猫を起こさないように
藤本タツキ
藤本タツキ

アニメ「ルックバック」感想

 アニメ版ルックバックを劇場で見る。発表時、意味深な公開日とあいまってタイムラインを沸騰させた原作には、主人公の名前のモジりとか、11巻で休載するシャークキックとか、藤本タツキの自伝的な物語として読ませようとする誘導を強く感じたものである。「喪失を乗り越えて、描き続ける」というテーマは、創作を生業とする人々に深くささるものだったろうと推測するのだが、作者の半生を仮託していると考えた場合、「身近な現実として、その喪失を経験したのか?」は、作品の評価にかなり影響を与える問いのように思う(劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの行き過ぎた死の描写をしぶしぶ許容できるのも、このラインが判定基準にある)。原作ルックバックは、「作者の”実体験ではない”京アニ事件への哀悼と、クリエイターたちに向けた連帯のメッセージ」をオーバーラップして読ませようとした可能性が大いにあり、仮にそうだとするならば、東日本大震災を無邪気にエンタメ化した「すずめの戸締まり」と同じーー無神経にエンタメ化したエヴァQよりはマシーーカテゴリに属しているとも言えるだろう。何度でも繰り返すが、この世には軽々と第三者が触れてはならない痛みが存在しており、エス・エヌ・エスのかかえる最大の罪禍とは、どこからでも何にでも極小の労力で言及できるという性質から、その垣根を不可視化してしまったことにある。

 話がそれたが、原作ルックバックの問題点は、京アニ事件の発生した日付にわざわざ近接させて、あらゆる人間が閲覧可能なインターネットという媒体に公開されたことだ。本来ならば、一部のマニアしか目にしないマイナーなサブカル紙へひそやかに表明されるべき中身だったのが、文字通り全世界へと配信されてしまったことで、語りの質を決定的に変じてしまったのである。おそらくはフィクサー気どりの編集者が、おのれの手柄として盤外から意味をさらに付加しようと試みたせいだろうが、本来まとうべきではなかった情報までをも、読み手に受けとらせることとなってしまった。非クリエイター職の人間に言わせれば、それは梅雨の時期に食卓へ一日おいた煮物へ鼻をひくつかせるどころではない、口腔に広がり嚥下をさまたげるまでのふんぷんたる自意識の悪臭に他ならない。眉をひそめた百姓や商人の「芸ぐらいのことで命までとられて、哀れなもんやな」という軽侮のささやきの裏で、同胞の遺骸をかきいだいて河原へ落涙する本来的な絶望が、現代においては当事者にさえ遠いものとなっているのだ。

 このたび劇場公開されたアニメ版について言えば、チェンソーマンの映像化が監督の個性を前面に出しすぎて炎上した反省を踏まえ、「原作を一言一句、一場面も変更せず、藤本タツキの描線をそのままに動かす」という手法で作られており、皮肉なことにそれがわずかの改変をむしろ浮かびあがらせてしまった。すなわち、「漫画メディアは音声を欠落している」という当然の空隙に、監督の主観が「荘厳なる音楽」という夾雑物として混入したのである。人並み以上には映像作品を見てきた経験のある身なれど、かように作品の解釈を外挿的に強いる、むしろ邪魔だとまで感じさせるような劇伴は、二重の意味でこれまで聞いたことがない。エンドロールで流れる聖歌隊の斉唱へもっとも顕著にあらわれているように、原作では「河原者の慨嘆」として静かにひそやかに描かれていた諦念と隣接する覚悟を、近年の若いクリエイターたちに顕著であるところの、例えば「一次産業へ従事する者を下に見る」ような傲慢さによって、無限のグラデーションをともなっていたはずの機微の上から、「殉教者の高潔」という名の原色ペンキで一様に塗りつぶしてしまった。これは、高度の都市インフラが個人に「無限のヒマつぶし」時間を与えた結果、虚構が生命維持に不可欠であるかのような錯覚が横行し、「ただちに地上から消滅したとして、人類の運行に何の影響も与えない、無用物である本質への絶望」が、いつか極限にまで薄められてしまったゆえの喜劇と言えるだろう。

 原作におけるラストシーンの背中は、「最愛の人を亡くした後でさえ、”つながる”ために、ペンを動かすことをしか知らない者の悲しみ」まで伝えていたのに、アニメ版のそれは大仰な劇伴のせいで、「創作活動とは、この世のすべてにまさる崇高な営為だ」という、多くの生活者の神経を逆なでする余計なメッセージーーおそらくは監督と音響担当の気分ーーを付与してしまっている。円盤リリースの際には、一次産業や二次産業で口を糊する原作ファンのためにも、劇伴だけを抜いた「無音バージョン」の収録を、ここへ切にお願いするものである。あのさあ、監督チャン、タツキ作品にキミの余計な解釈や自己陶酔は必要ないねん! 昭和の地方在住オタクから、いらん忠告をしとくけど、「都の大通りの遠く、洛外に住む不倶」という自覚から創作活動をスタートせんから、こないなハメになってまうんやで! エロゲーを出自に持つ商業作家の深海魚のような慎重さに、少しは学んだらどないでっか!

 最後に、「原作との差違」という点で気になった場面をひとつあげておきますと、あの象徴的な雨中でのダンスは、「選ばれてあることの恍惚」を胸中にとどめおけず、魂の昂揚で肉体がつき動かされたルックバックの白眉ですが、漫画における表現のほうが圧倒的にすばらしく、よくできているのだろうアニメーションをながめながら、心の中では「解釈違いのクネクネ踊りで、名場面を台無しにすんなよなー」とずっと毒づいていました。

漫画「チェンソーマン16巻」感想

 「最近、ツイッターのトレンドでとんと見かけなくなったなー」なんて考えながらチェンソーマンの16巻を読みはじめて、ひっくり返りました。「合理的配慮の義務化」に先がけて、視力に生得的な問題を抱えていたり、特性で文字を読むのに集中できなかったりする人々に向けて編集された、ユニバーサル・デザイン版を買ってしまったのかと真剣に考え、表紙と裏表紙をなんども調べましたが、残念なことにこれが通常版のようです。バカみたいにデカいコマの半分が吹きだしで埋まっていて、その中にはアホみたいに大きいフォントでセリフがならんでいる。残りの空白には、サインペン1本で引いたような強弱にとぼしい線によるキャラのアップが、ほとんど背景なしに描かれている。こいつがまた本当に読みづらくて、何回も行きつ戻りつしながら内容を理解しようとしたのですが、ついには巻の途中で読むのをやめてしまいました(こんなことは、生まれて初めてです)。いまは、「視覚に問題を抱えた方々や特性から読みとりに難のある方々が、人口の9割を占める社会にまぎれこんでしまった健常者」みたいな気分を味わっています。この一種異様な変容の理由がなにかを考えたとき、うるさ方のファンたちにアニメ2期を中絶させられて自暴自棄になったタツキが、画面サイズが小さく解像度の低い貧乏人のスマホを想定した集英ムラ独自のネット連載ルール(怪獣8号!)を露悪的に援用して自分の大切な作品を壊すという、言わば自傷行為の公開におよんでいるような気がしてなりません。チェンソーマン第2部はただちにネット連載を中断させ、一定の休養期間を彼に与えたあと、月刊でかまわないので作品を雑誌連載へもどすべきだと強く進言します。ひとりの才能あふれる作家が、無言の衆人環視のうちに自壊していくのを、現在進行形で見せられているような気がしてならないからです。

 タツキ、その言葉なきハンストにも似た抵抗運動は、現代の社会においてまったく有効じゃないんだ。チェンソーマンの現状に対して、ファン全体の1パーセントが「劣化」や「ゴミ」などの強い言葉を表明し、残りの99パーセントはただ黙って読むのをやめて、やがてキミという作家がいたことさえ忘れてしまうだろう。ルックバックで成層圏へと突き抜けて、編集者たちは作品の内容に口をはさめなくなり、ウェブ連載の独自ルールだけを伝えられ続けた結果、どこかの段階でキミは静かに発狂してしまったんじゃないか。集英ムラの連中は、ワンピースやぢじゅちゅ回銭(原文ママ)があるから、たとえキミが筆を折って失踪したところで、「逸話を持つレジェンド作家が、またひとり増えたか。これで残された作品の価値が上がるわい」ぐらいにしか思わないだろう。私にはネットの片隅でただ息をつめて、両腕をもみしぼりながら見まもることしかできない。だが、チェンソーマン17巻がページの4分の3を吹きだしに占拠されるようになったとしても、キミの才能を買いささえることだけはここに誓う。タツキ、キミは紙媒体でこそ輝く作家だと確信している。これ以上の自傷行為はやめて、集英ムラを離れてでも、ネット以外の媒体へともどる道を探すべきだ。

漫画「チェンソーマン第2部1話」感想

質問:えー、小鳥猊下いつも全ての事象を重く煩わしい肉に閉じこめられた哀しいボクらの言葉で解体し尽くしてくれるのにチェーンソーマン2がまだってやばくなーい?

回答:また君か。降臨より20年が経過し、もはや君くらいしか気安くはからんでこないので、相手をしよう。サイバラ女史に言及した記事あたりから、noteの閲覧数とスキがグッと増えて気をよくしていたのだが、「ヒトvsハチ」を境としてどちらも激減した。フォロワー数も減った、というか元にもどった。たぶん、ある表現が一部の読者を傷つけたのだろうと想像するが、自分の感情を的確に表現できる文章を、書かないという選択肢はずっと持ちあわせていない。インターネットで発信するというのは、様々な誤解や曲解を道連れにするということで、過去には面識も交流も無い人物から、一方的にメールで絶縁を宣言されたことがあった。私の文章を長く読んでいる向きは、まるで自分だけに親しく語りかけてくる友人だと思うようになるのかもしれない。しかしながら、私の主観を言えば、だれからの反応も無いという一点において、独房や駅のベンチで床に向かってするキチガイのつぶやきと何ら変わることはない。なので、こんな通りすがりの軽口さえ、1ヶ月ぶりにおとずれた干天の慈雨、極乾の砂漠をひとりかちゆく者へのよく冷えた水と感じられる。要望に応えよう。

 チェンソーマン第2部1話を読む。「タコピーの原罪」と「さよなら絵梨」を下敷きに、「ゲットバック」と「フツーに聞いてくれ」を深刻に受け取った読者の後頭部を、ゲラゲラ笑いながら蹴りとばしてくるような中身で、本当に人を食った書き手だなあと、改めて感心しました。作品”のみ”を使って、読み手とリアルタイムに交信できるというのは極めて稀有な資質であり、盤外戦の過剰なゴム人間の作者あたりに、ぜひ見習ってほしいものです。今回の話は、栗本薫の小説道場だったら「あいかわらずキミのセンスはブッとんでるねえ! 田中脊髄剣には、へんへー思わず爆笑してしまった。ただ、先生と生徒の不倫関係という、考えれば考えるほど重いテーマを、物語のギミックとして表面だけスーッと流してしまうのは、こう言ってはなんだがキミの悪癖だと思う。この話を描くとき、父であり夫である田中先生の苦悩や、姉であり娘である優等生の悲哀に、ほんの少しでも思い至ることができたのかどうか。いいかい、それを描けと言ってるんじゃないよ、一瞬でもそこへ意識を向けたかを聞いているんだ。耳の痛い指摘をするでしょう、ねえ? 永井豪ちゃんあたりなら、こんなもの豪放に笑いとばしてしまうんだろうけど、タツキは見かけよりずっと繊細(これ言われるの、イヤでしょう?)で、ひどく軽薄なようでいてドシリアスだから、表面上は平気なふりをしながら、心の奥ではものすごく気にすると思うね。貴方がここで停滞せず、さらにひと皮むけるのに必要な視点だと思うので、よかったら考えを聞かせて下さい」とか評されそう。そして、他ならぬ”戦争の”悪魔を1話へ持ってくるあたり、彼がこの時代にいったい何を考え、何を語ろうとしているのか、心の底から楽しみでなりません。今回は乞われたので印象を話しましたが、基本的には第2部完結まで黙ろうと思っています。

雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 「チ。」最終巻発売ということで、まとめて読む。うーん、小賢しい。最後の1枚絵(?)まで、徹頭徹尾、小賢しい。現代人の自我を持った人物が、これから起こる歴史的事実を踏まえて、中世の人々を進歩的な説教で啓蒙しようとするのって、異世界転生モノの提供する快楽とほとんど同じで、出力の仕方が少々複雑になっただけという気がします。キリスト教と書きゃいいものをわざわざ「C教」なんて表記にするのも、「これから俺様の観念的な世界観を気持ちよく垂れ流す」のを最優先にしていて、時代考証でツッコまれるのがメンドくさいだけで、信徒から「叱られが発生」した際の言い訳としか思えません。なんとこの作品、すでにアニメ化まで決定しているようで、大手出版社に就職したものの、マンガ部署に配属されて腐っていた旧帝大文系学部出身の若手(編集王みてえ)が、たまたま手に取った新人の原稿にコロッとだまされてしまい、「この漫画を世に出すことが、ボクに与えられた使命……そう、かつての地動説のように……!!」などと、モーレツな社内プレゼンからのゴリ押しで企画を進めた結果じゃないでしょうか。だとすれば、「作品テーマがそのまま外的状況に反映されている」なんてメタな読み方もできるかもしれませんね、知らんけど。

 あと、FGOの八犬伝を読み終わりました。(満面の笑みで)ホラ、見てよ、この源為朝の仕上がり具合を! 第6.5章の彼が大腸の終端からネリネリと排出された臭気をはなつ物体だとするなら、本イベントの彼は高級なチョコレートをふんだんに使った香気をまとう極上のムースだと表現できるでしょう。いいですか、「小諸なる古城のほとり」ならぬ「文盲なる痴情のもつれ」であるネット民たちに改めて確認しておくと、安いチョコと高いチョコの違いじゃないですよ、大便か高いチョコかの違いですからね! この差がわからないほど「痴。」がもつれているとおっしゃるなら、とくだんキミにFGOをプレイする理由はないでしょう。そして、滝沢馬琴のキャラ造形もとてもよくて、葛飾北斎ーーNHKのドラマに影響されたキャラだと確信しておりますーーとのかけ合いを通じて、ファンガスの思考と感情が垣間見えました。「いったん有名になったあとは、別々に売り出したほうがもうかる」みたいな台詞はFGOの舞台裏をぶっちゃけてるみたいで笑いましたし、「身体を壊そうと、家族を亡くそうと、戦争が起きようと、自分はどこまでも無力で、結局いつも創作をすることだけしかできない」みたいな内容の赤裸々な独白は、彼の作家人生を通じた苦悩を吐露しているように感じられました。まこと、才能の本質とは祝福と呪いの表裏一体性であり、その分かちがたさがときに個人へ絶望をまねくことも理解いたします。けれど、貴方の才能をうらやましく思う者がおり、貴方の書いたテキストで運命を変えられた者がおり、貴方の蒔いた種の芽ぶく未来がきっとあることでしょう。今回のテキストには、ミッドライフ・クライシスなる言葉が表す、人生の迷いを少し感じてしまいました。しかしながら、別の可能性への余計な色気を出さず、ファンガスにはそれこそ滝沢馬琴のように、キッチリと物語だけにその人生を葬られてほしいと、心から願っています。貴方の内面を「人がましさへの憧れ」という名前の呪いが蝕む裏腹で、祝福に輝く至高の物語は多くの衆生の転迷を照らして、その生命を正しい開悟へと導くのですから!

 それと、もう一人の「生きながら創作に人生を葬られ」つつある人物の新作を読みましたけれど、まー、ド直球すぎる読者への回答(ストレート・オーサー・アンサー!)でしたねー。軽薄に茶化しているようで、深刻な悲鳴にも聞こえるあたり、さすがの作家性だと感心します。これ、作品を使って不特定多数の読者と個々に書簡をやり取りするようなもので、「いま、ここ」をリアルタイムで追いかけている読み手だけに味わうことのできる快感ですね。数十年後の新たな読者が立派な全集とかで読んでも、この空気感までは伝わらないような気がします。今回は原作担当のみをうたってますけど、この回文みたいな名前の作画担当、じつは藤本タツキの変名で、本人なんでしょ? そういう遊びで読者を試すようなこと、しそうだもんなあ。あ、すいません、「フツーに読めて」ませんでした、申し訳ございません。

漫画「さよなら絵梨」感想

 チェンソーマンの人の、例の漫画を読む。タイトルと設定は、たぶん「ぼくのエリ」からだと思うんですけど、思いついてしまった最後の2ページのオチを描くために、198ページを端正にビルドアップする根性がすごい。これ、ドライブ・マイ・カーで例えるなら、死んだはずの妻が赤いバンダナ、白いタンクトップ、カーキ色のズボンにマシンガンをかついで映画祭に現れ、観客席へむけて銃を乱射しながら「私はこんなにも貴方を愛しているのに!」と絶叫するようなもんですよ(ハーラン・エリスンからの悪い影響)!

 本作には、前作へと向けられた様々の悪意に対する目くばせもまいてあったりして、じつにクレバーな作家だなあと、あらためて感心させられました。すべての作品で同じモチーフ(映画好きの不死の美少女)が登場するのも、ある種の才能が持つ偏執性を感じさせて、とてもいい。私が彼の作品を見るときに連想するのは、川原由美子「ペーパームーンにおやすみ」に登場する少女の部屋です(私の自意識もそこに住んでいる)。ファイアパンチの感想のときにも少し触れましたけど、小説道場なら「君の作品は一見、軽薄で剽軽なのに、どこか自閉症的な拒絶を感じる。君が描く『硝子の部屋』はきれいだが、いつかはそこを離れなければならない。先生は君が『硝子の部屋』から出てくることを、ゆっくりと待ちたいと思う。人生は、そんなに怖い場所ではないよ、タツキ」とか論評しそうな感じ。

 栗本薫ほど人生に期待をしていない私としては、社会の状況や読み手の批判に、それこそ炭鉱のカナリアの如く敏感に反応して、すばらしい作品をアウトプットする書き手であることを確信したので、ファンガスと同じく「二百年を生きる吸血鬼」の自我を保ったまま、映画に幽閉された廃屋に居続けてほしいと心の底から思いました。本作もみんなでガンガン批判して、彼に次の名作を吐き出させよう(ひどい)!

漫画「ファイアパンチ」感想

 ファイアパンチ、読む。好きなモチーフや嗜癖(人肉食とか)をぎゅうぎゅうに詰め込んだ、作家としての良い部分と悪い部分のメーターがともに振り切れている作品でした。序盤から中盤にかけては世紀の大傑作なのではないかと興奮していましたが、終盤から最終話にかけて物語のテンションは次第に下がっていき、チェンソーマンほどは漫画読みたちの俎上にのぼることの少ない理由がわかりました。「どんなキャラでも、物語のためなら躊躇なく壊すことができる」「冷笑という言葉では生ぬるいほど、人間と人類に対する期待値が低い」、この2点が突出した彼の持ち味だと思うんですけど、殺せるからといってトガタを殺したのが迷走の引き金になったと思います。それは鳥が空を、獣が陸を、魚が海を否定するのと同じ作劇であり、氷の魔女に役割を引き継がせればまだどうにかなったかもしれませんが、本作のテーマが依拠する土台を完全に消滅させてしまった。ブッとんだセンスにばかり目が行きがちですが、基本的に物語文法への意識を強く持ったクレバーな作家なので、本作では「トガタを退場させたら、この物語はどうなるんだろう?」という悪魔の誘惑にあらがいきれなかったのだと思います。そして、「外見と演技によるアイデンティティ」というフレームが無くなり、そこから思想・信条・宗教・文化・歴史・地縁・血縁・道徳・倫理・勇気・信念を順に放棄していった上に地球まで破壊して、最後に残ったのが「愛」(と映画館)だったというのは、プラネテス級のドッちらけな幕引きでした。

 どっかの炎上ユーチューバーもそうですけど、自己認識が「300年を生きる魔女」であるうちは、歴史や人類のすべては他人事だし、おのれの主観だけでいくらでも何かを断罪することができます。身体の内側から「ファイア」が消えて、ただの寒暖が身をさいなむようになり、だれもが自分よりは優れていると感じるようになってからが、人生の本番なのではないでしょうか。 え、アンタが他人のこと言えるのかって? 小鳥猊下はネット黎明期から生きているレジェンドなので、すでにそのくびきからは逃れているよ! いつまでも安心して見ていられるね!