それほど熱心なファンというわけでもないので、一般客が一巡して落ちつくぐらいの時期に行こうと思っていたのを、めずらしく家人がしめした興味にうながされる形で、「鬼滅の刃・無限城編第一章」公開初週の劇場へと足を運ぶ。すべての上映回において、通常のシアターが予約でほぼうまっていたため、アニメ作品をアイマックスで見る恩恵は少ないと知りつつ、わずかに席の残っていたそちらを選択する(2人横ならびは無理だった)。ニュース等で「首都における初日の単館40回上映がすべて完売」などの状況を仄聞してはいたものの、じっさいに昭和の映画館と見まがうばかりにごったがえすロビーや、2700円もの単価で学生や貧乏人などの客層をスクリーニングするために利用する、ふだんは10人も座っていないアイマックス・シアターが、老若男女で満席になっている様子を目のあたりにすると、めまいのするような大衆的熱狂への実感がわきあがってきた。上映終了後、三々五々、席を立つ観客たちの感想戦に耳をそばだてるのも楽しく、女子中学生とおぼしき人物が友人にする「わたし2回目やけど、アカザが死ぬとこ、寝てて見られんかったわ」という、最高に中2病な発言をナマで拝聴させていただき、背筋がゾクゾクした。(ドウマの顔で)うんうん、わかるよぉ。あんな回想シーンに心をゆさぶられたなんて知られたら恥ずかしいし、学校でウワサになったら困っちゃうもんねえ、わかる、わかるよぉ(ちなみに、家人の感想は「日本のアニメってすごいねえ。スーパーマンが幼稚に見えたわ」でした)。
閑話休題。鬼滅の刃は、よい少年漫画だと思う。アクション描写が得手ではないゆえ、言語過剰になるという原作の弱点を、確かな漫画読みの目を持つ制作会社が超絶アニメーションによって補完ーー「アニメ版は下書きの清書」という評を見て、笑ったーーすることで、万人にとどく最強コンテンツにまで昇華した経緯も理解する。ただ、配信全盛のタコツボ時代に、ここまでの客を劇場へと誘引するような、社会現象となるほどの作品かと問われたならば、疑問符をつけざるをえないことも、また事実なのである。きょうは、この一種の巨大なフェノメノンについて、つらつらと思考をならべてゆきたいと思う。まず、すべての状況を言葉で説明するーー「歩きだした。どこへ行く気だ。止まったぞ」「左耳が聞こえなくなった。右手の感覚もない」などーーため、小学校低学年からアニメを見慣れない老人までのあらゆる観客が、100%同じ物語を受けとって劇場を去ることができるのは、小鳥猊下をふくめたすれっからしの”物語読み”が馬鹿にしがちな要素ではあろう。だが、「余白や行間を読ませる」しかけは、ともすれば創作サイドの自己満足になりかねない、知能と感性で受け手をふるいにかける行為でもある。この意味において、鬼滅の刃の作劇は「すべての”ご見物”を平等にあつかい、知性の高低で差別を行わない」とも表現でき、それが超ヒットの基盤を形成しているのかもしれない。
また、作品テーマとしては、以前にも指摘した「利他と継承」が挙げられ、無限城編第一章を見ながら、さらに感じた追加の主題は「感謝と報恩」と「家族愛」であった。これだけの人気を博すようになった原作も、週刊連載の常として、読者からの反響をさぐりながら展開をつど軌道修正しているため、全話を通して読むとブレている部分はかなりある。攻撃と回避の技術は「匂い」「糸」「透明」とたがいにつながりなく場あたり的に変遷するし、主人公の血統をほのめかしながらじつは赤の他人にすぎず、修得したはずの最強必殺技は完遂できないまま終わってしまう。しかしながら、ヴィンス・ギリガン作品に通底する「コズミック・ジャスティス」を思わせる、鬼滅世界のすべてをおおう、まったくゆるぎのない一貫したスキームは、たしかに存在するのである。「鬼にも鬼になる理由がある」「人を食った鬼は必ず退治される」ぐらいの指摘はすでに星の数ほどあろうし、「縁壱の才能という集合に、物語中のすべての要素が包含されている」という小鳥猊下の評にも、感心させられるものがある。それらにくわえて、物語のもっとも中核的な場所を占めているのは、すでに公の場では口にしにくいものとなった、”一日一善”に類する「昭和の道徳観・倫理観」なのだ。友人が「私の母親は毒親でェ……」とめそめそ泣きだせば、「自分は両親を心から尊敬している」とは言いにくくなるし、同性愛のカミングアウトをした同僚に対しては、「つわりの妻を世話して寝不足ぎみで……」との弱音は口腔にとどまるだろう。年収の低さによる生活苦をなげく氷河期世代の友人を、老人ホームや障害者施設のボランティアに誘うことははばかられるし、インスタで旺盛な趣味の発信を行う独身者のいる職場では、2人の子どもがうつった家族写真を取りだすのには抵抗をおぼえることだろう。
秘孔を突かれて全身の痛覚神経がむきだしになった、アミバのような(わかりにくい例え)人々と接するにあたり、良識的な多数派のとるもっとも賢明なふるまいは、「内心と私生活のいっさいを表明しないこと」に帰着するのである。米国におけるTRUMP PHENOMENONや、本邦でのSAY THREE PARTYの躍進を極北として、マジョリティ側が「沈黙の忍従を強いられている」と実態以上に思いこまされている”程度”のグラデーションが我々の日常の背景にあり、鬼滅の刃を社会現象へと押しあげる遠因になったのではないかと推察する次第である。すなわち、「弱きをたすけ、強きをくじく」「家族を持って一人前」「人への感謝を忘れずに」「恩返しの心」「おじいさん、おばあさんを大切に」「立って半畳、寝て一畳」「ご先祖さまに恥じぬよう」「お天道さまが見てる」など、もはや広言せぬほうがよいものとして、内心の自主検閲に黒塗りした”人の道”が、鬼にむかって大音声で説法されるのを聞く快感は、まちがいなくあると思う。個人的なことを言えば、最高学府の法学部を卒業した人物が、持てる能力を薄給のビューロクラットとして民草にそそぐのではなく、高年収の外資コンサルファームにささげる利己の時代において、「オマエもかつては弱かったはずだ! 弱い者を助けるのは、強い者の責務だ!」と寸分の迷いもなく、怒りとともに断言する主人公の姿を見て、かなり胸のつかえがとれたーー「あ、それ、言ってもいいんや」ーー感覚は、まぎれもなくあった。
以前の感想にも書いたように、現代を生きる子どもたちが、もはや大人たちはおもてだって口にできず、そちらへ教え導くこともはばかられる、「利他と継承」「感謝と報恩」「家族愛」について、この作品を通じて学ぶことができるとするならば、もしかすると冗談めかして聞こえるかもしれないが、本邦の未来はきっとよりよく、明るいものになるだろうという予感がするのである。あと、制作会社による「無限城のレンダリングに3年をついやしたので、3部作の完結には10年かかる」との談話を知り、だれもそこに力を入れることを望んでいないという点で、「スターウォーズ3における、惑星ムスタファーの溶岩みたいだなー」と思った。