猫を起こさないように
FGO
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ゲーム「ヘブバン・Angel Beats!コラボ」感想

 ヘブバンの最新イベントを読む……というより、視聴する。コラボ先のアニメは知りませんでしたが、以前に指摘した「不老不死美少女フィギュアのマインドスプラッタ」は、このライターの性癖であることが確定しました。本編のほうは重要な設定を吐きつくして、今後の展開にはまったく期待できない袋小路のドン詰まりに来ていますが、やはりイベントにおけるギャグパートだけはハチャメチャにおもしろい。作者が関西出身ということもあり、くりだされるギャグとのシンクロ率は120%を優に越えて毎回を大笑いさせられてしまうのですが、この人物の書くシリアスパートがもうとことん肌にあわない。そのあわなさっぷりはシンクロ率ゼロを突き抜けてマイナスに突入するレベルで、今回のシリアスパートが長めの上、2部構成だったのには本当にまいりました。途中からもう画面を正視できなくて、ブラウザをゲームウィンドウーー容量の問題でPC版に移行済みーーにかぶせて「はよ終われ」と念じながらのネットサーフィン(古ッ!)を強いられる始末です。「高校生の想像する人生」や「大学生の思い描く家族」みたいな、社会人経験がまったくない人物の妄想に近いタワ言を一方的に聞かされていると、かつての泣きゲー人気の正味はじっさいこんなものだったのかという気分にさせられます。しかしながら、FGO第7章後半の感想で冗談みたいに書いた「2次元文化の成熟が生む新たなスピリチュアル」は、すでにヘブバンにおいて実現していることがわかりました。美少女動物園で語られる死生観によって成立したこの「美少女新興宗教」は、サイエンスフィクションへ中老年期の人生を仮託する「私小説ロボットアニメ」と同じ、人類の歴史に新しい展望を与える本邦でのみ可能な一大オタクタキュラー(なんじゃ、そりゃ)だと言えるでしょう。

 あと、今回のイベントを読んでつくづく考えさせられたのは、人生も半ばを過ぎるとだれしも「これ以降、もう決して手に入ることはないもの」が見えてきて、それらへの感情は「嫉妬」「執着」「無化」「諦念」のように様々な形で噴出するのだということです。そして、ヘブバンにおいて最も強く表出されている反応は、手に入らなかった対象の究極的な「美化」です。その「美化」の純度はあまりに高すぎて、例えば板垣恵介の作品において「母である以前に女である」が「女である以上に母である」へ反転する瞬間と同じように、ただの子どもに過ぎない少女を無垢無謬の天使の位置へまで称揚してしまっている。さらに言えば、FGOのシナリオ(onlyファンガス)が得意とする「醜いと断じられた存在から生じる美」や「砕かれた悪徳の残骸から惹起する善」の玄妙さと比べると、ヘブバンはあまりに無邪気に世界すべての真善美を「美少女の『個人的な体験』」へと還流させすぎており、「大人の責任」、もっと言えば「男性に課せられた義務」が微塵も、どこにも存在しないのです。しかしながら、この「小児的な無邪気さ」がギャグパートにおける「うんこちんちん」と同質の、狂笑を誘うセンスと骨がらみで表裏になっているのも事実で、これはじつに悩ましい点だと言えましょう。なんとなれば、私にとっての「いちばん好き」と「いちばんキライ」が一作品の中で同居するハメになってしまっているのですから!

 余談ながら、もしFGOとヘブバンに共通する志向性があると仮定するなら、それは「良い人間でありたい」という願いなのかもしれません。もう充分に古い引用になってしまいますが、無印銃夢に損壊した死体の写真、特に子どもの写真を撮りたくて戦場カメラマンになった男が少女を助けるため、銃を持った兵士の気を軽口で引いて近づいて、ついには射殺されてしまうという下りがあります。最近では、我々を駆動するのはこんな、「善への希求」のような強度を持たない、ほとんど突発的な「善への衝動」なのではないかと感じることがあります……オップス、ただのディスレスペクト・テキストなのに、あやうくいい話ふうなテイストでまとめそうになりました! ヘブバン、シラフのときはオヤジギャグでドッカンドッカン笑いをとる軽薄なイケオジなのに、アルコールが入ると激重トーンで反論も離席もゆるさない雰囲気を出しながら、「熱烈な恋愛の果て、愛するオンナと添い遂げるのが最良の人生」という単線の説教をオッぱじめるの、なんとかしてくれないかなー。それってさあ、ぜんぜんキャラクターの話じゃなくない?

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

ゲーム「FGO第2部7章前半」感想

 FGO第2部7章後半を読了。「育ちの悪い会社」だなんて、「だれかが非難や糾弾に用いる言葉は、その人が最も言われたくない言葉でもある」を地で行く育ちの悪いシャバゾーがチョーシこいて、本当に申し訳ありませんでした(土下座)。重課金者にとって愉悦のORT戦についてはすでにお伝えしておりますが、カマソッソさんが文字通りのゾンビアタックでこの難敵を単騎撃破したことを想像するとき、私のマナコとオソソッソはじゅんと熱くうるんできます。戦闘の合間合間に語られる挿話はどれも出色の出来で、アルコールが入っていたこともあり、ずっと号泣しながらプレイしていたことをまずお伝えしておきます。都市英霊の最期へ至る顛末は「勝ちがないのに、なぜ戦うのか?」という問いへ真正面から答えており、いままさに行われている地上の虐殺のすぐ傍らへ鳥瞰から舞い降りるような気さえしましたし、異霊プロテアの言葉なき翻心を描く下りには、「人は打算には打算を、気持ちには気持ちを返すものだ」という台詞を思い出して、夜中なのに強めの嗚咽がほとばしり出て近隣を騒がせたほどです。

 良質な物語だけが与えられる豊かな余韻に浸りながら、さらに思いつくまま7章での印象に残った場面をあげていきます。ある人物へ向けた「リーダーの器でないことを自覚しながら、必要な場面では逃げずに気持ちをふるいたたせ、必ず決断の責任を取る」という評が、個人的に深く胸へ刺さりました。存外「決める」ことのできる人間は少なく、それが組織や人の生き死にに関わるとなれば、さらにその数を減じるにちがいありません。社会の底から見上げる野党的な視点のフィクションばかりが横行する現在、意図せぬまま高所に立たされた者の責任と覚悟の気高さを描けるのは、FGOが空前の大ヒットとなったからこそで、他のスマホゲーでは表現のおよばない魅力だと言えるでしょう。じっさい、昨今のSNSにおける他責や他罰の有り様は見ていられないほどですし、学生の世迷言や貧乏人の私小説なんて、もう薬にもしたくないですからね!

 また、あるディノスの死に際しては旧エヴァの「彼の方がずっといい人だった。生き残るならカヲル君の方だったんだ」という告解を思い出しましたし、「フィクションには涙を流せるくせに、身近な人たちの死にはまるで不感症である」という自責の吐露は、己のことを言われているようでした。以前、「nWoに可能な愛と勇気の物語を」とスタートした小説に「紡がれるのがどのようなテキストであれ、私たちは本質的に小鳥猊下を読んでいるのです」という感想を寄せられたことがあり、当時は批判のようにも感じられたのですが、いまならばこの感覚はよくわかります。私がFGOに触れるときの態度がまさにそれで、本作を通じて「リアルタイムで追う最高の物語のひとつ」を体験しているのと同時に、「同じ時代を生きるファンガスの人生」を読んでいるのだと言えるでしょう。第2部6章が彼の歴史観や人間観を高い視点から集大成的に表現していたのに対して、この7章は王道的なストーリー展開でありながら、地に足をつけた彼の個人的な感覚や感情を引き写して、そこここに落とし込んでいるような印象を受けました。

 マーリンに代表される「現世と隔絶された、孤高の観察者」というモチーフには、生涯を語り部として過ごしてきたファンガスの人生と自意識が仮託されていると確信するのですが、今回の「星見の姫」はより解像度の高いリフレインとなっているように思います。これだけ多くのファンたちに求められている人物の自意識が、「与えられた環境からは離れて生きられない巨竜、その心はどれだけの時間を経ても成長せず、善悪の区別なく未来永劫を観察し続けるのみ」であることには悲しみにも似た、しんとした気持ちにさせられます。成長とは幻想であり、たとえ家族を持ち日々を仕事にやつしたところで、容れ物の外殻が厚みを増すだけのことで、たたえる中身が大きく変質することはありません。彼はあるキャラの幕間の物語において「生きることは、濁ること」と表現しましたが、その言葉とは裏腹に出力されるテキストは、ますます清明に研ぎ澄まされていくのです。この事実は私に、戦争帰りのトランペット吹きを書いた古い小説を想起させました。人を殺したために音楽から見放されたと嘆く黒人ペッターへ、乞うて一曲を吹かせたところ、これまでに無いような深い音を響きわたらせる。彼はその直後に、信じていた音楽から裏切られたと感じ、自殺してしまうーーそんな内容です。

 あと、「死徒」とか「直死の魔眼」とか、月姫リメイクアルク・ルートだけ読んで続きを断念した私にもかろうじてわかる単語を散見しましたが、「同じ部品で再構築しても、機能停止を一度でも通過すると再起動できないのが、生命の本質であり死の定義」という考え方は、初期作品での観念的な「書生の繰り言」から大幅にアップデートされた「魂の思想」とも言うべき何かへと至っており、「書き続けること、生き続けること」による長い時間をかけた変化を見ることができました。キノコの着ぐるみの中にいるファンガス本体はアラフィフぐらいだと推測しますが、この年代は論語とは違って天命を知るどころか、フォントサイズ100かつボールドの「惑」一文字であり、人生の残り時間が見えてくるからでしょうか、傍目には無謀に思える大転身をする方々がポロポロ出始める時期です。どうか社長を筆頭とする周囲の大人たちは、この希代のストーリーテラーが乱心して道を踏み外さないよう、最果ての塔の錠前をしっかりとロックして、物語だけをさえずるカナリヤとしての天寿を、彼にまっとうさせてあげて下さい。

 7章読了後に型月世界とやらのwikiを眺めていると、20年を塩漬けにされていた大学ノートの「最強設定集」が、FGOの大ヒットにより正史として語られ始めていることへ感動を覚えると同時に、これがコアなファンの内輪ウケに消費されるだけでいっさい世に出ないまま、書き手が寿命を迎える未来も充分にありえたのだと思うと、そら恐ろしい気分にもさせられるのです。もはや中身がスッカスカのアバターでさえ、「全5部作!」なるキャメロン翁の妄言を看過しているのですから、型月世界の膨大な裏設定をすべて預けられつつあるFGOなら、「全9部作!」くらいブチ上げてファンガスに残された作家人生へ明確なロードマップを引いても、だれからも文句は出ないでしょう。

 そして古希を迎えるあたりから、FGOが「世界の真実」を観念的なテキストで語る新しい宗教と化していったとして、それを2次元文化の成熟が生みだした新たなパースペクティブとして全面的に受け入れ、什一税のお布施も死ぬまでは欠かしませんので、関係者のみなさま、どうか何卒、なにとぞ!

ゲーム「2023年のFGO」雑文集

ゲーム「2022年のFGO」雑文集

 FGO第2部7章の後半を進行中。ORT戦が重課金ユーザーにとって考えうる最高のギミックで実装されており、やはりファンガスは私のnote記事を読んでいるにちがいないとの確信を深めた。クラス相性を眺めながら4枚あるNP100礼装で4回宝具を撃つ作業は、優雅なアフタヌーンティーを楽しむが如しである。低所得の無課金ないし微課金ユーザー諸君は、盾女(箱男の文化的待遇)の時間による復活をイライラ待ちながら、一週間ほどかけてチマチマORTの体力を削りたまえ。それにしても、サービス開始から7年を経て、いよいよ完凸カレイドスコープがBlack Lotusなみのやらかし感を放ち始めていますねー。

 そっかー、ククルカンがウルトラマンだったかー。いま、あらゆる予想が外されていく快感に酔いしれています。ジャンピング土下座の披露は、また後日。(上映初日に言わされてる顔で)FGOさいこー!

 星4が何体か出撃した時点でORT討伐終了。星5は無傷のままでした。もっと強くてもよかったんじゃないかなー。え、盾女(箱男の以下略)の復活って時間経過じゃなくて戦闘回数なの? 開始1年未満の初心者がストーリー読みたさでここまで来たら、明確な「詰み」が生じるんじゃない? 課金誘導なの?

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

 FGO奏章プロローグを読む。第7章をすでに読み終わったもっとも熱心なファンたちが、「ではまた、1年後にこの場所でお会いしましょう」と解散しかかるのに、「待った、待ったぁ!」と運営側(notファンガス)がチン入し、新商品のチラシをまきだしたみたいな感じですねー。第6章からにおわせてあった「プレイヤーと主人公は、イコールの存在ではない」ことが極めて不穏な形で顕在化してきていたり、7年にわたる人理救済の旅の結末へ向けて設定が再セットアップされたりするのを非常に興味深く読みながら、一方でどこかガッカリするような気分もあります。

 メタ的にFGOの現況を鳥瞰ーーうッ、「フカン」と書こうとすると頭痛がーーすれば、「最終章のライティングと実装」に向けたファンガス以外のライターによる時間稼ぎでしょうし、さらに言えば「第3部の展開と設定の詰め」と「原神クラスの新アプリ立ち上げ」のための準備期間だと指摘できるでしょう。つまり、ここから3章分は1.5部と同じく、失礼ながら「二線級のライター群による本筋とは離れた埋め草」である可能性が非常に高く、ファンガスのテキストだけを読みたい少数のファンにとっては、2〜3年の虚無期間が約束されたことと同義なのです。

 まあ、まいどまいど失礼かつ悲観的な予想ばかり垂れ流す当アカウントのようなすれっからしのファンを、一喝してシャキッとさせるような快作をせいぜい期待してまーす(中指の第二関節までを鼻孔に挿入し、寝そべりながら)。

ゲーム「FGO第2部7章前半」感想

 FGO第7章前半クリア。前後編へと分割した理由がボリュームでなかったことは残念でしたが、内容的にはさすがファンガスの筆であり、他の書き手を寄せつけぬ頭3つほど抜けたクオリティに達しています。ただ、第6章と比べると物語の展開が幾分リニアーで、語り口もわずかに雑だと感じざるをえません。さらに、サッカーW杯ネタを仕込んでくる節操のなさやパロディの多用、リアリティラインをギャグ方向に下げて危機を回避する手法など、全体としてのフィクション然とした雰囲気は少し気になりました。しかしながら、これは各界のスーパースターたちが様々な記録や偉業をうち立てたあと、あらゆるライバルが背景へと消え去り、やがて己の過去と己自身だけを行為の基準とする境地に、ファンガスが突入したからだとも言えます。

 そして古くからの型月ファンたちは、20年以上前の設定集から引っぱりだされたORTなる「ボクの考えた最強生物」に大興奮の様子ですが、FGOからの新参者にしてみれば、体内で核融合反応を行うというくだりはあからさまに例の怪獣を連想しましたし、冒頭に登場した光の巨人とU-オルガマリーがアーツカードを使うときの「デュワッ!」というかけ声は、M78星雲の宇宙人へのあきらかな目配せを感じました。おそらく第7章後半で、「ゴジラ対ウルトラマン」をやりたいんだろうなーと推測するときの気分が冷めているのは、版権が存在しない偉人や英雄には女体化を筆頭とした好き勝手の狼藉を働きながら、版権の切れていない既存IPには気づかれぬようおそるおそるアプローチするその手つきが、結局はどちらも同質の根を持つとわかるからで、同人活動に出自を持つ会社の「育ちの悪さ」をいまさらながら見せつけられた気分でいます。

 FGO第2部における世界の危機が、既存作品のパロディへのオーバーラップによって解消するのだとしたら、それは昔からの同社ファンを大いに喜ばせこそすれ、新しいファンたちを白けさせるものでしかないと、老婆心から忠告しておきましょう。かすかに匂ってきたメタの香りに不安を覚えつつも、第7章後半とそれに続くだろう終章を、いまは心静かに待つつもりです。前半で描かれた「ウルトラマンが人類を好きになる過程」は充分に感動的だったので、ここからは既存IPのオマージュから離れ、ひとりで高く飛翔することを願っています。

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

雑文「HEVBUNとFGO、そしてKANCOLLE+α(近況報告2022.12.3)」

 ヘブバンの新イベント進行中。前回の心霊イベントと同じく、うわすべりするシリアスパートが厚めでギャグにキレがない。「剣術免許皆伝で首斬り介錯人の女子中学生、しかしてその剣は非情ならぬ有情」みたいな設定を大まじめに語られても、わたし、こんなときどういう顔をしたらいいかわからないの。まあ、この作品自体が転スラならぬスラ転(スライムが転生したら美少女だった件)なわけで、いまさら目くじらを立ててもしょうがないことは百も承知です。……などとヘラヘラ譲歩を見せていたのに、イベント戦闘がオートで突破できない調整の上に、リトライのたび大幅な巻きもどしをくらうため、「はい、クソー」と叫んでスマホを放り投げて、3度目の引退が決まりました。セガサターン時代のゲーム制作者が、盤外で行われているコンマ1秒単位の可処分時間戦争にまったくセンシティブではない、ノー・アップデートの感性で実作に当たられているのは、端的に言って最悪ですね。

 そういえば、FGOのボックスガチャに併設してあったコンティニュー無し高難易度も、実装キャラの90%以上を持っているにも関わらずメンドくさすぎて、ひとつもクリアせずに終わりました。艦これイベント海域のカリカリにチューンされた甲難度もそうですけど、ゲームにまで求道的な要素を入れてくるのって、我々の国民性に由来してるんでしょうか。その点では、中年おたくがみんな嫌っている原神の「8割ぐらいの育成で、余裕をもってエンドコンテンツをクリアできます。時間と手間とお金をかければさらに強くなりますが、そこは各自の判断でご自由に」というバランス調整は、もはや昨今の世界標準であるような気がしてなりません。ホニャララ「道」という言葉の体現していた、かつては美点だった本邦の特性が、いまや反転して弱点と化してしまっているんじゃないですかねえ。

アニメ「艦これ第2期」感想(3話まで)

 艦これアニメ、第2期?の3話まで見る。2話以降、無視と称賛しかないタイムラインに、まったく感想が流れてこなくなった理由がわかりました。うーん、どうして毎回こうなっちゃうんでしょうねえ。最大限に譲歩したとして、10年近く提督をやってきた戦史研究家なみに太平洋戦争にくわしい人物が、1ページあたり3行しか書かれていないラノベの行間をスーパー早口のウンチクで埋めないと楽しめない感じが、全体にただよっています。前シリーズの1話に「クロモソームの少ない学芸会における気のくるった出しもの」みたいな書き方をしましたけど、本作での真っ暗な背景でキモいクリーチャー相手に美少女の上半身だけが動きまくる戦闘シーンは、「車椅子バスケの幕間で行われる残念なパラパラダンス」にしか見えません。9年目の古強者プレイヤーとして、何の素養もない一般人がこれを目にしたときの感想を想像するだけで、悶絶しそうになります。

 艦これのプロデューサーが自分の考えに固執するという意味で、ファンガスばりの超弩級おたくであることは有名ですが、初期の炎上に懲りたのか最近ではめったに表舞台へ姿を見せなくなりました。しかしながらその影響は消えるどころか、本作にも彼のブランド(焼印)からたちのぼる臭気がむせかえらんばかりに横溢しているのです。みずから構成と脚本までを手がけて、イベント海域の難易度調整のようにグリップをきかせているこの第2期?は、教室で自作のイラストノートをクラスメイトに取りあげられ、「へー、おまえこういうのが好きなんだー」と辱められるときの記憶、泣き笑いの表情で絶句するような感覚に満ちあふれています。だからさあ、ちゃんとプロの脚本家を雇えよ! なんでただの軍艦好きのアマにプロと同じことができると思ってんだよ! 出ッ歯を水平方向に突き出しながら、「ラノベやアニメの脚本ぐらい、だれにでも書けると思いましてー」じゃねえんだよ! ストーリーテリングは言語運用能力とは無関係の、ことほぐべき「異能」なんだよ! 幼少期のアガサ・クリスティの逸話を読んでこいよ! 小鳥猊下の挫折を20年も追いかけてきて、そんなこともわからねえのかよ!

 ……すいません、年甲斐もなく少し興奮してしまいました。あと、オープニングの曲も大作映画のエンディングがごとき壮大さで、例のプロデューサーの作詞らしいんですけど、あのさあ、なんでプロの(以下略)! ……非常にバランスが悪く、これを冒頭に配して毎回を聞かせる自己陶酔の雰囲気に、失敗の原因がまざまざと表れていると思いました。おたくが忌避されてきた理由の最たるものが客観性の欠如、いわゆる「空気の読めなさ」であることを、あらためて他者のふるまいから自覚させられています。何年もこんなゲームをプレイし続けているのが、とても恥ずかしいです。

雑文「虚構時評(FGO&GENSHIN)」

 日本でいちばん売り上げのあるゲームアプリの、日本語ネイティブによる拙劣きわまる文章にゲンナリする一方で、世界でいちばん売り上げのあるゲームアプリの、中国語ネイティブによる翻訳文体に陶然とさせられている事実に気づいて、日々おちこんでいる。

 前者のゲームアプリについて言えば、新邪馬台国のときにはタイムラインにあふれていたメンションやファンアートがパッタリと途絶えているのに、本イベントへの赤裸々な評価を見ることができるだろう。令和における批判や罵倒とは、積極的な無視や不可触と同義であり、もはやかつての地域差別と隣接した危うい場所にあることを実感させられている。また、現代の本邦においてもっとも個人の名誉に打撃を与えるのは、背任でも横領でもなく「性的瑕疵」であり、ファンガスはこの書き手に降板を切り出そうとするたび、過去の一瞬の過ちを頭文字F的な論法でヒステリックに蒸し返され続けているのではないかと、わりと深刻に心配している。

 後者のゲームアプリについて言えば、ちょうど稲妻国での冒険をひと段落させたあたりだが、2人の西洋人による諸国漫遊記という体裁をとりながら、璃月を「集団指導による豊かな繁栄」として描き、稲妻を「孤高の人による静寂と停滞」として描いたのには、我々の精神性にまで踏みこむ痛烈な批評としてあまりに図に当たっていて、思わずうなってしまった。特に雷電将軍の描き方が出色の出来であり、かりそめの肉体で心を使わぬ数百年の統治を続けながら、その精神は摩耗を避けるために「一心浄土」でただ瞑想にふけるーーこれはまさに、現世から分離されてインターネットという永劫を美少女として生きる小鳥猊下の有り様をメタファーとして語っているようでもあり、結界内で弥勒菩薩像の半跏思惟を解いて地に足をつけるシーンでは、この奇妙なシンクロニシティに背筋へゾッと凄まじいものが走った。

 原神、本邦の諸兄があまり聞きたくない話題のようなので、できるだけ言及を避けようとしているが、どうにも心のやわらかい部分に逐一クリティカルヒットを当ててくる感じがある。美少年・美少女のガワをかぶりながら大所高所から人理と社会を説き、美男・美女のガワをかぶりながら仲間の大切さと思春期のジャリの世迷言を吐く、どちらが好ましいかを感性の問題だけですませてはならないと思う。とりあえず、本邦のゲーム業界はもっと危機感を抱くべきだし、これに対抗できる集金マシンのFGOはしょうもない他の制作会社を併呑の上で、約束された勝利の次期アプリにおいて、原神レベルの規模感でのマルチプラットフォーム展開を目指すべきであろう。

雑文「創造暴走特急」

 原神、まだ第2章の影さえ見えていないのに、大型アップデート来る。しかも、ソウルハッカーズ2のリンゴたんと同等か、それ以上のクオリティで、大量の新キャラを追加しながら! 「ゲームは1日1時間」のリーサラプレイでは、「宇宙の膨張速度に追いつけない光」みたいになってきた。それにしても、これまでのゲーム制作で得た資金をすべてブチこんだ大バクチが図に当たり、アップデートのたびに11言語の話者たちから膨大な資金が流れこみ、それをまた世界の拡張にブチこみ続けるという、言わば「創造暴走特急」の運転席に座っているのは、いったいどういう気分なのだろうか。急ブレーキをかければ客車は脱輪して大事故になるし、眼前の線路は最後まで敷設が終わっておらず、終着駅がどこになるかも決まっていない。ファンガスのFGOもそうだが、映画「スピード」のような状況で、内発性を無視した創造を市場に強要され続けるというのは、人類史においても前代未聞の状況ではないだろうか。

「(激しく扉を開いて駆けこみながら)運転士!」
 「(血走った目で前方から視線をそらさず)なんだ!」 
「ここから100キロ先で、線路の敷設が間に合っていません!」 
「それで!」 
「この速度で走行を続ければ、1時間もしないうちに大事故です!」 
「だから!」
「速度を落としてください! 時速60キロなら敷設が間にあいます!」
 「そんなことをすれば、慣性で客車が先頭車両に激突して、脱線事故になる!」 
「しかし!」 
「80キロだ! レールの品質チェック工程をとばして間にあわせろ!」
「そんなことをすれば、客車に相当の振動が生まれます! 乗客からクレームがきますよ!」 
「脱線よりはマシだ! どうせもう、どんな乗車体験になろうと、だれもこの列車からは降りられない!」 
「しかし!」 
「(さえぎるように)返事は!」
「(苦渋の表情で)サー、イエス・サー! レールの品質チェック工程を省略し、時速80キロで間に合うよう敷設作業を進めます!」
「頼んだぞ! (慌ただしく出ていく背中を見送りながら)そう、オレはもう、この運転席から離れられない……立ったまま食い、眠り、クソも小便も垂れ流しだ……(憔悴した表情で)いったいぜんたい、どうしてこうなっちまったんだ……?」

 ……という経緯で、FGO第2部6.5章というリアル・クラップがリリースされてしまったのではないでしょうか(てきとう)。

ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOのぐだぐだ新邪馬台国を読み終わったけど、いやー、メチャクチャ面白いなー。あまりに面白かったので、ひさしぶりに大きめの課金をして、千利休を引いてしまいました。「各キャラクターにゆずれない自我と意志があり、ストーリーはその思惑の絡みあいで展開する」という創作の基本ーーシンエヴァとは大違いですね!ーーができており、緊張感のある台詞の応酬も端的なテキストでビシッと決まっている。ほんの短い、姿さえ見せない秀吉の描写にはゾクッとさせられたし、「観客視点からしかわからない敵の罠」という叙述によるカルデアの危機は、もしかすると第1部からここまでを通じて初めてじゃないでしょうか。物語の閉じ方にしても、ファンガスがFGOを通じて伝えようとしているメッセージを、深く理解した上でつむがれているのが伝わってくる。情感の部分もベシャベシャと水びたしになる前に、ダラダラとした余韻を廃してスパッと終わるのも、すごくいい。

 上質な読後感というのは、本を閉じた瞬間から読み手の心へとおのずから生じるもので、それをベラベラ言葉で誘導しようとするのは、書き手に自信のない証拠でしょう。あのね、登場人物のパーソナリティを把握できていないのと、「ファンガスと比較されてどう思われるか?」という恥をかきたくないばかりの自意識が、探り探りのライティングにつながっていて、ゴテゴテと無駄に華美な厚塗りテキストを際限なく増量させてるんですよ。もちろん、トラオムのことを言ってるんですけど、本当に心の底から大ッ嫌いなので、今後のガチャでヤンモリ(爬虫類)がすり抜けてこようものなら、すぐさまマナプリに変えると心に決めているぐらいです。いろいろと新邪馬台国の美点を上げましたが、やっぱりこれ、本業の漫画家としてのスキル特性によるところは大きいと思いますねー。第2部の商品価値を大幅に毀損した6.5章の、巨大数による茶化しではなく、正味で3億倍は優れた仕上がりになっています。有名なネットミームである「この利休に抹茶ラテを」にしても、6.5章の連中ならテキストの表面だけなぞって一瞬で面白さを蒸発させるところを、ギャグ漫画家らしくちゃんと話のオチに持ってきて、「わからなくても面白いが、わかればもっと面白い」につなげている。

 FGOにおけるファンガスって、スタジオジブリにおける宮崎駿みたいなもので、あの時代のエロゲー・オールドスクールの生き残りの中で、当時はどっこいどっこいだったのかもしれませんが、いまやひとりだけ圧倒的に地力がちがう存在になっている。世間一般における知名度で言うなら、まどマギの作者の方が高いでしょうけれど、創作を糧とする者たちは死んでも口にしない(できない)中で、ファンガスの一等地抜く存在をだれも暗黙のうちに了解しているように思います。え、面識もないくせに、なぜわかるんですか、だと? バカモノ! 批評の本質とは、当事者性から距離を保った想像力が現実を抽象化する道筋であり、もし当事者が見たままを書いたら、それはただのドキュメンタリーか内部告発になるだろうが! もっとも近年では、エス・エヌ・エスがすべての事象への「いっちょかみ」を可能にしており、あらゆる個人において当事者性からの距離が失われ、その事実をもって批評的な言説の成立を困難にしていると指摘できるだろう。なに、テキストによる批評の有効性を取り戻すにはどうしたらいいですかって? だれとも交わらず、なにとも接点を持たず、ただひとりの内側で言葉を発酵させること以外に方法はない。

 だいぶそれた話を元に戻すと、ぐだぐだの作者がFGOの中でこれだけ自由に動けて書けるのは、臣下たちが王の威光から離れて思考できないーージブリの雇われ監督たちと同じーーのとは異なった、「宮廷の道化師」ポジションにあるからかもしれません。第2部の残りはさすがにファンガスだけが書くーーほんともう、頼みますよ!ーーでしょうが、新アプリに移行しての第3部では、ぐだぐだの作者へ本編の一章を任せてみてはいかがでしょうか。さすがに6.5章のライターたちよりは、どれだけ悪い方向に転がっても、はるかにマシな仕事をすると思うんですよ。ビッグ・パトロンのひとりとして、心からお願いし申し上げます。

ゲーム「2022年のFGO」雑文集

ゲーム「2021年のFGO」雑文集
ゲーム「FGO第2部6.5章」感想
雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 どこかで深く信頼していたものから、シンエヴァのごとく裏切られた傷心を癒すためにFGOを起動すると、なぜか聖晶石が1000個(時価総額6万円)ほどボックスに配布されていて、今度は自分の気がくるったのかと疑いました。7周年ピックアップを見て、「まーた、この顔かよ」なんて微苦笑しながらも、身内優遇で性能がいいことだけは間違いないので、300個分ぐらいガチャを回したら、運よく2枚を引けました。んで、種火をつっこんで再臨させてから、ようやく「これ、月姫のキャラじゃん!」と気がついた次第です。うーん、オルガマリーをアルクェイドで倒すみたいな展開は、昔ながらの型月?ファンにとっては嬉しいのかもしれませんが、エヴァンゲリオンマトリックスの最終作みたいに、作中の困難やテーマを「キャラで解決する」エンディングになってしまうのではないかと恐れています。時代時代の「人間」や「世界」といった抽象を語りきるのが文学の役割であって、FGOは現在までのところ、ファンガスの筆でのみという条件はありながら、その域に達していると思うのです。何度も言及していますが、キャラと文学を両立させて終わることのできたジュブナイルは近年においてランス10のみであり、これらの妄言もFGOがそれへと続くことを心から願うがゆえの老婆心だとお受け止めください。

 FGO、やはりファンガス千年王国の礎を築いた母たる存在だからだろう、7周年記念のマザー・ムーンキャンサー(中黒の位置に注意)の異様に優遇された性能が使うほどにわかってきた。さらに言えば、今後の第2部クライマックスに向けて、シナリオでの最恵鯖待遇(なんじゃそりゃ)も間違いないだろう。そんなわけで、宝具3&スキルMAXの状態から、ベター・コール・ソウルの2周目マラソンと並行してレベル120まで上げたーー参考として、AP半減+大成功率UPで青リンゴ130個くらいで到達ーーものの、今度は宝具の威力に不満が出てくる。このマザームー、おっとマザー・ムーンキャンサーは宝具レベルに比例して威力が上昇する仕様であり、気前よく1000個も石を配布しているように見せかけて、星5キャラを5枚引く期待値とだいたい同じ数が計算づくで、プレイヤーに手渡されているのである。さらに、マザームーン・キャンサーのガチャは夏イベ開催の直前でちょうど終わることになっていて、無料石でガチャの気持ちよさを思い出させると同時に課金への抵抗感を下げてから、3体の星5水着を投入するというユニファイなチャーチばりの奸計が、善意を見かけとした裏に張りめぐらされているのだ。就職アイスエイジ・エラを出自に持つ金髪美少女である実存は、貧困層の常として短絡的な消費に我慢がきかないため、「乗ろう、あなたのイービル・集金スキームに!」と高らかに叫びながら残った600個ほどの石をブン回して、マザームーンのガン細胞野郎を宝具5にしてやりました。

 あと、例のファミ通インタビューを読みましたけど、業界にまぎれこんだガチのファンから矢継ぎ早に投げかけられる第2部6章に関する質問へ、まさに快刀乱麻、すべて明快な即答を与えていくのは、さすがファンガスだと感心しました(まあ、取材後の校正で追記した可能性もありますが……)。そのやりとりを生温かい視線でながめながら、かつて栗本薫が「ファンタジー小説を書くなら、作品世界の隅々までを熟知してないとダメ。もし何か聞かれて即答できなくても、『次までに、現地の生物学者に聞いておきます』ぐらい言えなきゃ」みたいな話をしていたのを思い出した次第です。そして、「長くサービスを続けていくために、開発の方法を抜本的に見直した」という発言から、第2部終了をFGOのそれとしない(できない)気配がただよってきましたが、第3部は所持サーヴァントと育成状況のデータごと、「古臭く」ない新アプリへと引き継ぐことを大いに期待しております(2回目)。

質問:小鳥、シンエヴァ呪詛は面白かったのにfgoはエアプが漏れてんな
月姫リメイクなんてクソオタクは買ってないのでアルクェイドは古参が騒いで回してるから回しとこ!のクソ短絡的なゴミですよ バカじゃなかったら温存してるか徐福引いてる
回答:いいですね、じつにいい! 最近のネットって凪いだ水面に清らかな水質って感じで、古参の泥魚にとっては棲みにくさに窒息しそうな場所ですが、湖底の泥の下には昔ながらのエゲツないクリーチャーどもが、まだまだ元気に生き残っているのですね! こういうこじらせたファンが現存してるのって、さすが30年を長らえた同人IPだなーって気持ちにさせられました(まさか、「ブドウ酸っぱい」じゃないよね?)。エヴァのことなら人後に落ちる気はまったくしませんが、月姫についてはリメイク(オリジナルは未プレイ)のアルク・ルートだけ、かろうじてクリアして投げてしまった程度の、文字通りの「エアプ野郎」ですからね! ぶっちゃけ本丸のFGOにしたところで、萎えていく気持ちをおもしろテキストで自家発電して盛りあげて、第2部の終わりを見届けるために、離れていく心を無理矢理つなぎとめるだけになってきているのです。ともあれ、テキストに残されたほんのわずかな瑕疵から、サトリの化物のようにニュウビイのエアプを見抜いてウザがらみする古参とは、あらゆる創作物のファンがやがてたどりつく、異形の終末なのかもしれません(エヴァ呪を読み返しながら)。

 配布石1000個でアルクェイドを宝具5にしたことはご存じのことと思いますが、話題のレディ・アヴァロンもなぜかちょこちょこ配布される石の無償11連1回だけで手に入ってしまいました。最後にFGOへ課金したのがいつだったか忘れるほど課金してないので、そろそろ課金したかったのになーと残念に思っている自分がいて、それを不思議な気持ちでながめております。まあ、残り2体の星5水着の性能に期待しましょう。型月ガチ勢の皆様にエアプの感想を漏らしますと、レディ・アヴァロンは劣化マーリンといった手触りで、宝具を重ねる意味もあまりなく、マザームーンとはちがって追い課金の魅力に乏しいキャラですね。ただ、顔がいい。顔だけは、すごくいい。なので、NP100礼装をつけた浴衣道満とアルクェイドで周回する際、レースクイーンとしてカタワらに立たせております。2騎3ターンでバトルは終わるので、レベル10にしたスキル群に指を触れてさえやりません。タイムラインによく流れてくる「ひとりだけ腕立て伏せをさせてもらえない」漫画のように、レディ・アヴァロンを精神的に痛めつけるのはゾクゾクします。

 いやー、それにしてもアルクェイドをレベル120宝具5にしたのは大正解でした! こういう大きな決断を躊躇なく下せるのは、まがりなりにもマネジメントを経験し、自由にできるカネがある大人の特権ですね! ムーンキャンサーの「ほぼ全クラスに等倍」という特性は、言い換えれば「弱点がない」ということですからね! さらに再臨2はバニヤンばりの高速宝具なので、イベント周回もストレスフリーです! 「充分に強化したアルクェイドは、全体宝具バーサーカーと見分けがつかない」というアーサー・C・クラーク御大の名言を引用することで、ニュウビイからパイセンへの反論に代えておきましょう。(熊フェイスで)宝具1か2のみんな、いまどんな気持ち? ねえねえ、どんな気持ち? (女児フェイスで)宝具3とか4でビビッちゃうなんて、ざこ、ざぁーこ! 上手にお願いできれば、(視線をそらし、頬を赤らめ、鼻の下を指でこすりながら)フレンドになってやってもいいんだぜ……?

 ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOの新イベント、開始5行でだれが書いたかわかり、ゲンナリして読む気をなくさせるって、逆にすごくないですか? スタートアップの黎明期に創業メンバーとしてまぎれこんだミソっかすが、大企業へと躍進したあとの重厚な広報誌に嬉々としてポンチ絵の4コマ漫画を寄せている感じ。きっとハイテンションで早口の、アゲアゲアッパーな女性なんでしょうねー。「そういえば、小鳥猊下がほめていたな」とFGOをいまさら始めただれかが、今回のイベントから読みだしたとするなら、恥ずかしさのあまり首を吊るレベルです。それに、今回の新キャラにせよ、ジャック・ド・モレーにせよ、書き手の力量に対して豪華すぎるメンツ(ポプテピピックじゃないんだから!)で、あまりにもったいない使い方だと思います。本編での活躍予定がないなら、早くファンガス再生工場に回さないと、ヨゴレが落ちなくなっちゃいますよ!

『生きるということは、
 即ち濁るということ。』

これぞ、茸再生工場の面目躍如となるフレーズ。 けれどトラオムは、「濁り」どころか「腐れ」。