猫を起こさないように
赤毛のアン
赤毛のアン

ゲーム「崩壊スターレイル第4章・安眠の地の花海を歩いて」感想

 あらゆる形態のフィクションのうち、いまもっとも続きを待ちわびていると言っても過言ではない、崩壊スターレイルの最新バージョン3.2を8時間ほどかけて読了。更新のたびに膨大なテキストが追加され、以前にも指摘したとおり、プレイフィールは「もはやゲームというより小説」なのですが、やはり中華の物語は「時間」「家族」「死生」を書かせると”群抜き”(平井大橋語)で、定命と不死を対比しつつ、死の根絶の是非を問答しながら、「死が人の心に情熱をともし、そこから愛が生まれた」という結論へといたる筆致は切実さに満ちており、じつに見事なものでした。最近、赤毛のアンをおそらく数十年ぶりに読み返したのですが、おのれの視点が完全にマリラ側になっていたのには、長い時間の経過を実感させられました。そして、子どもというのは、孤児であるかどうかに関わらず、ある日、突然に日常へ出現するものです。赤毛のアンとは、孤独な兄妹が過ごした、不死のように変わらぬ40年の日々が、ひとりの子どもの出現によって、ひとつの死へむかって動きだす物語でもありました。アンがクイーン学院へと旅立った夜、マリラはベッドの中で号泣し、「神ではないものを、こんなにも愛していいのだろうか」と自問するさまを見て、なぜ百年以上を離れた異国の地の作家が、同じ感情を知っているのだろうと、泣けて泣けてしょうがありませんでした。ことさらに無感動をよそおった若き日々から、心中に生じた愛の深まりへおそれおののく人生の季節を越えて、その執着を彼方へと見えはじめた死に向けてどう解消してゆくのか、かつては宗教がその答えを持っていたはずですが、いまは大量の等価で無価な情報にとりまかれたまま、ただ茫然と立ちつくすほかはありません。

 モンゴメリを読み、それから崩スタや原神を読むとき、私の胸へと去来するのは「この半世紀というもの、我々はあまりに少女を性的に消費し続けてしまった」という悔恨にも似た感情です。「少女の見た目をした、死をつかさどる双子の半神」という設定を、本邦における現代の創作者たちがあずけられたとき、どんな内容の物語が上梓されるのかを想像しただけで、暗澹たる気持ちにさせられます。まちがいなく、たっぷりと性的な百合展開が大半を占め、最上のものでも萩尾望都のカーボンコピーがせいぜいでしょう。キャストリスなるキャラクターを中心として語られる今回のバージョンは、キャッチーにセクシャルなモデリングで萌えコションたちへ旺盛な課金をうながしながら、そのストーリーの内実は非常に骨太な「家族愛」と「死生観」の話になっているのです。余談ながら、たびたび話題に挙げるところの漫画喫茶と温泉の複合施設で、なぜかトリリオンゲームをぽつぽつ読んでいるのですが、お話し自体はかなり行きあたりばったりなのに、池上遼一の画がいちいちおもしろすぎて、”間が持って”しまうという不思議な漫画体験をさせていただいております。その劇中に、おそらくパズドラあたりを下敷きにしたアプリ制作編があり、課金にまつわる”オレ理論”が展開されているのですが、ホヨバのリリースした原神が覇権アプリと化す”以前”の話になっていて、ほんの数年でここまで市場をゲームチェンジできるものかと、ある種の感慨をいだきました。その勝利の理由は言葉にすれば、「オタクの”好き”に向けた純粋さに対して、常に誠実かつ真摯であり続ける」という一点を極限にまで突きつめたゆえで、近年のFGOが失いつつある種類の美点でもあります。

 崩壊スターレイルというアプリは、その人気のわりにストーリー・パートへの感想がほぼ見当たらないので、ファンの多くを占める若者たちは、シナリオは全スキップしながら、登場人物たちの魅力的なルックスと、よくできたプロモーション・ビデオと、作中の派手なムービーだけを消費しているのだろうと推測しております。しかしながら、このゲームの本質は膨大なテキストにこそあり、じっくりと読みこんでいくことで世界観に由来する玄妙な情緒が立ちあがって、大の大人の鑑賞へ充分に耐える中身になっているのです。今回の更新部分で驚かされたのは、手書きのアニメーションが突如として挿入されたことで、驚くと同時に思わずヒザを打ちました。アニメ指向の3Dモデルは、派手なアクションのムービーで輝きこそすれ、動きの少ないシーンでは人形めいてしまい、どこか繊細さに欠けるものです。制作者の意図するキャストリスの遍歴と感情のゆらぎを表現するのに、3Dモデルでは演出をつけきれないと考えたのでしょう。たとえつたなくとも、たとえ失敗したとしてさえ、「意志のあるチャレンジ」は、惰性による停滞から抜けだすためにとても重要で、「意志なき現状維持による不失敗と不成功」を再生産し続ける界隈(ドキッ)に棲息する諸氏におかれましては、この姿勢をぜひ見ならってほしいものです。本章のヒキとなるクリフハンガー部分では、いよいよオンパロスを管理する「ラプラスの魔」に相当する存在が姿を現し、この世界がシミュレーション仮説そのものなのかもしれないという疑惑は、いっそう深まりました。ペガーナの神々で言うところの「眠れる大神」を思わせるほのめかしをして、「次回、乞うご期待!」となったときには、「えー!」と思わず大きな声が出たほどです。

 それにつけても、ひとりのトップクリエイターがプログラムからシステムからシナリオからぜんぶやる、他者の人生を平気で数年ほど待機させて恥じない傲慢な本邦のゲーム群とは異なって、6週間を待てば必ず続きがリリースされるのだから、まったく中華のクリエイティブ商売は大したものじゃないですか。本邦のゲーム制作に従事する諸氏は、ユーザーへ徹底的に奉仕する、この「謙虚さと誠実さ」を見ならうべきじゃないですかね。最後に、小鳥猊下の作品から一節を引用して、本邦のクリエイティブ界隈へひそむ不遜な性根へのカウンターとしておきます。『考えれば、この”やめる”という選択肢を持たないものは、世の中にそれほど多くありませんよ。さっき言った政治と、なんだろうな、愛? いやいや、冗談です。文学も、音楽も、芸術も、すべて疑いなくやめることができます。やめても生活が続くものを批評するのは、意味がない。ゲームなんて、文学や音楽や芸術のうちの末席の、更に後ろのムシロ桟敷でしょう』

アニメ「アン・シャーリー(1話)」感想

 エッキスのタイムラインが悪い意味で沸騰しているところの、国営放送のアン・シャーリー1話を見る。ご存知のように原作小説の周辺には、村岡訳に疑義を呈する英文科卒のおばさまたちをはじめとする、深海魚のごときファンが数多く潜伏しており、うかつなニュウビイたちが近づこうものなら、たちまち捕食されてしまう、男オタクにとってのファースト・ガンダムのような、じつに業の深い作品なのです。いまをさかのぼること半世紀、世界名作劇場における初のアニメ化が報じられると、やっかいな原作ファンによる反対運動がまきおこったものの、その騒ぎを高畑勲の演出による作品の真価だけで暴力的なまでに鎮圧したという逸話が、現代にも伝わってきておるほどです。この旧アニメ、制作中のエピソードもふるっていて、盟友たるハヤオの謀叛にも似た途中離脱や、大病をおしてまで作画を続けさせられたヨシフミや、彼の葬式ーーずっとあとのことです、為念ーーで「近ちゃんを殺したのは、高畑さんよね」と投げかけられたイサオがそっけなく「うん」と応じたなど、まさに歴史上の偉人たちがおのれの血と魂でもって錬金した珠玉の50話の存在を前にして、なお令和の御代に新作を上梓しようと考えたのが、蛮勇や無知によるものではないと証明されていくことを、1話視聴の段階からなかばあきらめつつも、せめて若いアニメファンたちがビートルズのように高畑版「赤毛のアン」を発見するためのきっかけになればと願っております。

 余談ながら、私にとっての高畑勲は、現実世界ではぜったいに遭遇したくない、正気と狂気のはざまを悠然と歩く真性の天才であり、奈良の片田舎に引きこもっていたおかげで、彼の死までに創作者としての姿勢へ総括を求める面罵を浴びる機会を持たなかったことへ、心の底からの安堵を感じている次第です。たびたび「演劇やアニメで革命を継続しようとした全共闘世代」を揶揄する発言を過去にくりかえしてきましたが、彼らの創作のほとんどが本当に手に入れたかったものーーたぶん、国家や体制の転覆など少しも望んではおらず、高給で召しかかえられる首相や首長の相談役みたいな立ち場ーーの代償行為、もっと言えば庇護者へする試し行為にすぎませんでした。高畑勲だけは、ちがいます。東京大学を卒業しながら、みずからの意志でアニメ制作を生涯の仕事として選びとり、「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」「火垂るの墓」と、「それが出現する以前と以降では、世界の見え方がまったく異なってしまい、それが存在しない世界をもうだれも想像できない」という真の革命を、作品の力だけで体現し続けてきたのです。全共闘世代の虚構従事者でフィクションを通じた社会の変革に成功したのは、高畑勲だけだと言っても過言ではないでしょう。

 しぶしぶプッシー(推し、の意)への礼賛から、国営放送のアン・シャーリーへと話を戻しますと、まずもって今回の再アニメ化によるいちばんの僥倖は、「やっかいなおばさまたちの、メンドくさい言説」をひさしぶりにタップリと摂取できたことでした。それらはほとんど彼女たちの生存報告であり、人がらや人生観までもが行間へとにじみだす、定型の賞賛か完全の無視しかない昨今のつぶやき群とは性質を異にした、重層的な”人生の言葉”だと表現できるでしょう。続きまして、イヤイヤ作品の内容についてふれていきますと、若い女性のキンキン声が耳にさわることをのぞけば、「原作の知識があるプリキュアの一員みたいなアンが高速リアル・タイム・アタックで、マリラとマシュウの籠絡をこれまでの115分から23分へと大幅に短縮した」みたいな楽しみ方ができないこともありません(やっかいな高畑ファン)。しかしながら、元祖・喪男であるマシュウをシュッとした見た目の長身イケオジにしたことで、彼が60歳まで独身であった理由について、「生まれながらの男色家である」か「妹と近親相姦の関係にある」の二択を視聴者に迫る結果となったことは、ゆるしがたい原作改変でしょう(やっかいな原作ファン)。

 本作はグリーン・ゲイブルズのアンを越えて、アヴォンリーのアンまでを描く構成だと聞きましたが、原作の翻訳は「アンの青春」の途中で脱落した個人的な経験から申せば、世界的な大ヒットとなった1作目だけが真の意味での文学作品になっていて、物語の運びや文章の技巧こそ高まっていくものの、それ以降はアンという人物を追いかける、ファン向けに売りだされたキャラクター小説にすぎません。「だれのためともなく書かれ、数年間を物置で過ごした草稿」という意味で、シリーズ第1作「アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ」だけが「非現実の王国で」や「ダイヤモンドの功罪」と同じ性質をそなえていると言えるのです。泣きつかれて眠るアンのほおにはじめて口づけをし、屋根から転落して足首を折るアンの姿に胸のつぶれるマリラの心がわりの様子、「死と呼ばれる刈り入れ人」によって最愛のマシュウが神の御もとへと去り、アンは「人生は、もう二度と元にはもどらない」ことを知って、子どもから大人へと否応に、不可逆に成長してゆきます。そして、大きな無償の愛を得て正しく羽化した少女は、ついに「愛に飢えて彷徨する、寄る辺ない魂の遍歴」を終えることとなりました。そうなれば、もはや1個の大人として「なにがあろうと、なんとかひとりでやっていく」しかなく、孤独な少女の物語は物語として物語られる意味を失ってしまうのです。もしかすると、私に「アンの青春」の途中で本を閉じさせたのは、「この子は、このあともうなにがあっても大丈夫」という安堵の感覚だったのかもしれません。

 さらに無礼と審美眼の欠如を承知で付け加えれば、草木の描写と少女の長広舌による掌編を、時系列で数珠のようにつないでいく原作の語りは、100年以上前の小説技法を現在の目で断罪するつもりはありませんが、非常につたないものです。けれど、生涯を家族の介護とケアに費やしたモンゴメリが、みなの寝しずまった深夜に、だれのためでもない、おのれの魂だけを救うために、架空の少女に仮託した解放の夢として、毎日1話ずつを書いていったのだろうと想像するとき、胸の痛むような思いにさせられます(あら、でもいやな痛みってわけじゃないのよ)。いまや、このような物語のつむぎ方も、アンのように奔放な空想の広がりも、スマホやPCを媒介として我々の日々へ24時間を常駐するようになったインターネットによって、すべて発生をさまたげられているのにちがいありません。最後に、小鳥猊下がネットに記述するテキストのすべてについて、「押入れの草稿」として書いていることを、ゆめゆめお忘れなきよう諸賢へお願いし申し上げて、とりとめのない感想を閉じたいと思います。