猫を起こさないように
FGO
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漫画「鬼滅の刃」感想

 いまさら、オウガ・デストロイング・ブレイドを読む。端的に言って、とてもおもしろかった。ひさしぶりに現実を忘れてフィクションに浸ることができたし、何よりいまを生きる子どもたちがこの作品を支持しているという事実に、胸を熱くさせられた。好ましいのは、人気の出た作品が長く連載を継続するために、設定や感情の隘路へと入り込んでいくのに対して、本作は乾いた筆致のまま、わずか二十巻ばかりの地点ーー昔人の感覚だと、これでもまだ長いがーーで物語をたたみにかかっているところだ。ジュブナイル作品は、子どもがその属性を失う前に語り終えられることで、その時代にしか心に刻むことのできない何かを永遠に彼らへ残すことができる。ネコ型ロボットや海賊ゴム人間やポケット内の怪物は、かつて子どもだった誰かが、己にとって重要だった感傷を後から来た小さな存在へ押し売りする装置と化してしまっており、言い過ぎを許してもらえるならば、ときに子どもへと害を及ぼしてさえいるように思う。

 さて、現代日本において最も重要な作品の一つであるFGOのテーマが「善と超克」であるのに対して、本作のそれは「利他と継承」だと指摘できるだろう(「快活なユーモア精神」も両者に共通している点だ)。善については、何度か話をしてきたと思う。この世界の半分は善で成り立っており、そうでないもの(悪とは言わない)と、常にほんのわずかの差異で過半の境界を拮抗している。そして、善は基本的に観測できない。新旧問わぬあらゆるメディアという間接的な秤では、微小な善の放出を測定することができない。十年、二十年と生活や空間を共にしてきた誰かが、ふとした瞬間に漏らす吐息のような形でしか、善を見ることはできないのだ。その、2つの主観が科学のような客観に転じるほんのわずかな一瞬にだけ、私たちは善なるが確かに実在することを信じられる。FGOで描かれる善は、この意味での善だ。宇宙の多くを占めながら極めて観測の困難な、存在を予想されたあの昏い物質のように、善は見えねど善はある。ファンガスを読むと、繰り返しの日常の中に消えていくその感覚が鮮やかによみがえる。そして利他もまた、善と同じ性質を持っている。特に、ネット上に蔓延する利他のような何かは、すべて偽りと考えていい。なぜなら、自己愛は言葉にできるが、利他は行為そのものでしか表せないからだ。そうそう、自己愛と言えば、「弱くて可哀そうな自分をいたわれ」と叫ぶ鬼の、見開きによる回想はすごかったね! 我が身をふりかえって身につまされたし、何より凡百の長期連載作家なら、あれだけで十週くらいは引き伸ばしそうだーーおっと、話がそれた。

 オウガ・デストロイング・ブレイドがこれほどの人気を博しているのは、キャラ立ちやアクションの魅力だけでなく、意識的にか無意識的にかは知らない、全編にわたって通底する「利他と継承」というテーマに子どもたちが共鳴しているからだと思う。老人は言わずもがな、「大人」を喪失したこの世界で、行動の規範を求める子どもたちが虚構のキャラのふるまいから、それを学べるのだとしたらーーもしかすると未来は思ったより悪くない方向へ進むことができるのかもしれない。

 ともあれ、クロコダイルか、その名前、確かに覚えたぜ! へへッ、ファンガスといい、とんでもないヤツらと同じ時代に生まれちまったもんだ……(十年前の黄ばんだ同人誌ーー善と継承がテーマーーを握りしめながら)

  現代日本における基礎教養とやらであるところの「ゴム人間」について無料公開を聞きつけて、幾度目の挑戦だろう、第一話からのマラソンを開始した。そして、これまた幾度目の中絶だろう、またも嘘P団解散後のバトルあたりで読むのをやめてしまった。あと、現代日本における常識とやらであるところの「王国」読破チャレンジにしても、コココの人が死ぬぐらいでいつも挫折してしまう。両者に共通するのは何かと問われれば、キャラの魅力とまでは言わない、主人公の強さに説得力を欠いている点である。すなわち、被ダメ/与ダメに関してシステム(=作者)の補正が強すぎて、フェアなバトルになっていないのだ。その点、話題のオウガ・デストロイング・ブレイドは、ゲーム的な想像力でバトルを組み立てていることもあってか、非常にフェアな攻防だと感じることができる。なぜ突然、こんなことを話しているかと問われたら、FF7Rの裏で某ミニの天外魔境2を少しずつ進めており、改めてシナリオの進行とほとんど一体化したゲームバランスの妙に、ひどく感心させられているからである。でも「人肉」や「オカマ」はOKで、「キンタマ」がNGなのは意味がわからないなあ、と思った。

 鬼滅、おっと、オウガ・デストロイング・ブレイドの最終回(と作者の性別?)が話題のようだが、この内容は読者やファンに向けられたものではなくて、作者自身がするキャラクターに対しての罪滅ぼしというか、過酷な結末を強いてしまったことへのねぎらいなのだと思う。一流の彫刻家や仏師が言う「素材の内側に元から存在しているものを削りだすだけ」「それが外へ出てくる手伝いをするだけ」といった感覚に似て、自分がどこか別の世界に存在するキャラの依り代となって、彼らの生き方を自動書記的に写し取るようにストーリーを紡ぐという語り手がいる(特に女性に多いように思うが、小説家なら中期までの栗本薫とか、漫画家なら高橋留美子とか)。この作者にはたぶん、虚構にすぎないはずのキャラクターたちが、現実の人間と同じ重さで実在しているように感じられているのだと思う(そして、その感覚が作品の魅力につながっている)。だからこそ、蛇足のそしりを受けてでも生命を賭して戦った彼らへ、最後に救いの安息を用意したかったのだ。別の書き手、例えばファンガスだったら死を死として、喪失は喪失のまま提示してーーそれでも、網膜を焼く生の輝きを残しながらーー終わっただろうが、これは優劣の話ではなく、資質の違いだとしか言いようがない。私は、この結末を肯定する。最後までおのれの子らを商品として差し出さず背後に守り切った、生むものの矜持に拍手を送りたい。

 正直なところ、これまでツッタイーではニュースをななめ読みするぐらいで、自分のツイートとそれに対する反応にしか興味は無かった。しかしながら、「いいね!」を解禁して他者のツイートをじっくり読んでみると、興味ぶかくないこともない。最近は、どいつもこいつもオウガ・デストロイング・ブレイドの人気にあやかって関心を得るため、興味もないのに言及しまくっているのがほほえましい。もちろんインタレスト・ルンペンである私もあやかりたいので、諸君のツッタイー仕草に従うこととしたい。

 以前、鬼滅の刃が子どもたちに人気を博しているのは、「利他と継承」というテーマへ向けた無意識の共振が理由だと指摘した。「大正浪漫」「不老不死」「吸血鬼」「太陽の克服」「剣術」「呼吸法」といった、少年漫画的に使い古された題材を用いながら、私が突出してユニークで魅力的なモチーフだと感じたのは、「善悪を超越した巨大な才能の存在」である(才能はある閾値を超えると善悪の分別を超越する)。じつを言えば、ツッタイーで月曜日に行われるネタバレでこのキャラを知ったことが、作品に触れてみようと思うきっかけであった。究極の生命体と多数の人間たちによる争いの構図が、一個の天才という集合へ要素として包括されており、彼は世界を鳥瞰する神の位置にいながら、自らの才をつまらぬものと断じ、おのれの人生を失敗だったと悔いている。才能とは、「なぜ他人にはこんな簡単なことができないのだろう」「こんな児戯に賞賛や報酬の生じることがむしろ申し訳ない」と思える何かのことで、作中の彼のふるまいは正にこれを裏書きしている。賛否両論の最終回も、「永遠の生命」と「究極の天才」だけが輪廻から外されていることを暗に示すためだと考えれば、諸君の解釈も変わってくるだろう。いまなぜか、かぐや姫の物語を見たときの感想に、「つがいを得て子を成したものが地上で輪廻の輪に乗り、そうでないものたちは月へと帰る」と書いたことを思い出した。

 ところで、ほんの二十年ばかりテキストサイトを続けるだけの簡単なことを、閉鎖したり商業デビューしたり生命を落としたり、なぜみんな実践できないのだろう。金銭が発生したことのない文筆はこの世に存在しないも同じで、結局、私はテキスト書きとしては失敗した。その深い悔恨を抱いて、生きている。

ゲーム「FGO第2部第5章」感想

 FGO第2部第5章、ぼつぼつ進めてる。導入はさすがの面白さだったのに、いまアルゴノーツご一行あたりだけど、びっくりするほど低クオリティでイライラしてきた。おそらく、中盤はファンガス監修の手が回っていないんだろうな、と思った。後半の巻き返しに期待します。

 FGO第2部の最重要イベントであるドクターとの再会と、あれだけ強キャラを強調してきたカイニスの消滅を、こんな低クオリティで済ませてしまっていいの? 章の冒頭でブリテンの空想樹が伐採済みだったり、ファンガスに健康面で重大な問題が生じたか、生存を疑わせるレベルで深刻に心配なんですけど!

 FGO第2部第5章、いまのところ全体的にすごいどうでもいい。でも、これまでにすごい課金してるから、しかたなく読まされてる感じ。望月千代女も、別人レベルでキャラがちがってて、見ていられない。月商・百億円でこのていたらく、ひどい。

 え、ギリシャの神々が機械って、そんな設定どこに書いてあったの? 唐突すぎて絶句する。もうさっさと終わらせたいのに、言葉が汚い上に話がチンタラしてて、続けて読む気になれない。このマンぐり返しみたいなキャラ推しも、いい加減うざい。

 ふつう、あれだけハードル上げた最強万能キャラの章なんだから、ファンガスが書くだろうと思うじゃないですか、ふつう。第5章、これまでのところ、課金する気が1ミリも起こらないことだけが唯一の美点。何年でも待つので、ぜんぶファンガスのライティングでお願いします。

 そっかー、ナノマシンかー、さくげきじょうのもうてんだったなー。ナノマシンなら、おちんちんだけじゃなくって、せんすいかんもおっきくなっちゃうのは、なっとくだよなー。しょうがないよなー、ナノマシンだもんなー。よい大人のnWo 枯痔馬酷男(3)

 FGO第2部第5章、気難しいテキスト目利きの諸君は嫌気がさして、読み進めることをあきらめたのではないかと思うが、クライマックスでまたファンガスの魔力がテキストに戻ってくる。第24節までを全スキップしてもいいから、第25節以降だけは読むといい。第24節まではキャラ全員が同じ自意識と語彙(汚い)レベルで繰り広げるワンピース的な胸やけ感動(仲間、絆、恋、ヤンキーなら泣く)の押し付けに辟易していたが、第25節の後半を境に質が変化した。オリオンの最期に至るくだりは、卑小な日常を越えた人間の高潔さーーそして、愛ーーへの賛歌であり、正しくFGO的なメッセージだった。その監修の確かさに、ファンガスへの信頼を改めて厚くした。彼ならばきっと裏切らないだろうという期待こそが、このゲームを続けるもはや唯一の理由である。この一節への敬意を表するために、いくばくかの課金をしようと思う。ブラヴォ、FGO! ブラヴォ、ファンガス!

 あれ、でもエウロペ? エウロペはどこへ行ったんですかァーーッ! またボクをだましたなッ、ファンガスゥーーッ!

ゲーム「グリムドーン&FGOクエスト」感想

 令呪(れいわ)! 小鳥猊下であるッ!

 最近ではもっぱら、グリムドーンをプレイしている。ディアブロ2の良い部分をディアブロ3のシステムで再構築した感じで、プレイフィールがたいへんによろしい。正直なところ、ラダーとかシーズンとか、充分なプレイ時間が確保できない社畜にとって、先頭集団に追いつかねばと気ばかり急かされる辛い要素でしかない。それがないだけで、たいへんに心やすまる。世間的には周回遅れであろうと、自分のペースでポツポツ進めることができるのは、ありがたい。

 「気ばかり急かされる」つながりで言及しておくと、今回のエフジーオーのイベントと恒例のエイプリルフール限定アプリを順に体験し、私はなんともそら恐ろしい気分にさせられた。プログラマの技術力よりファンガスの思い描く設計が優越する暗転まみれの大奥に、数ヶ月にわたる制作の労を24時間でご破算にするFGOクエスト。そもそもエフジーオーにもっともカネを落とす年齢層が、年度初めの平日にドラクエ1と同規模のゲームをコンプリートできるはずがない。ファンガスはそれをわかっている。わかっていて、かくあるべしという己の想いを優先しているのだ。クリエイターとしてのこの傲慢さは例えるなら、庵野秀明が描いた緻密な軍艦の絵を、夜間だからの理由ですべて黒塗りに演出した高畑勲の領域にさえ到達している。

 予言しよう。現在進行中の第2部が終われば、どれほどの収益があろうとも、どれほど皆が哀願しようとも、エフジーオーが二度と起動できなくなる未来を。そう、まさにエイプリルフール限定のアプリのように。

 私は、ファンガスのそんな傲慢さを愛する。逆にそうならなければ、彼を軽蔑するだろう。だからこそ、いずれは無に帰すこの沼へ、カネを注ぎ続けるのである。

 え、今回はどのくらい注いだんですか、だって? 一千万プレイヤーかつクリスチャンの俺様にとっては、十分の一税にも満たぬビー・ケー・シーに過ぎぬわ!

ゲーム「FGOセイバーウォーズ2」感想

 ハーロ・イーン(スクランブル交差点に蝟集するスカムどもを光線で右から左へなぎ倒しながら)! 小鳥猊下であるッ!

 エフ・ジー・オーの新イベント、エス・ダブユー・ツー、たいへんに面白うございます。常ならば時限式にしそうなところがそうなっていないのも、たいへんによろしゅうございます。さすがマッシュ(SW2準拠の呼び名)、感性の合うファンの声にはキチンと耳を傾けてくれる……(マーク・チャップマンのまなざしで虚空を見つめながら)。

 メリハリのある展開に、キチッとした文章でクスッと笑わせてくれる、正しいギャグ時空。実のところ、シリアスは少し文章が甘くてもそれなりに読めてしまう。だが、ギャグはそうはいかない。おふさげにこそ、確かな文章力が必要なのです。

 ただ、キャットが私にはそろそろ辛くなってきた。黒タイツの例の芸人、ホニャララ・テン・トゥー・スリーみたいに、行動の読めないキチガイ芸で売ってきたのが、登場を繰り返すうち、次に何をするのかわかってしまうのに似ている。嫌いじゃないけど痛々しくて、チャンネルを変えてしまう感じ。

 だが、これは批判ではなく個人のつまらぬ感想であり、エス・ダブユー・ツー、本編をのぞいてはひさしぶりの、エフ・ジー・オーの名に恥じぬハイ・クオリティ・イベントであることを俺様が保証しよう! 惜しむらくは、「よーし、今回はパパ、大目に課金しちゃうぞー」などとマン札のビラビラ、いや、マン札をビラビラさせていたところ、溜まっていた呼符と無償石で新キャラを2体とも引けてしまったことだ。

 マッシュ、すまぬ、すまぬ……ハーロ・イーン(スクランブル交差点に蝟集するスカムどもを光線で左から右へなぎ倒しながら)!

 ちゅーる(スベッたギャグが場を冷やし熱力学的死を迎えたことを表現する擬音)! 小鳥猊下であるッ!

 エス・ダブユー・ツー、ストーリー部分クリア。時限式への批判に対して、大量のアホ毛と賞金首を進行遅延として用意してきたのは、ゲーム的回答でとても良いと思いました。ラストでまた、いつものとんち合戦が始まるんだけど、女神の善悪に関するくだりは年を取ったせいか、上質な語り口もあいまって、ひどく心を動かされた。「人よんで」の傍点も、すごくいい。

 ただ、最後の最後、同格であるはずの存在同士に優劣が生じるくだりで、いつものファンガスなら「五十億と十四年、神ではなく人として育てられたわずかな年月がアナタと私を分けた」みたいな内容で、人間賛歌を絡めたネッチリとしたアロガント・ゴッド・ディスをおッぱじめたはずである。ワクワクしながら、普段は強固に締め上げている涙腺を緩めて待ち構えていたところ、しかしその期待は完全に肩すかしをくらい、至極あっさり風味で話を切り上げられてしまった。この部分だけは、濃厚豚骨ラーメンを期待して店に入ったら、戦時中のすいとんが出てきたみたいなガッカリだった。常のファンガスなら、間違いなく書いたはずの展開であり、日常生活ではありえない貴重な情動失禁のチャンスを逃し、寸止めにされた射精のような悶々とした不満をつのらせている次第である。エピローグのテキストなし紙芝居から推測するに、締め切りありきでライティングを追い立てられたに違いない。

 あのね、エフ・ジー・オーの最大の価値はファンガスの最新テキストーーつまり、リアルタイムの彼の思想ーーが定期的に読めることで、その他はいわばビッグワンガムの菓子部分みたいなもんでしょ! 周囲の悪い大人たちは目を覚ましてもう一度その原点に立ち帰って、すべての作業工程にファンガスのテキスト・クオリティを優先させなさい。猊下との約束だぞ!

 あと最近、電子書籍で「もっこり半兵衛」を読んでるんだけど、目を覆うような下ネタから、人間の本質へ鋭角に切り込む落差に、年とったせいもあると思うんだけど、ひどく涙腺を刺激されるんだよね。たぶんnWoと同じく含羞が理由の、「ターちゃん」「狂四郎」の昔から変わらない手法で、そのエログロさ加減からNHKの時代劇で原作に取り上げられるようなことは決してないにせよ、狭いがゆえに逆説的に、ある感性を持った人々にとってはより深い普遍へと通じていくように思う。今回のイベントを通じて、ファンガスの手法にも同じ側面があると感じたことを最後に付け加えておきたい。

ゲーム「FGOダ・ヴィンチちゃん礼賛」、あるいはガチャと運の管理について

 人生は、とても楽しい(バスタオルで両目を押さえてワッと泣き出す)! 小鳥猊下であるッ!

 昔からそうだが、長く苦しみを味わってきたはずの人物が最後の最後で伝える、生きることを肯定する言葉に本当に弱い。古典でいうならファウストの「時よ止まれ、おまえはいかにも美しい」がそれだし、グイン・サーガでいうならサウル老帝が「わしはいつも、生きているのがとても好きであったよ」ともらす場面なんか、読むたびに泣ける。

 「人生は、とても楽しい」ーーここまでの伏線を考えれば、ほとんど遺言のようにさえ響く。種火周回もこの台詞を聞きたいがために、わざわざシステムとやらを組んで彼女の宝具を連発しては、そのつど涙ぐむ日々である。

 キミ、FGOを愛しながら、このキャラがいないカルデアでアプリの終焉を迎えるつもりなの? ほんと、嫁を質に入れてでも引いておきなさいよ。 彼女が永久に失われる前の、最後の夏の強い輝きを、ともに喜ぼうじゃないの。そう、私たちの人生は、ビューティフル・ジャーニーなのだから!

 質問:小鳥猊下…ダ・ヴィンチちゃんマジで出ねぇっすけど…

 回答:「出る」のではない、意志をもって「引く」のだ。今回のような大きな機会をピンポイントでモノにできるかどうかは、貴君が常日頃から己の運をいかに管理しているかによるだろう。もしそれを行ってこなかったのならば、色川武大の「うらおもて人生録」を購入し、二度、三度と熟読せよ。人生における勝ち負け、そして運のなんたるかを理解すれば、次のピックアップでは必ず引けるにちがいない。とはいえ、貴君がツッタイーに貼り付けた、あまりにも漫然とした「爆死」画像群を見るにつけ、もう少し技術的なアドバイスが必要だと感じたので、そうする。『(巨デブが声音を作って)ーー五十連分の聖晶石があれば、ピックアップの星5は9割以上の確率で引いてみせる』。ありがたく拝聴したまえ。

 FGOのガチャは、ファンガスの素晴らしい文章を勘案してさえ、企業の強欲なる収奪を目的とした許しがたい倫理欠如(人類悪)である。実際、サービス開始からプレイしている古参にとっては、ピックアップ・サーヴァント以外のカードはもはや全く必要のない、文字通りのデータ・クラップと化している。いまや日本銀行券を直接シュレッダーに投入するが如きマシンと化したこのガチャに対して、貴君のように徒手空拳で当たるのは、ブルーカラー的労働(ドカチン)を資本家に搾取させることと同義だ。

 例えば一般に、ポーカーや麻雀は運の要素が大きすぎる遊戯と思われている。しかしそれらにも、最善の結果をたぐりよせる技術やセオリーが確かに存在するのだ。FGOのガチャはおそろしく勝率のしぼられたギャンブル沼だが、ポーカーや麻雀のような遊戯としてとらえなおせば、勝ち筋が見えてくる。「十連の内容(星4以上の出現数および礼装とサーヴァントの比率)をエクセルに記録し観察する」「フレポの星3サーヴァントおよび星5種火の排出頻度を記録し観察する」「強化時の大成功、極大成功の出現頻度を記録し観察する」、これくらいはやって当たり前である。もしひとつもやっていないとすれば、それは腹をすかせた猛獣の群れの中を全裸で歩くようなものだ。そして、「星4が礼装一枚の場合は連続では引かず、時間帯を変える。どうしても欲求を抑えられないなら、少なくともアプリを再起動する」ことも忘れてはいけない。

 さらに付け加えれば、貴君がクレジットカードの審査にパスできるほどの社会的な強者ならば、「課金をコンビニ等で購入するプリペイドカードに限る」ことも重要だ。繰り返すが、FGOのガチャはイカサマの横行する場末の賭場である。手放す日本銀行券の額面と生活とをリンクさせて失うものへの実感を持つと同時に、賭場を出るまではそれが紙切れと等価である状態を維持するためには、カード決済は後者に寄りすぎる。体感に満たない気配を細く細く積み重ねていけば、どのタイミングでガチャを回すべきかが見えてくるはずだ。ガチャを引く際の、自分のフォームを作ることが肝要なのである。どこで引けば星5ピックアップを引く可能性を最大化できるかのルールを決め、それに己を殉じさせる覚悟が、胴元の圧倒的に有利なーー運営(ビースト)の、十一連開始みたいな目くらましに騙されてはならぬーー賭場で胴元を出し抜くには不可欠である。

 最後に、「うらおもて人生録」から少し引用しておこう。『フォームというのは、これだけをきちんと守っていれば、いつも六分四分で有利な条件を自分のものにできる、そう自分で信じることができるもの、それをいうんだな。(略)ことわっとくが、フォームに既製品はない。自分で手縫いで作るんだよ』

 とりあえず、貴君の長年の忠誠に応えて、入り口部分だけは伝えた。これ以上を知りたければ、指定の口座に現金を振り込むか、棚ざらしとなっている萌え画像を寄贈するとよかろう。「描くと出る」らしいよ?

 質問:小鳥猊下が突如ガチャ必勝法めいたツイートをおっぱじめたが、まだまだ精度の低い初歩的な内容であるが、それでもそこに羅針盤を求めてのことだと思う。「ガチャ必勝法などと言う世迷いごとを言う暇があれば毎日ログインしろ!ログイン1日以上はリムーブ対象だ」と言われたことを思い出していた

 回答:喝ッ! 「必勝法」などという万人が利用可能なティップスぐらいに、色川御大の金言を矮小化するでないわ! 運を人為的に操作するのではなく、運を感得し管理することこそが重要なのだ! 貴様に足りないのは、「いかに負けるべきときに負けるか」の視点である。「必勝法」とやらで浮いた端金で御大の著作を百冊ほど購入し、致命傷を負う前に負け方を学ぶがよい。あとログイン間隔が一日を超えると、どんなカネのかかったアカウントだろうと即座にリムーブするのが、俺様のフォームである。このブラック労働に耐える自信があり、なおかつ俺様とエフ・ジー・オー・フレドンになりたいのならば、ディー・エムせよ!

 レベル100にした女史とする種火周回を通じて、例の台詞に心が動かされるのは、絶妙なラインを踏まえた演技(ファンガスの監修に違いない)もまた、素晴らしいからだと気づいた。ぬけるような青空の下、生命の絶頂がかすかに死の陰を帯びるーーすなわち、本邦に生きる者たちの心性に深く刷り込まれた「盛夏の滅び」への共鳴を惹起するには、あれ以上はしゃいでも、あれ以上おとなしくても、ダメだ。

 この意味で、スキルをまくときの「とても楽しかったさ」は少しマイナス方向へ逸脱していると感じました。

ゲーム「FGOイベント『閻魔亭繁盛記』」感想

 エフージオ、ジョンストン掘りの裏側で金リンゴをかじりまくりながら、閻魔亭クリア。いったんファンガスの胞子を浴びれば使い回しの汎用モーションで、ストーリー的にもイマイチ印象の薄かったフィン・マックールでさえ、ホラ見ちがえた。惜しむらくは、あっさりとチュチュンを引けてしまったので、この良イベントに対して十分だと考える課金ができなかったことであろう。

 人類の歴史がなぜ継続しているのかと問われれば、いまこの瞬間にも世界のどこかで名も無き人々が、すんでのところで人間の破滅を防ぎ続けているからである。そして破滅へと至らなかった事象は、だれの記憶にも残らず、どこにも記録されることはない。ちょうど小さな善意が、大きな悪意に先んじて日々のニュースを飾らないようにだ。本イベントにおける新所長の言動は、世界の破滅に対する我々の、無意識の善なるふるまいを代表していると言えるだろう。ファンガスがこの感じ方を共有しているのかは、わからない。ただ、共有しているように思えるというのが、私にとって非常に重要だ。

 僕の優雅な年末におし入って来た、この奇妙な慈愛のようすがそれからどうなったかというと、実はまだ続いているのです。

 「よい大人のnWo」なるサイトを年始の暇にあかせて読み返しているが、どれもこれも才気にあふれており、ひどくおもしろい。にもかかわらず、この人物はもう書いていないのだという。だれも彼に声をかけず、何よりだれも彼にカネを払わなかったことが原因である。私がエフ・ジー・オーにできるだけ課金しようと思うのは、そのうちのいくらがファンガスの懐に入るのかは知らないが、彼に書き続ける意志を失ってほしくないからである。痴人への愛という更新の登場人物が、次のように述懐している。

  「私ね、舞台に上がる前は奇跡が起きるような気がするの。もし、この舞台をうまくやり終えたら、みんなが私に拍手をして、そうして次の日からは誰からも愛されるように、誰からも必要とされる私になれるんじゃないかって思うの」

 とてもよくわかる感覚だ。そして、この気分をいつも裏切られ続けてきたことで彼女は摩耗してしまったのだろうな、と思う。昨年末に行った更新とその後の無視および無反応で、久しく忘れていたこの感覚を思い出した。だれかの目に少しでも留まるよう、最新の更新から気に入りのフレーズを紹介する。

 『そうだ、ウガニク。いまのインターネットはすべて偽物の、まがい物だ。テキストが魔法として機能した神代のインターネットは1999年まで、それ以降はただの言葉の下水道じゃないか。』

 『きみの汚い言葉は最高にきれいだった。ぼくの下劣な言葉は最高に美しかった。ぼくたちのテキストサイトには、確かなキュレーションがあった、審美眼があった。』

 『それがどうだ。回線は馬鹿みたいに速く安くなったけれど、いまや恐ろしい分量の美しい言葉ばかりが下品に乱雑に、かつて美術館であり博物館であった場所の床へ足の踏み場もないほどに、ただ放置されている。』

 『さあ、ウガニク。君のあとから来たまがい物どもを、ぜんぶ、ぜんぶ殺しつくしてくれ。』

 新年の抱負は、「バズる」「炎上する」。小鳥猊下でした。

ゲーム「FGO第1.5部第4章」感想

 ふぉりなー! ふぉ、ふぉーっ、フォアアーッ!! フォアーッ!! アビゲイルーッ! 俺だ―ッ! 結婚してくれー! 市井の一市民であるッ!

 え、セイレムどうでしたかって? セイレム……セイレム? ああ! 最終再臨絵が理想的な小鳥猊下の降臨アバターであるところの、アビーちゃんの幕間の物語のことだね!

 冒頭の空騒ぎにアガルタの匂いを嗅ぎつけ一瞬イヤな予感に満たされたものの、それ以降は第二部への伏線を散りばめながら、クトゥルフ物として適切な展開が適切な文章と適切な語彙の選択で展開していき、終盤を迎えるまでは正座したまま息を詰めて読ませていただいた。終盤までの展開は、新機軸の劇中劇と繰り返し言及される認知の歪みとのメタ的な仕掛けが驚愕のコズミック・トリックを織りなす結末を夢想させるのに充分だったし、時限式の物語解放は古風な探偵小説のような「読者への挑戦状」だろうと考えていた。

 アハハ、笑ってくれ、結果としてスマホゲーごときに期待値を上げすぎた私の方が愚かだっただけのことさ!

 ともあれ、昨年末の盛り上がりを考えれば、同じ時期にまた何かを仕掛けてくるだろうし、それがために繰り上がった〆切がアビーの幕間の物語の完成度を著しく下げたのだと想像すれば、この胸のモヤモヤも一種のライブ感としてかろうじて許容できるというものだ! それまでは、最終再臨絵が理想的な小鳥猊下の降臨アバターであるところの、アビーちゃんへ伝承結晶および聖杯を注ぎ込む作業を、傷つけられた高貴なるハートの慰撫としたいと思う。

 しかしながら今回の伏線から判断して、第二部がネルフ・バーサス・戦略自衛隊の如き、カルデア・バーサス・人類にならなさそうなのは、残念なところである。

ゲーム「FGO第1.5部第3章」感想

 やったッ! ようやく来た、ホンモノ来たッ! 市井の小鳥猊下であるッ!

 エフ・ジー・オーの素晴らしさは、マネタイズできなかったがゆえに緩やかな枯死を受け入れざるを得なかったテキストサイト群に対して、ある種のアンサーたりえているところだと信じておる! ツッタイーに駄文と春画を垂れ流す有象無象の裏に同じ数だけ潜む、気難しい沈黙のテキスト目利きを唸らせ、正しい意味でのパトロンとしてカネを払わせたのだ! 無名の鑑賞者が持つテキストへの審美眼を信じており、それに対して真摯だったからこそ、昨年末から本年の当初にかけて、エフ・ジー・オーはソーシャル・ゲームのスターダムを駆け上ることができたのだ!

 しかし、この十ヶ月というもの、アガルタに代表されるスタンディング・クラップを監修無しに提供し続けるなど、一度はエフ・ジー・オーを信じた目利きたちを侮辱し、愚弄し続けてきた! アーリー・アダプターは同時にアーリー・リーバーでもある! 最もコアな層が最初に見限り、彼らが醸成していた熱気に寄せられていただけの、本質の見えぬスカム・バグどもが、いつの間にか消えていた熱にようよう気がついて最後に離れる、その過程がソー・コールド、ブームの正体なのだ! 正直なところ、復刻、復刻、クソアガルタ、クソ水着二部、そして復刻の流れ(言い忘れたが、原作を知らないセラフは素晴らしかった)の中で、日々エイ・ピーを惰性的に消費することへ嫌気がさし、もう二部を待たなくてもいいかなと思いはじめていたところだった!

 やったッ! ようやく来た、ホンモノ来たッ! オイ、剣豪七番勝負すげーおもしれーよ! 物語的に役割を終え、二次創作的にも消費され尽くした盾女が出てこないのもすげー好感度高い! 何よりかつてのギャルゲー、テキストゲーを丹念に読む手触りを想起させるのが素晴らしい! まだ最後までクリアしていないので、俺様の実存と御言葉を求めてやまぬ貴様らを置き去りにしてプレイに戻るが、最後に予言しておく!

 次作、カイロ・レンは母を殺せないことでライト・サイドへ立ち返り、レイはその強大なフォースゆえにダース・ベイダーと化すであろう! 万人を鏖殺(FGOの影響だ!)し、何人の反撃も受けつけぬ暴力を得たとして、貴様はそれを行使しないほど強い倫理や信仰を持つことができるのか? エピソード1~6がアナキンの物語であったように、レイは新しいサーガの主人公となるために、出自の知れぬままダークサイドへ堕ちるしかない。

 市井の小鳥猊下であった。センキュー、センキュー!

ゲーム「FGO第1.5部第2章」感想

 6章、7章、終章、新宿と来て、この内容で大丈夫と判断したクオリティ・コントロールの甘さにびっくり。たぶん2章、4章を書いたのと同じ人だと思うんですけど、すいません、もはやドラゴンボールのチャオズ的存在に成り果ててますので、この辺で置いていくべきではないでしょうか。

 血の通わない、実感に乏しい語彙を並べるだけの、腐臭放つ壊死したテキスト群。ハンターハンターの最新刊を読んだ直後なので、余計に鼻についたのかもしれませんけれど。もし関係者の目に届くならば、どうかお伝え下さい。この内容を許容することは、FGOの終わりの始まりであると。

 終章で姿を消す重要人物へするニガーの言及に、ガワだけ同じ後輩キャラもどきがする「てめーは俺をおこらせた」発言、FGOを愛する真摯なファンがその瞬間ライターへ感じた気持ちをこの上なく的確に代弁しており、アガルタの女のメタ・アンチ・クライマックス。

ゲーム「FGO第1部第6章」感想

 じつはさー、ちょくちょくフェイト・ゴーやってんだよね。ケイタイの、課金するやつ。え、以前ちいさい画面でするゲームは死ね、滅びろ、みたいなこと言ってませんでしたか、だって? バカヤロウ! それはロスにサラウンド完備のシアターを併設した大邸宅を持つところの小鳥猊下将軍様のことであって、その分霊たる俺様には何の関係もないことはない!

 で、どうしてフェイト・ゴーはじめたかってえと、かつてnWoにトップ画像を寄贈したことのある、十数年前に一度オフ会であっただけのソウルメイト、カルメン伊藤女史がすごい楽しそうにツッターイ・ウォンカムラオで語っているのを偶然見たからなのであった。ネットで影響力を持つインフルエンサーに弱いエクス・アルファブロガーの俺様は、たちまち流行りに飛びついたというわけさ! サンキュー・フォー・アスナ・イトー!

 そのフェイト・ゴーってアプリ、スーファミ時代のRPGの戦闘だけに特化したみたいな作りで、懐かしい感じもあってダラダラ続けてたワケ。でさ、このゲーム章立てになってて、ふた月にいっぺんくらい新しいストーリーが配信されんの。導入部こそ引きこまれたものの、まあずっと安定してつまらなくないこともないわけ。んで、こないだ第6章だったかが追加されて、ちんちんさわった手で画面に恥垢の指紋つけながらプレイしはじめたのよ。そしたらさ、一時間後くらいかな、アルコール不織布で画面をぬぐって、居住まいを正しながら石鹸で洗った指先でプレイするゴスロリ少女がそこにいたわけよ。

 第6章を担当したっていうエッグプラント・ファンガスだけど、人類に共通する高い普遍性を語ることができる稀有の人材なのよ。その普遍性が一部の世界文学しか持ち得ない域に達しているにも関わらず、エロゲーやらスマホアプリやらに惜しみなく廃棄していく様子は、かつてテキストサイトなる廃文院に至高の世界文学を廃棄し続けた小鳥猊下を重ねあわせちゃうね。例えるならエッグプラント・ファンガスは、昆虫食専門のフードファイターみたいなもので、彼が食べるとき、ゴキブリさえも視聴者の目には極上の飴細工と映ずるぐらいなの。んでさ、技工だけじゃなくって、恐ろしい量の昆虫を食べることだってできちゃう。なのにさ、ジャンルそのもののニッチ/ゲテモノぶりが、彼を老若男女が視聴するメジャーのスターダムから否応に遠ざけてるんだよね。同じ界隈にいたエンプティ・アビス・ブラックは、無垢な存在のサクリファイス、汚濁が清浄に変換する一瞬のカタルシスという一芸のみで、メジャーの舞台から声がかかるようになったじゃん。なんで多芸のエッグプラント・ファンガスがマイナーの小屋に留められているのか、ボクには不思議でならないよ!

 え、ユア・ネイム・ピリオドで現在メジャーのスターダムを駆け上がっているシンカイ=サンは何に例えることができるかだって?

 それをボクに聞くのかよ! すでに評価が確立している高級店しか扱わず、おまけにひどいクチャラーなのに、食べ物を口に入れた瞬間に無難で適切なコメントを吐き出すことができるから重宝されているグルメ・レポーターという位置づけに決まってるだろ! あんなのと比較させるなよ! ボクだけが理解できる、エッグプラント・ファンガスの高潔が汚れるだろ!

 もうッ、また罵倒芸になっちゃったじゃないの! アタシに聞くのが悪いんだからね!