど垂直に見える濡れた岩肌を伝い下ります。てっきりスーパーカブが友人を背負って斜面を登るのかと思いきや、「オレはオマエをかつげない。サポートはするが、ひとりで登れ」などと星一徹だか百獣の王だかみたいなことを言い放ちます。これにはFF11をプレイする手が止まり、思わず「えー!」と声が出ました。友人が垂直の壁面を自力で登ったあと(登れるんかい!)、スーパーカブはカブキチガイの友人に電話をし、何ごとかを頼みます。間接的にですけど、ようやく相手方の両親と警察か消防に連絡してくれるのだとホッとしていたら、何を思ったのかスーパーカブは友人を抱き上げ(さっきかつげないゆうてたやんけ!)、スーパーカブの前カゴにダンケダンケとブチ込みます。困惑する友人が見上げたスーパーカブの顔は、ネットで道交法違反だと重箱の隅をつつかれたことへの怒りに燃える鬼の形相をしており、KOGUMAというよりAKUMAのようでした。しかし、BPOへの配慮からか、凄腕アニメーターの欠如からか、前カゴに女子高生を乗せたスーパーカブがサイレンを鳴らす多くのパトカーに追われながら公道を疾走する様を長尺で描かなかったのは、とても残念です。

 そして、てっきり病院か両親の元へ連れて行くのだと思っていたら、なんとスーパーカブは女子高生を自宅へと持ち帰ります(流行ってんの、この設定?)。沢に落ちて、その姿勢のまま動けなかったのだから、打身や捻挫や骨折や外傷性ショックや低体温症や脳震盪を疑ってしかるべき状況です。いや、一人称がスーパーカブの級友へまっさきに電話するぐらいですから、頭を強く打っていることは間違いありません。

 スーパーカブはこごえる友人を温めようとバスタブに湯をためるのですが、熱湯を水でうめるタイプの蛇口なのに、青へは触れず赤のハンドルだけをグイと強く回したのです。沢落ち以降、すべての行動が社会常識から逸脱していくことを考えれば、いよいよゆるふわ日常系アニメの枠から離れ、友人を熱湯風呂へダンケダンケと放り込み、全身やけどを負わせるようなサイコホラーへと変じたのではないかと疑いました。あやういところでカブキチがスーパーカブの自宅へと到着し、団塊老人の横顔で「オフロ、オフロ」と言いながら女子高生の煮汁たっぷりの浴槽へ向かって、かろうじて日常は回復します。

 スーパーカブが友人のパンツを部屋干ししようとすると、シーちょう(C調?)だかゆうこの人物は一種異様なまでにうろたえ、激しい羞恥を露わにします。いまどきの女子が、下着ぐらいでこれほどうろたえるものでしょうか。このシーンは団塊老人による願望、すなわち昭和の少女幻想を強く感じさせます。そして、なんでもレトルトで済ませる一人ぐらしの女子高生が、卵をあらかじめゆでておき、カラに極太マッキーで「ゆで」と書くだろうかという深淵な命題(演出の失敗)を我々に残したまま、カレーうどんの夕食(スカトロジーの暗喩?)が終わります。

 罪悪感から皿洗いに従事するシーちょうへ向かって、カブキチが唐突に満面の笑顔で「オマエの高級自転車はフレームがイカれてて、もう廃車だ」と告げ、スーパーカブからの電話が両親・警察・消防への連絡を依頼したものではなく、自転車の引き上げのみをお願いしていたという衝撃の事実が判明します。シーちょうの手にしたうどん鉢から水道水があふれて感情の高まりと決壊を暗喩するという、ツバキの落下が処女喪失を示すみたいな演出のあと、シーちょうは「冬はイヤなんで、いますぐ春にしてください」などとスーパーカブにウワメヅカイでしなだれかかるのです(前から思ってましたけど、この子ちょっと知能の発育に問題があるんじゃないですかね? FGO第2部ふうに記述するなら「恥丘白痴化」ですか?)。その未就学児ばりのムチャぶりに、スーパーカブは「それは、スーパーカブにもできない」と返答します。このくだり、くしくもブロント語と似たような話法になっており、不意をつかれて(ふいだま)思わず爆笑してしまいした。

 翌日、大きなママチャリに乗って登校してきたシーちょうを、スーパーカブはネットリと視線で追いかけます。1話からの行動を順にならべてもわかるように、スーパーカブはかなり発達に特性を持った人物です。しかしながら、シーちょうがママチャリに乗ってきたことを脳内で描写するト書きはその特性を越えて、リタイア後にブンガクをやり始めた団塊老人みたいなキモチワルイ筆となっていて、キャラとシナリオ崩壊の印象をいっそう強めるのです。

 さらに場面はシーちょうの実家である喫茶店へと移りますが、ご両親はスーパーカブとカブキチに手放しの感謝をしか示さないんです。ケガが無かったからよかったようなものの、ふつうの親ならスーパーカブのおかしな判断に嫌味のひとつも言うでしょうし、娘には奇矯な級友たちと今後は距離を置くよう裏でささやくかもしれません。山奥の自営業とアメリカ人だから、常識がブッとんでいるんでしょうか。かてて加えて、ご両親はスーパーカブとカブキチに向こう1年の飲食無料券まで渡すのです(このカード、店にあらかじめ備えてあったものみたいですが、どういう一般的な商いの状況で客に渡すんでしょうね?)。娘の生命と1年分の飲食代金が等価というのは、なんとも下品かつ卑しいジャッジで、山奥の自営業とアメリカ人だからこそ為せるワザなのかもしれません。これまでも娘の友人のよしみ、タダで飲み食いさせてもらっているのだろうと好意的に補完してたんですけど、このやりとりから食費を切り詰めるために自炊をするかたわら、500円以上する高級豆のコーヒーを自腹でガバガバ飲みまくっていたことが確定してしまいました。

 そしてラストシーン、シーちょうから白痴的笑顔を向けられた瞬間、なぜかスーパーカブの頭髪は前方から送風機を当てられたようになびきはじめ、初代SAWラストシーンばりの回想フラッシュバックが始まるのです。1話の坂道でスーパーカブの自転車を後方からブッちぎっていったのが、じつはシーちょうだったことが明らかになったり、スーパーカブが「このままではフユ(?)に殺されてしまう」とか言い出したり、マーダーミステリーにでもジャンルが変わったのかと一瞬、本気で戸惑いました。

 次回が最終話とのことですが、春の鹿児島でカブキチがスーパーカブの左足をスーパーカブの前輪で轢断し、「嗚呼、フユの毒素が下半身から抜けていく」とか言いながら息絶え、その遺体が団塊老人にメタモルフォーゼして終わったりしないか、怖くなってきました。

 ともあれ、「SHIROBAKO」を見てアニメ業界に入ろうと思っている諸氏は、シナリオ・演出ともに超高校級のバッド・サンプルであるスーパーカブ11話をケンケンフクヨーし、他山の石としましょう。

 アニメ「スーパーカブ(最終話)」感想

アニメ「SHIROBAKO」感想

テレビ版

 いまさら「SHIROBAKO」見終わった。数年前に1話を再生したんだけど、学校で自主アニメ作ってるナード階層なのに全員がキラキラ美少女なことへクラクラして、長く視聴を止めてしまっていたのでした。今回はFF11のおかげでそこを越えて、主人公が制作会社に勤めるところまで進んだら、文系クソ仕事のリアルが描かれていてメチャクチャ面白いじゃないですか! あとから見る人のためにモエ・コション(仏語)向けじゃなくて、もっと正しく作品を評した感想テキストを書いておいてくださいよ、もう! 私が日々やってる仕事も業界こそ違えど、たぶんアニメの制作デスクと似たようなものです。組織に所属するすべての人間をプロジェクトの文脈に落とし込んで、目標が達成されるまで、きしむ歯車に潤滑油を差したり交換したりを繰り返して、とにかく計画を前へと進めていく。人間が人間であるがゆえに存在する業務であり、肩書きが付随してカネ払いが良かろうと、実際には歯車ひとつほどの価値もない中身なのです。目標を達成した後に作品が残るだけ、アニメの制作デスクはずいぶんとマシな仕事に見えました。

 しかしながら、爽快感やワンダーとは遠い文系クソ仕事をアニメとして見せるために、5人の若い美少女たちの成長譚にしているのは、しょうがないとは言え、ところどころにチグハグ感が出ています。顕著なのは男女のキャラデザの差異で、美味しんぼの郷土料理編で実在の人物を模写したような男性が、顔面の3分の2を眼球で占拠された美少女に詰め寄られるシーンを見たとき、実存のゆらぎにめまいがしました。別々に映っている場合にはそれほど気にならないのですが、同一画面に入るともはや系統の異なった生物にしか見えなくなっています。そして、女性キャラのデザインは、年齢が上がるほどに眼球が小さくなっていく仕組みなのです。でもこれは、モエ・コション向けのアニメ全般に当てはまるルールでしょう。「セクシャルな消費は眼球から行われる(だから、加齢で縮む)」のは、この業界に古くからある不文律なのかもしれませんね。

 またぞろ昔の調子で「萌え」を茶化してしまいましたが、ストーリー自体はすごく良くできていて、登場人物の感情の流れにいっさいの矛盾がありません。そして特に、年かさの男性たちにまつわる挿話には、どれもグッとさせられました。社内の喧騒から離れて定時退社する初老の男性が、じつはかつてのスーパーアニメーターであり、彼の働きがプロジェクトの危機を救う話には思わず涙がこぼれました。世代の分断が声高に叫ばれ、被害者だからこそ、どれだけ横暴にふるまっても許されるという態度が横行する中、本当に力のある年配の人物ほど節度を保って出しゃばらず、ただ静かに終わりのときが来るのを待っている。そういう人物を見出して組織の現在に関与させ、「だれひとり排除しない」ことが、結果として大願の成就へとつながっていく。拙作「MMGF!」を読んでもらうとわかると思いますが、こういった組織人たちの協働の様子は、私の内側に強い感動を惹起するようです。もしかすると、指輪物語の「もっともとるにたらない者から、もっともいやしい者へとかけられた小さな情けが、世界を救う」というあのモチーフにも、影響を受けているのかもしれません。特に現実では相手がだれであれ、人を粗末に扱っていいことなんて、ひとつもありませんからね(オマエが言うなって顔してる)。また、寡作で知られる背景美術のレジェンドが、「映画監督になりたかったけど、誘われてこの仕事を始めたら面白くなって、気づいたら三十年も経っていた」みたいな独白をするシーンがあるんですけど、まさに仕事の本質を言い当てている気がします。世間に言われているほどには、人が仕事を選べることはまれで、仕事が人を選び、やがて人が仕事そのものとなる。私はそのプロセスをずっと傍観する立ち場にあり、とても腑に落ちる感覚だと思いました。特に文系クソ仕事に従事するだれかは、人間関係の中でしか何者かにはなれないのです(理系のアナタには、この自己決定権の無さを想像できないでしょう)。

 話は大きくそれますが、今回FGO第2部6章を読んでいてガツンとやられたのは、敵が主人公を評した「君より強いヤツや賢いヤツはいくらでも見てきた。けど、君ほど運と仲間に恵まれたヤツはいない」という言葉です。これはたぶんファンガスの自己認識である(だから、大金が転がりこんでも手が止まらないし、狂わない)と同時に、「強くて、賢い」ことだけを追求する、最近のSNS界隈における風潮へ向けた遠回しな揶揄のような気がしました。そして隙あらば自分語り、私には運も仲間も無いので、ずっとどこへも行けないまま、インターネットに幽閉されているのです。

 話をSHIROBAKOへと戻しますと、最終回の手前である漫画家が吐露する「主人公が本当に立ち直れるのかどうか、僕にはまだわからない。もしかすると立ち直れないかもしれない。だから、アニメでも簡単に立ち直らせてほしくない」という言葉、これこそすべての創作者が持つべき視座ではないでしょうか。言葉というのは世界認識の道具であり、我々は抽象と具象、直面する様々な事物に言葉をかぶせて個人的な理解の文脈を作る。それは目の前に事物が存在しないフィクションを物語るときも同じでしょう。事物が無いから自在に曲げることができるように見えるだけで、現実と同じく制約は確かに存在する。シンエヴァ(いい加減にしたら?)は、具象に対しては丁寧にセットを作ったり入念なロケハンをしながら、人間の心という抽象に対してはそれをしなかった。声優に「シンジを立ち直らせたいんだけど、どうやったら立ち直ると思う?」なんて聞いている時点ーー「立ち直れない」なんて選択肢はハナから無いーーで、作品の失敗は約束されていましたね。

 物語の後半、コミュニケーションの苦手な吃音ぎみの女性アニメーターが出てくるんですけど、どうしても「外見が可愛いから許されてるし、成り立ってるように見えるんじゃねえの」って気持ちになってしまいました。アニメ制作会社の実態と男性の関係者たちが非常にリアルに描かれる一方で、女性キャラクターたちについては虚構内のデフォルメによる手加減があって、否応に「美醜の問題」を想起せざるをえません。解決する必要もないんですが、モエ・アニメにおいては「醜」にまつわる苦悩や生じる問題が、女性サイドにおいてはいっさい脱色されてしまうのは、いつも引っかかります。特に本作は、アニメ制作の裏舞台を生々しく描いているので、男女の扱いのギャップが余計に気になりました。劇場版は未見ですが、「5人の美少女たちはアニメキャラなので、元よりこの世界には存在していませんでした」みたいなメタ・エンディングーー5人がいない制作会社の日常風景を実写で映して幕(エヴァからの悪い影響)ーーを迎えていても納得するだろう気分は、手放しで賞賛する裏側に少しあります。

 あと、車の挙動がいつも初代リッジレーサーなのは笑いました。それと、シナリオライターの「舞茸しめじ」って、ファンガスがモデルなの?

劇場版

 SHIROBAKO劇場版、見る。特に新しい登場人物が出てくることもなく、テレビ版からテーマの更新があるわけでもなく、蛇足感の強い後日譚でした。監督と原作者の対話で描き切ったはずの作品が、シリーズを重ねるうちに萌えというにはドぎついエロへと変じていったという顛末も、業界への批判に見せかけながら男性の観客に向けたサービスって感じで、「テレビ版の感動を汚すなよなー」って思いました。個人的な嗜好を言えば、終盤の上昇を演出するために序盤で大きく下降させるプラマイゼロの作劇は、あまり感心できません。

 しかしながら、キャラクターの内面をめぐって葛藤するシナリオライターたちの話は、涙腺にグッときました。ヒデアキに彼らの爪のアカを煎じて飲ませたいですね。まさに、この視点が存在しなかったからこそ、シンエヴァは珍奇かつ珍妙かつ滑稽な、自我のある等身大の人物をデフォルメたっぷりの人形に変じたあげく、赤子がそれらを両手につかんで幼稚な妄想を繰り広げる、「バブバブごっこ遊び」になってしまったんですからね! 劇中のセリフ、「不肖の弟子じゃない、商売敵だ」になぞらえて言うなら、「責任ある大人じゃない、オギャ丸バブ夫だ」みたいな感じですかね?(もうムチャクチャ)