猫を起こさないように
鳥山明
鳥山明

雑文「続・ドラゴンボールとはずがたり」

 雑文「ドラゴンボールとはずがたり」

 訃報を受けて、一時代の終わりを再確認するため、ドラゴンボールを最初からぽつぽつ読みかえしている。原作をどこまで熱心に追いかけたかは、前回お話しした通りで、アニメ版はZの途中くらいまで、後番組のGTは内容をいっさい知らず、数ある映画版は1本も見ていません。ちょうど引きのばしに入る前後ぐらいで離れており、言ってみれば、まさに少年漫画として理想的な時期での邂逅と別離をはたしたわけです。この黄金期の少年ジャンプに連載されていた作品の、二次創作かカーボンコピーにしか見えない近年のバトル漫画群に対して、本作が持つオリジナリティの優位性に再評価を与えるため、「やっぱ、ドラゴンボールはピッコロジュニアを倒すとこまでだよなー」などとツウぶった古参ムーブで1巻を読みはじめたところ、目をおおわんばかりの「悪い昭和」が全編にわたって横溢しており、のけぞった勢いそのままにひっくりかえりました。うっすらと記憶にはあったものの、有名な「ギャルのパンティおくれ」を代表として、あの時代の「エッチ」「スケベ」「ムフフ」ーー換言すれば、公の場で男性がゆるされると思っている性欲の吐露ーーが、風味づけのフレーバーをはるかに超えた、驚くほどに高い頻度でこれでもかと連発されているのです。

 令和キッズたちにヒかれないよう、ほんの一部を婉曲的にお伝えするならば、女性の外性器に男性が土足で接触したり、男性の頭部をあらわになった女性の胸部ではさんだり、識字教育と称して児童たちに官能小説を音読させたり、それらが作品から切除の不可能なレベルで癒着してしまっており、不適切にもほどがあるため、天下一武道会がはじまるくらいまでは、近年の品行方正かつ親の監視が厳しいキッズに対して、とてもおすすめできるシロモノではありません。それが、エロオヤジとしての自意識を亀仙人にあずけ、女子のパンツぐらいに過剰反応して、いちいち大量の鼻血をふきださせていたのが、物語の後半においてナメック星へと向かう宇宙船の中で、Tシャツとパンイチでうろつきまわるブルマの「もっとレディとしてあつかってよね」という台詞に、「だったら、パンツ1枚で歩きまわらないでくださいよ……」とクリリンがあきれて返すシーンには、結婚して娘を授かり、その女性の成長をひとつ屋根の下でともに過ごしていくうち、おとずれた成長と言いますか、変化と言いますか、人生の変遷を強く感じてしまうわけです。この「パンツに関する温度感の変化」は、「父としての悟空、母としてのチチ」とならぶ、本来フィクションにすぎないものへ漏れだしてしまった、作者その人の自我だと指摘できるでしょう。

 そして、ネットミームと化した「まだもうちょっとだけ続くんじゃ」の段階で、作者が物語の着地点をどこに定めていたかを推測するならば、主人公の出自が解明されるという意味でも、ベジータとの決戦までだと思います。これ以降、当初の予定を外れた引きのばしパートになっていったのだと思いますが、ナメック星でのストーリーテリングがそれを感じさせないほどよくできていたため、まるでひとつながりの美術品のように見えてしまったことは、もしかすると作者と読者と編集者の三方にとって不幸だったかもしれません。ここから入りこんでしまった迷路である、「攻撃手段は肉弾戦とエネルギー波の2つ」「強さの指標は物理的なパワーの多寡のみ」という、指数関数的かつ直線的なエスカレーションをどう回避するかという視点が、ジョジョやハンターハンターをはじめとする後発のバトル漫画を難解なギミックで複雑化させ、「永遠に語り続けること」を可能にしてしまい、結果として「少年漫画」というカテゴリを衰退させることへつながっていったのは、じつに皮肉なことです。

 ついでに、絵柄の変遷に関しても触れておくと、連載初期のアラレちゃん時代の延長上にある曲線によって構成された表現に始まり、ナメック星ぐらいからはあるアニメーターに影響を受けた直線中心の描線に変わってゆきます(世界中のファンが持つ鳥山明のイメージは、後者が優勢でしょう)。じつのところ、連載終了後にもう一段階の「変身を残して」いて、いま手元にあるのはジャンプコミックスではなく、2002年に刊行された「完全版」なのですが、新たに描きおこされた表紙絵は、どれもバードスタジオ所属の別人の手によるものと言われてもおかしくない、線に伸びやかさを失ったカチコチの自己模倣みたいになっているのです(自身の作風を3DCGに落としこむ過程だったのかもしれませんが、私の好きな作品とは何の連絡もない改悪なので……)。

 また、ドラゴンボールはかつての国民的RPGであるところのドラゴンクエストと、相互に影響を与えあってきました。アイコニックなパッケージデザインを順に見ていくと、「123がやわらかな曲線、456が力強い直線、7以降がCGのようなカチコチ」となるでしょうか。4のデスピサロが戦闘中に形態を変化させるのはフリーザからの逆輸入でしょうし、もしかすると6から導入された新たな転職システムーー「互いの苦手や弱点をおぎないあう」というパーティの概念をたたきつぶし、最終的に全員がなんでもできるスーパーマンになる、個人的に大ッキライな仕様変更(「ドラクエは5まで」派)ーーも、「スーパーサイヤ人のバーゲンセール」以降、強さの点でキャラクターの個性が消えてしまった状況に、少なからず影響を受けているのかもしれません。

 今回、ドラゴンボールをいちから読みかえして思ったのは、我々が訃報を受けて語っているのは「30年前に終了し、完成した作品」のことであり、その後の氏による細かい設定のつけ足しや、絵柄の好ましくない変遷のいっさいを見ない、「少年期の美しい記憶」をなつかしむような性質の言葉なのでしょう。この意味において、「ドラゴンボールは四十代、五十代のオッサンのもの」という若い世代から向けられる揶揄は正鵠を射ており、ぢぢゅちゅ廻銭(原文ママ)がそう呼ばれるようになる遠くない未来では、どんな少年漫画が流行っているのだろうかと、いまから楽しみでなりません。

雑文「ドラゴンボールとはずがたり」

 以前、一方的に好意を寄せていた面識のない恩人がご逝去された際、おずおずとお気持ちを表明したところ、「故人を利用して自分語りをすることの、なんという醜悪さか」みたいなエアリプを頂戴したことがありました。もう脊髄反射的な情動失禁は決してすまいとおのれを律してきたのですが、今回はゼロどころかゼット規模の訃報なので、すこしくらい昔話をしても太古の森の濡れ落ち葉くらいに目だたぬことでしょう。ドラゴンボールを読みはじめたのがいつだったのかは記憶にありませんが、リアルタイムで追いかけるのをやめた瞬間だけはハッキリとおぼえています。星ひとつを破壊するまでに至る、巨大なドラマツルギーの奔流を真正面から浴びる法悦のすぐ翌週、あれだけ苦労してたおしたはずの強敵がサイボーグになってシレッと復活しており、おまけに父親まで帯同して地球にやってきたかと思ったら、ポッと出の新キャラにたった1ページで斬り殺されてしまいます。これを読んだ瞬間、満面の笑顔は半笑いにはりつき、あれだけ毎週を心待ちにしていた気持ちが一瞬で冷めてーー昔から、そういうとこがあるーーしまい、週刊少年ジャンプの購読自体をやめてしまったのでした。

 その後の展開も友人や親戚宅の単行本などで読みましたが、意に染まぬ引きのばしを強いられているせいでしょう、次第に作者の生活感情が作品の内部へ混入するようになっていくのが気になったものです。具体的には、育児に関わらなかった父親が子どもの本当の気持ちに気づけないことをなじられたり、地球の命運よりも子どもの塾通いや学校の成績を気にする妻が夫をヒステリックに怒鳴りつけたり、週刊連載にかかりきりで莫大な稼ぎやファンから寄せられる思慕にも関わらず、家庭内では「いつも仕事でいない父親」として冷遇されているのではないかと、ひどく心配させられました(クリリンに「ひでえ、悟空だって苦労してるんだぜ」とかフォローさせたり、読んでてつらくなる)。長期連載による変節でいちばんワリを食ったのがこの牛魔王の娘で、男女の別なくオタクはみんな「感情的になってヒスる母親」を苦手としているため、かつて孫くんの冒険パートナーだった女性ーー「なーんだ、ぱふぱふとか、きょいきょいとか、いんぐりもんぐりとかされるのかと思っちゃった」「へ、へんたいだー!」ーーより、連載のある時期を過ぎてからは、二次創作などで取りあげられる頻度がずっと少なくなったように思います。マシリトの指摘するように、ナメック星で連載を終了できていれば、まちがいなく3作目の国民的ヒット漫画が生まれていたでしょうし、鬼滅の刃によって呪いを解かれるまで続いてしまった「固定ファンのついた人気作品は、物語の自走性やキャラクターの意志を無視して、10年でも20年でも連載を引きのばしてよし」という少子化時代の少年たちではなく大人たちのための、本邦の長い低迷を象徴するイビツな”勝利の方程式”を生む前例とならずにすんだのかもしれません。

 ともあれ、国家を越え、人種を越え、世代を越えた「精神のインフラ」とも形容すべき物語は、作り手の肉の実在から切りはなされた高い場所で、これからも地球人類が存続する限りは途絶えることなく、脈々と受け継がれていくことでしょう。そして、百年後の息子/父親も「このチチってキャラクター、なんだかママ/妻にソックリで好きになれないな……」という感情を抱きつづけるにちがいありません。