猫を起こさないように
超弦理論
超弦理論

雑文「『鵼の碑』刊行に寄せて(少しストリングス)」

 きょうは18年ぶりのアレについて話そうと思う。おぉん? まさか野球がお好きだとは知りませんでした、だと? バカモノ! 18年ぶりのアレと言えば、「鵼の碑」の刊行に決まっておろうが! 発売日に天尊(アマゾン)から届いたものの、誇張ぬきでレンガを2枚はりあわせたようなシロモノであり、書見台に乗せても開かず、寝ながら読むには重すぎ、通勤カバンに入れるには分厚すぎるという、ドラゴン殺しもかくやという凶器的存在なのだ。おまけに、家にいる時間はずっとスターフィールドをやっているものだから、日常生活のどこにこれを挿入(デビルワールドの擬音)すればいいのかサッパリ見当もつかず、アレを抱えたまましばらくウロウロしてから、とりあえず本棚に収めてしまった。まず電子書籍版を買い、充分に面白ければ物理的な実体を入手するという読書スタイル?になって久しいため、リアルな紙の塊をどう楽しめばよいのかわからず、モノリス周辺に集う類人猿のように困惑している次第である。よって、これ以降は最新作を1ページも読んでいない人物による京極堂シリーズ本編への雑感だととらえていただきたい。

 まず自己紹介をしておくならば、いまは無き京都の書店で処女作を手にとって以来、「邪魅の雫」までをほぼリアルタイムで追いかけてきたが、それ以降の派生作品はまったく読んでいない程度のファンである。令和の御代ならば NPO団体から断罪されるだろう、桜玉吉をはじめ陰キャのオタクどもが「ほう」と嘆息をつき、「酷く羨ましくなつてしまつた」みつしりハコヅメ少女(not婦警)に脳を焼かれ、生涯にわたり消えない印を額に刺青されたことは、本シリーズをとりまく事件のうち、最大のものだと言えよう。いまは亡き栗本薫が、「作者は処女作において、風采のあがらない小男に己を仮託していたのに、売れっ子作家となるにつれて作中のヒーローへ自意識を同化させていった。(中略)私は、見えすぎるこの目を封印した」と指摘したのは、本シリーズのことだったと確信しているが、作者が京極堂という虚構内のハイパー書痴と自意識を融合させていった結果、ついには外見も含めてその人物へと完全にメタモルフォーゼし、「本好き、妖怪好きにとってのヒーローを彫刻する」という本シリーズ執筆につながる初期動機を失ったがゆえに、18年という長い中断につながったのだと分析する。

 かようなメタい話をわきに置いて、作中の情報だけでシリーズ本編が頓挫した理由を考えるとするなら、初期のほうでも例の探偵の「ほとんど漫画」な言動でリアリティラインがグラつく傾向はあったが、あくまで脇役だったために本筋への大きな影響はなかった。それを、京極堂の宿敵としてモリアーティ教授に当たる人物を登場させ、さらに男女2人の美児童を助手としてはべらせた時点で、作品の虚構度がついに漫画方向へと雪崩れてしまったのである。いったいどう立て直すつもりかと続刊を手に取ったら、教授との対決はどこへやら、「姑獲鳥の夏」の裏バージョンが始まってしまう。さらなる続刊を読み、登場人物の名前に盛大な誤植があって混乱させられながらも、「ああ、これまでの事件の陰陽表裏となるセット部分を描く2周目に突入したんだな。ということは、モリアーティ教授との対決は刊行ペースから逆算して10年後かな」と予想していたら、そこでプッツリと続きが途絶えて、ファイナルファンタジー16ばりの「18年後ーー」な現在へといたるわけである。シリーズの慣例として、続刊タイトルも巻末に予告されているものの、「作品の完結と作者の寿命がチキンレースを始める」段階の物語群に入ってしまったなというのが、いつわらざる実感だと言えるだろう。「鵼の碑」は熱心なファンが読み終わり、だいたいの感想が出そろってから手をつけることになりそうだ。なんとなれば、いまは空いてる時間すべてをスターフィールドに使いたいからである。

 最後にぜんぜん話も口調も変わるけど、最近「東洋の若い物理学者や数学者の女性が西洋の有名な団体から賞を与えられた、なぜなら超弦理論をサポートする分野での貢献があったから」という記事がたて続けにタイムラインを流れてきたけど、ひどく政治的な動きに思えるのは、うがった見方すぎるかなー。「若い世代」かつ「男性ではない性別」で「西洋ではない場所」の人物が受賞するのって、「たとえ粒子加速器で超対称性が見つからなくとも、スーパーストリングスは中絶させない。世界各地の次世代へ向けて、これを研究すれば名誉もカネもポストも約束されるというメッセージを伝えたい」っていう西洋の年老いた物理学者や数学者の男性による強い意志とプロパガンダを感じるんだけどなー。同じ成果なら女性に与えた方が、企業や団体に対する世間の印象はよくなるしねー。アタシ、ザビーネウォイトのせいで、よごされちゃった?

雑文「IUT続報に寄せて(近況報告2023.8.31)」

 宇宙際タイヒミュラー理論をめぐる状況の続報にふれて、満面の笑みを浮かべている。あらかじめ、以下は高校レベルの数学さえあやしい人物による外殻の政治的な「面白がり」だということを伝えておきます。そもそもの発端は、5年近く前に同理論の成否を確かめるため、ドイツから2人の高名な数学者が京都を訪れたことでした。一週間にわたる論文著者との議論の末、帰国した2人は「乗り越えられない決定的な瑕疵があり、証明は無い」との結論を10ページの報告書として発表します。同理論はあまりに長大で難解なため、理解できる者は世界で十指にわずか余るほどと言われており、多くの数学者はフィールズメダル受賞者のこの宣言に、もう余計なことを考えなくてすむとホッとしたのです。そこから現在まで続く集団的思考停止の状況を「数学にとって不健全」だとして、論文著者が報告書の撤回を求めるメールを昨年、2人のドイツ人数学者へ2度にわたって送りつけたにも関わらず、完全に無視される結果となりました。業を煮やした彼はつい先日、その私的メールをネット上に公開したのですが、最近はDeeplやChatGPTなど翻訳に便利なツールもあるので、ぜひ本文を読んでみてほしいと思います。

 まあ、最大限ひかえめに言ったとしても、相当に「態度の悪い、挑発的な」内容になっていて、「あなたが健康な状態であることを願っています」から始まり、「あなたが議論において、ささいなことに固執していたのを鮮やかに思い出します」とか、「仕事や金銭の調整は必要ですが、京都に来るなら解放的かつ自由な議論を約束します」とか、「なぜあなたほどの人が、こんな簡単な数学が理解できないのかわかりません」とか、「私の師匠に理論の誤りを指摘すると『権威を盲信すべきではなかった』とすぐに認めました」とか、「『真実を受け入れる者は解放される』という金言の意味をもう一度よく考えるべきです」とか、とにかく全編にわたって「格下の相手にレベルを合わせてお願いしてやっている」というアロガントな雰囲気を隠しきれていません。メール内の文章表記も相手の読解力を疑うように、単語をダブルアスタリスクで強調(初めて見た)したり、読み落とさせたくない箇所は一文中であってもわざわざ改行の上で段落化したり、どこの00年代テキストサイト運営者によるテキストいじりなのかと疑うばかりの粘着ぶりです。

 さらに問題なのは、存命する数学者の中でトップクラスに入り、歴史上においても最高ランクに位置するだろう頭脳から、はた目にわかるほどの「激おこイライラ状態」でこれが出力されていることであり、選ばれる単語が高級で文章が難解なことをのぞけば、やっていることの本質は巨大掲示板での文系レスバトルとなんら変わりありません。そして何より悪いことに、わざわざ京都まで来て一週間を費やしてくれた相手の態度を硬化させている原因の最たるものは、間違いなくこれまでの論文著者のふるまいなのです。「証明なし」との報告書が公開された直後の彼の反応としては、「議論の最中、相手の説明する馬鹿げた解釈は自分の理論とは似ても似つかないと、ずっと考えていた」(なら、その場で指摘しようよ……)や「なぜこんな初歩的な数学が理解できないのか、同僚たちと爆笑した」などがあり、これだけでもかなりひどいのですが、きわめつけはドイツ人数学者2名を、名前の頭文字を並べてナチス親衛隊を意味する「SS」呼びしたことでしょう。なぜ非アカデミアのトーシロがこんなことまで知っているのかと言えば、これらすべてが論文の中に注釈としてそのまま書いてあるからです(!)。さらに、わずか10ページのその報告書に対して150ページ超の反論を公開したり、やってることはどこぞの訴訟インフルエンサーと大差ありません。

 今回の顛末について、以前にも指摘したように、コーケイジャンたちが99%の時間を意志と理性の力で抑制している人種差別の感情が、あるシリアスな一線を越えて噴出する領域へと論文著者が踏みこんでしまったことで引き起こされた可能性は、非常に高いと思っています。同時に、「アジアの黄色いサルに、ナチ呼ばわりされた。ヤツらモンキーどもに西洋文明の精髄である、数学のアルテを理解できるはずがない」という人格の底の底にある昏い負の感情が、メール無視による撤回拒否につながっているとすれば、外野の文系にとってこれほど面白い見せ物はありません(まあ、このへんは欧州の高位?数学者や数学倫理規定?みたいなものを引っぱりだしているあたり、薄々わかっているのかもしれません)。スーパー・ストリングスにせよ、インターユニバーサル・タイヒミュラーにせよ、もっとも冷徹に論理的であるべき物理学者と数学者が、「半世紀を捧げて己が権威となった分野が、すべて灰燼に帰すなどありえない」や、「30年をかけて完成させた究極の理論を、ポッと出の若造ごときに潰されるなど断じて許せない」といった感情にふりまわされているのを観客席からビール片手に眺めるのは、とうの昔に己の人生の相対的な無価値を受認した文系人間にとって、この上ない愉悦の娯楽だと言えましょう。

 いまの私の最大の関心事は、世界を席巻するAIがはたして人類にとって「我々はエヴァを生みだすためにその存在があったのです」という台詞の、エヴァに相当する対象になるのかどうかです。現存する人類すべての成果物を学習し終わったところでAIの成長が止まるのか、そこからさらに成長が続いていくのか、まだだれにもわからない段階とのことですが、これは私がよく使う例えであるところの「1を100にすること」と「0を1にできること」の対比によく似ているように思います。そして、前者に長けた人工知能がはたして後者の能力を有しているかどうか、すべての学習対象を消化したあとに無から有を生み出せるかどうかは、人の持つ知性と人の抱く感情が可分か不可分かの、数学的に言うならば、”conjecture”になっているような気がするのです。最高峰の知性さえも「乗り物」にしてしまう感情という制御不能のドライバーが、知的創造とは切っても切り離せない要素だと判明するなら、それは世界文学と同じ種類の人間讃歌だと言えるのではないでしょうか。私の生命が残っているうちに、人類全体をまきこんだ壮大な実験の結果が見られることを、切に願っています。そして、だれかが私のテキストに対して言ったように、「歴史上の数学者の人生を、リアルタイムに砂かぶり席で見ることができる」喜びを噛みしめたいと思います。

小説「三体(第3部)」感想

 小説「三体(第1部)」感想
 小説「三体(第2部)」感想

 三体第3部をようやく読了。いま調べたら、第2部を読み終わったのが昨年の8月なので、ずいぶんと間が空いてしまいました。この原因は「七夕の国・友の会」という同人誌へ寄稿の依頼を受けたことです。最近は「テキストで、読んだ相手をうちのめす(五七五)」という初期動機がだいぶ薄れてきて、「将来の自分のために、時系列で感情の軌跡を残す」方向へと軸足が移りつつあります。その同人誌の原稿の中に、三体の第3部を読んでいる途中であることを書いてしまったので、「他者への公開は感情の時系列」というハウスルールを守るために「このテキストが発表されるまでは読了できない」という、ハタから見ればまったく理解できないであろう謎の制約が生じたからです。同人誌そのものは今年の1月に世へ出たのですが、それまでに三体第3部を読んでいる途中だということを、すっかり忘れてしまっていたのでした(みなさん、これがアルコールへ充分に脳味噌をソークさせた場合の、中年期以降の記憶力です)。

 第2部感想の最後に「ストーリーはきれいに終わってるし、この先は何を書いても蛇足じゃないの?」みたいな疑問を呈していましたが、大陸の文化から長く断絶されていたゆえのナメた発言だったことが、第3部で明らかとなりました。ご存知のように、昨年8月から今年1月までに起こった私的大事件は、原神インパクトとの出会いです。このC(CHINA)RPGを通じて、限られた人間関係の社畜な日々に加えて、偏ったタイムラインと国営放送のニュースに影響され、知らぬうちに構築されていた偏見未満の思い込みのようなものがすべてふっとび、長らくぶりに大陸文化への畏敬が復活したのでした。それはまさに「蒙を啓く」という表現がピッタリの精神的なパラダイムシフトで、「どうせ剽窃ベースの低いクオリティだろう」という傲慢な侮りが抜けた状態で三体第3部の残りを読めたことは、怪我の功名ならぬ同人誌の功名だったと言えるでしょう。

 このC(CHINA)SFを通して読んだいま、私はこの第3部がいちばん好きだと断言できます。物語規模で言えば、誇張抜きで人類史上最大のものとなっていて、本邦で類似のものを挙げるなら、小説だと「神狩り」や「百億の昼と千億の夜」、映像だと「トップをねらえ!(6話)」「劇場版グレンラガン螺巌篇」と同等か、それ以上のスケールなのです。「荒唐無稽なハードSF」、あるいは「ハードSFなのに荒唐無稽」とでも表現しましょうか、この狭い列島に住まう神経症のサイファイ作家からは逆立ちしても出てこない類の作品で、「科学考証や物理学の正確さ、さらに自身で張った伏線さえ、ドラマツルギーという熱量の前には膝を折る」展開が次々と繰り広げられ、水滸伝や封神演義のハードSF版とでも形容すべき豪快な中身に仕上がっています。いつも通りネタバレ上等でしゃべっちゃいますが、ビッグバンからビッグクランチに至るまでの時間軸で展開する物語は、この地球上に存在するどんな人間のどんな苦悩をも相対化の果てに無化できるスケールで、「日々の重責に圧し潰されそうな人物」ーー例えば、世界最強の軍隊を有する民主主義国家のビッグ統領とかねーーほど楽しく読めるというか、気が楽になる効果は確実にあると思いました。

 第1部にヤン・ウェンリーが歴史上の偉人として出てきたのにのけぞった話をしましたが、「いま持てる知識を総動員して、元ネタが割れるのを気にする節操は捨てて、己の生きたすべてを作品にブチこむ」書き手のようで、「あ、これは『100,000年後の安全』を見た衝撃を作品に入れたかったんだな」とか、ストーリーの端々からナマっぽい気配が立ち上がるのも、まるで作家本人と対話しているようで面白かったです。個人的に気にかかったのは、これだけの時間スケールを伴った作品であるにも関わらず、「生病老死の否定」が寸毫も含まれないところでしょう。これは原神のストーリーにも強く感じる点で、「不老不死を肯んじない」というのは大陸文化における何か哲学的教養なのでしょうか(有識者からの解説を求めたいところです)。正直に言えば、特に下巻へ突入してからはあまりに日常から離れた情景を描写するため、頭の中に映像を浮かべるのが難しい個所がいくつもありましたので、ネットフリックスでのドラマ化には大いに期待しております。

 ただ、どこで物語のピリオドを打つのか最後の数ページまで予想がつかずにドキドキしながら読み進めたのですが、結末部分だけかなりの肩すかしと言いましょうか、小説的技巧に走った終わり方になっているのは少し残念に思いました。まあ、「十次元での新生」なんてのを文章で表現できる気はしませんので、この積み残しはドラマ版で解決されると信じております。あと、智子まわりの描写の仕方は作者の趣味や性癖が出すぎてる気はしましたねー。まっさきに連想したのは、ぴっちりツナギを着たお姉ちゃんが大排気量のバイクにまたがってハイウェイを神めがけて疾走する「神狩り2」のエンディングで、中老年期の男性作家が積み上げてきた知識や経験、そして名声までをも若々しい女体の前にかなぐり捨てる「悲しきオスの習性」は、ちょっと直視に困る感じがあります。ともあれ、スーパーストリングス理論の台頭に伴う物理学50年の停滞が生み出した集大成的フィクションであるところの三体第3部、超おススメです!

雑文「SSとIUT、そしてGBK(近況報告2022.5.8)」

 この連休中でもっとも胸のすいたできごとと言えば、「超弦理論の台頭により、数十年を停滞する物理学」の実態について知ったことでしょう。アホの文系アタマにできる最大限の要約をすれば、原子以下のあまりに微細な事象を取り扱うために実地の検証がほぼ不可能であり、理論だけが先鋭化していって、現実に有効な予言が生まれないという批判です。予測されていた超対称性が粒子加速器の実験では確認できなかったのを、「単に精度の問題であり、ないはあるを否定しない」みたいな理屈でダチョウが砂地に首を埋めるようにふるまっているのが現状だとかなんだとか。高度に発達したケトゥ族の知的遊戯が、やがて数式による創世神話と化していき、いまや論理の正しさではなく多数決と政治力が研究予算に直結する世界になっていると聞きおよび、思わず頬がほころんでしまいました。なあんだ、やっぱり理系クンたちもそうなんじゃん。

 本邦における超弦理論の研究者が、「理論をゼロから構築するのではなく、すでに存在する真理を発掘しているような手触り」と語っているのをどこかで読んだことがあり、用意された解答を探る快感に陶然となっているのが伝わってきて、まさに受験勉強を最大に延伸した究極の果てという印象を受けました。先日、国営放送で流された宇宙際タイヒミュラー理論をめぐる騒動のドキュメンタリーも、正味の中身(踏韻)は「文系しぐさ」そのもので、「千人がひとつの物語を読むとき、そこには千通りの解釈がある。しかし、千人がひとつの公式を見るとき、そこにはひとつの意味しかない」との豪語は、いったい何だったのかという気にさせられます。同理論が高度な数学を用いながら、文学的世界解釈のファンタジーに過ぎないとするなら、日々をクソ文系仕事に従事する小人の溜飲も大いに下がろうというものです。

 あと、連休中に快慶の仏像を見る機会があったんですけど、この仏師、グラップラー刃牙の強い影響下にありますねー(たぶん、逆)。