猫を起こさないように
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映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」感想

 おもにエッキスで話題のプロジェクト・ヘイル・メアリーをIMAXで見る。以下は、原作を2周読み、物語の展開と科学的ギミックの詳細について、ほぼすべておぼえている人物による感想です。小説が記憶喪失の一人称による段階的な情報開示と科学知識への興奮でストーリーを駆動したのに対して、この映画は洋楽の懐メロをふくむ多彩なBGMと宇宙空間の映像美をナラティブに変えて進行していきます。舞台は基本的に宇宙船という単一の密室ですが、原作にはなかった全天型のプロジェクターを導入したり、音波生物の主観カメラをビジュアルで見せたり、一人称の独白による状況説明は地球へのビデオレターのていをとるなど、小説を映画として成立させるためのさまざまな工夫があちこちに見られます(ロッキーが使うドーム型の歩行器って、原作にありましたっけ?)。さらに、ふだんSF映画を見ないような観客のためにBGMは、かなり意図的な「いま何が起きていて、どう感じるべきか?」を誘導する情動のガイドになっていて、すこしうっとおしいなと思う瞬間はありました。しかしながら、小型ロケットで試料を地球へと送りだすさいに、ビートルズの”Two of Us”が流れだしたときにはブワッと涙があふれましたから、単に好みの問題なのかもしれません。

 また、センス・オブ・ワンダーを喚起する科学的ギミックの数々は、短いセリフや映像であっさり処理されていきますので、原作を読んでいないと意味のわからない部分が多くあるのではないかと心配になります。ざっと思いつくだけで、固体のキセノンが通常の地球環境ではありえないとか、宇宙放射線の影響でロッキー側のクルーが全滅したとか、相対性理論を知らないので余分の燃料を積んでいたとか、タウメーバがキセノナイトの分子構造をすりぬけたとか、初見の一般人(ノット・SFマニアの意)に作中の描き方でちゃんと伝わるのかには、はなはだ疑問が残りました。小説ではロッキーにとっての「食事と排泄」が、かなりデリケートな”種の問題”として描写されていたのに、映画では一瞬のギャグシーンとしてサッと流されてしまいますし、超重力惑星であるエリドに地球の宇宙船がどう着陸したか、あるいはしなかったかについても、既存の科学知識に照らして説明できないせいなのか、残念なことにオミットされています(これは小説でも、そう)。その一方で、一人称をつらぬいたがゆえに原作ではえがくことのできなかった”エリドの反対側”の結末をわずかばかりながら見られたのーーキセノナイト製の分身を地球へと帰還させるのには、グッときたーーには、かなり溜飲の下がる感じはありました。小さく重箱のスミをつついておけば、問題が解決したことを「赤背景から黒色の染みが消滅する十数秒」にあずけるのはあっさりしすぎていて、いささか大冒険のカタルシスを減じているようには思います。

 映像化されたプロジェクト・ヘイル・メアリーを見て、あらためて気づいたのは、いちどは70億人の同胞を見すてた者が、たったひとりの異星人のために、おのが生命を投げうつ決断をしたということで、私的な”良い物語”の条件である「始まりと終わりで、主人公がまったく別の場所に立つ」を、本作は物心ともにはたしていると言えるでしょう。こういった深い感慨をいだくのと同時に、昨今の世界情勢をかんがみるにつけ、たとえ地球滅亡の危機にさらされたとして、国家の枠組みを超えた人類の共闘は決して実現しないだろうという諦観もあります。作者のアンディ・ウィアーが続編の執筆を確約したとのことですが、本作のエンディングから時系列を延伸するのではなく、この世紀の名作が語り足りていない部分を「SIDEストラット」によって補完してくれることを望みます。

ゲーム「スターフィールド(開始20時間)」感想

 スターフィールドを黙々とプレイ中。あまりにも黙々と集中してやってしまうので、タイマーをセットしておかないと、つい大人の義務の遂行を忘れてしまうほどです。本作をまともに動かすには、原神のロード時間がいまや気絶するほど長くなり、崩スタは上から2番目の画質でもカクつくようなスペックではまったくお話にならないため、数年ぶりにデスクトップPCの新調にまでおよびました(「家電の更新を促すエンターテイメント」って、すごく昭和感ないですか?)。なんとなれば、Fallout3とNewVegasをガッチャンコしたtwo wastelandsに、決して人には言えないmodを大量導入し、もし人に言ったらヒかれるぐらいの時間を遊んだ生粋のベセスダっ子にとって、以後の10年をプレイし続けるだろうゲームにかける投資としては、むしろ安すぎるぐらいのものです。家庭内におけるエンゲル係数の教育費版が近年、急速に下落していることも、この昏いオタク趣味への蕩尽をあと押ししてくれました(背後には、眉間に深いシワを刻んで腕を組む家人)。これから語ることは、「バニラで数十時間」ーーDLSSを有効にするmodだけは入れたーーという来たる総プレイ時間の0.1%にも満たない、「高級スポーツカーの助手席に尻をのせた」ぐらいの段階での感想としてお聞きください。

 まず、ざっくりとした全体の印象を申しますと、居住性や快適性を犠牲にしてエンジンの排気量だけを馬鹿デカくしたアメ車みたいな設計思想のゲームで、チュートリアルはいっさい不在のまま、世界最速のインディアンよろしく時速300キロでいきなり真空の宇宙へと放りだされます。例えるなら、「オー、ボーイ! 新車を購入したとき、販売員がハンドルの説明をしてくれるっていうのかい? 『これは方向制御に関わる操舵装置です』って具合にかい? 違うだろ、ガレージでパパのジャンクをバラすように、手と身体で覚えるんだよ! どうしてもチュートリアルが必要だってんなら、それはたった4文字、『ベ・セ・ス・ダ』さ!」と、肩をすくめたレッドネック野郎にあきれ顔で言われている感じと言えば、伝わるでしょうか。ゲーム部分を細かく見てゆきますと、アインシュタインならぬベセスダ物理学に支配された惑星地表のプレイフィールは、舞台が北斗の拳ばりのポスト・アポカリプスだろうが剣と魔法の中世ファンタジーだろうがずっと変わらなかった感覚を、25年前からビックリするほど何も変えないまま踏襲しています。まさに「実家のような安心感」ではあるのですが、ここ最近はホヨバの人間工学に元づいたクッション性の高い低負荷な3D世界に慣れていたため、開始直後はガチガチの鉄みたいな座席に4点式のシートベルトで固定され、まばたきできないよう上下のまぶたに器具を挿入されているような気分にはなりました。それこそ、前頭葉へじかにアイアンクローを入れられているような頭痛と3D酔い未満の感覚がつきまとったのですが、人間の偉大なる視覚および認識補正の力でしょうか、気がつけばそれは消えていました。

 最初のクエストで「ベセスダで拾わねば…無作法というもの…」などとつぶやきながら、施設内の拾えるものをスキャン視点ですべて拾いまくっていたら、重量超過の酸欠状態となり、同行する無機物コンパニオンに「キミ、なんでそんな”物”に執着あんの?」とからかわれたのには、たいそうムカつきました。すべてのジャンクをクラフト素材に変換できると思いこんでいたのにまったくそんなことはなく、結果として「無駄な努力の総天然色見本」みたいな道化師ムーブだったわけですが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。そして、なぜかいつものV.A.T.Sシステム(Pip-Boy!)が搭載されておらず、それに代わる重力を駆使した戦闘ギミックは使い勝手がはなはだ悪く、アクション部分はアルコール中毒かつ反射神経の衰えた中年にとって厳しい内容なのですが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。また、シリーズの伝統であったはずの四肢欠損や全裸パンイチも削除されており、マッパの死体を吊りあげてゲラゲラ笑うことさえできませんが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。

 あと、新要素の宇宙船によるドッグファイトは、スターラスターの丸パクりだったFC版スターウォーズのミレニアムファルコン・パートを、なぜか彷彿とさせました。この宇宙船どうしの戦闘、何が起こっているのかサッパリわからず、何度も何度も撃墜されるムービー(これ、いる?)を見せられた結果、敵影を見た瞬間にワープで他星系へとガン逃げするようになりましたが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。それと、銀河と惑星間のファストトラベルをなぜか個人のバックパック積載量で禁じていたり、光年単位の移動が可能なテクノロジーを持つ文明なのに、惑星内は地図なしの徒歩移動のみという不便さ(せめてホバー車くらいは用意しといてよ……)ですが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。さらに、スターウォーズやスタートレックのような異星人との邂逅を求めて銀河をさまよっても、出てくるのは昆虫と爬虫類を足したような知性の欠落したクリーチャーばかりですが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。個人的にかなり衝撃を受けたのは、主人公の所属する組織のメンバーであるサム・コーの娘が、バニラ・ベセスダなのに生々しいリアル児童だったことです。これは欧米の倫理基準に照らして、四肢欠損ならびに全裸パンイチとトレードオフになっている要素なのかもしれず、だとすればプラスマイナスでプラスが勝っていると言えます。いまのところ、キャラクリで児童をプレイアブルにすることはできませんが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。

 ここ2年ほどで触れたサイファイは、小説なら「三体」と「プロジェクト・ヘイル・メアリー」、ゲームなら「崩壊スターレイル」と本作「スターフィールド」ですが、見事なまでにSF的宇宙観の「洋の東西」を対比する作品群となっています。すなわち、東洋では「気の遠くなるような”縦”の時間軸での広がり」にセンス・オブ・ワンダーを感じるのに対して、西洋では「気の遠くなるような”横”の空間軸での広がり」にそれを感じるという点です。100年に一度、天女が舞い降りて羽衣の触れた大岩が砂となって消滅する時間を「一劫」と表現しますが、この過程を想像するだけでも、魂が肉体を離れて浮遊するような途方もなさを覚えます。一方で、物理的な速度の上限が秒速30万キロメートルに制約され、宇宙の辺縁はそのライトスピードを超えるペースで膨張しているという事実も、また同じように途方もない感覚をもたらします。もしかすると、この小さな惑星において100年を長らえない知性体の苦悩を、相対化の果てに無化してくれるスケール感が、SFなるものの正体なのかもしれないーーそんなことを考えました。私たちがこの矮小な人生において直面する困難も、いずれはすべてmodが解決してくれることを祈りつつ、スターフィールドについてのファースト・インプレッション未満な雑文を終わります。

 ゲーム「スターフィールド(1週目クリア)」感想

雑文「本邦のSF界隈、あるいは日本語ラップについて」

 本邦のSF界隈がその構成員の高慢と偏狭によって版図を失い続けてきたという指摘を、またぞろ自らの手で立証していると聞きおよんだ。

 以前いろいろしゃべったので同じ言葉は重ねるまいが、SFの本質って異文化コミュニケーションだと思うんだよね。知性の質そのものが異なっているだれかといかに意思疎通し、可能ならば共存の道を見つけようという試みがSFだって信じてるわけ。他者と意志を通わせることの困難さって、もっともミニマムな範囲でいうと幼少期に肉親とどうコミュニケートしていたか、その質がどんなものだったかが個人にとって大きいと思う。だから、どんな場でもだれとでも軽々とコミュニケーションしてのける人たちっているけど、うらやましいと思うと同時に、彼らはSFには到着しないだろうなって考えるわけ。個人としてコミュニケーションの不具を抱えているだれかにとって、SFっていう手段はすごい有効なセラピーっていうか、解決策っていうか、魂の癒やしだと信じ続けてきたわけ。

 今回の騒動だけど、わずかの想像力があれば改善可能だったシステムの不備を泣き言で看過し、かつ自分たちとは異なる文化土壌から来た存在をまずもって拒絶していて、どっちもすごいSFの本質とかけ離れたやり方じゃない? 思ったのは、ああ、やっぱりなー、日本のSF界隈から出たSFって本当の意味でのSFじゃないんだなー、ってこと。結局ジャパニーズラップと同じで、舶来の方法論を歪に模倣しながら、最後にはよそ者をだれも受けいれない土着のムラを形成するに至ったんだよね。ジャパニーズラップも、ジャパニーズサイファイも、国や人種を越えた偉大な虚構分野としてのジャンルに、何ひとつ影響を与えていない、何ひとつ還元していない時点で、もっと深刻なアイデンティティ・クライシスに陥ってしかるべきじゃないの? 結局のところムラを形成して、そこだけで有効な権威のボールをパス回しして、一定の満足を得ちゃったんだよね? ヒューゴー賞とネビュラ賞に国籍条項ってあったっけ?

 本邦の文化が持つ美徳と正反対の部分を極限にまで濃縮したものが、ジャパニーズ・サイファイ・ビレッジだという事実を再確認できたことだけは、良かったです。小鳥猊下でした。

アニメ「未来警察ウラシマン」感想

 いつのまにかHuluに未来警察ウラシマンが収録されており、のけぞる。私のSFマインドの30%は、この作品で構成されているからだ。

 社畜の悲しさ、第一話と最終回付近のみを閲覧する。二十余年を経て、脳内に相当の理想化と神格化が行われていたことを知った。質の高い昨今のアニメに慣らされた誰かの試聴に耐えるとは到底思えない。しかしそれらを理性で確認してなお、私は心を深く動かされた。ふだん気難しげに映画の感想などつぶやいているが、結局のところ作品の完成度なんていうのはさしたる問題ではなくて、人生の最も多感な時期に出会った作品へ、我々は雛鳥のように感動を刷り込まれてしまうのかもしれない。

 同工異曲のそしりも、人の死を終着とした生命の大いなる惰性の内側に、やがてすべて呑み込まれていく。