猫を起こさないように
東浩紀
東浩紀

映画「ホーリーチキン」感想

 ホーリーチキンの監督ですけど、父親から受けた虐待への怒りをファストフードに、虐待を止めなかった母親への恨みを女性へのセクハラに、それらに起因する生きづらさをアルコールへの耽溺に向けているように見えます。数学の才能が無いグッド・ウィル・ハンティングとでも申しましょうか、良いセラピーを受けたら負の感情がすべて消えて宗教家にでもなりそうな、典型的な西洋型トラウマ人格であると指摘できるでしょう。前作のスーパー・サイズ・ミーは、ドキュメンタリーのていをしながら、ビックマックを食べてからゲロするみたいに、落とし込みたい文脈への誘導が非常に強くて、個人的に社会批評としてはあまり刺さらず、視聴後もモリモリとバーガーを食らい続けてきました。それが今回は、鶏肉産業が抱える問題に対して警鐘を鳴らすためだけにファストフード店の設立へまで至っており、前作と比べても社会批判の強度が格段に上がったように感じました。

 このへんの経緯には、アカデミアの雇われを辞して会社を設立したイーストちゃんの手法を想起させられました。ブロックされてるので何が起きてるかあまりわかってませんけど、わざわざ低みへと下りていって感情でプロレスするところも似てるような気がします。前にも書いたけど、彼にはやっぱり酔わずにしゃべってほしいし、できることなら文筆だけで思想を表現してほしい。みなさん、すぐルッキズムとかおっしゃいますけど、人前で話をするのって、声のコントロールを含めた外観の総合を見せる技術だと思うわけですよ。その訓練を受けていない人が、純粋に話の内容だけで判断してくれと言っても、外見に引っ張られず聞くには受け手側へ相当の知性と自制が要求されます。イーストちゃん、社員に軽んじられることを著書で嘆いてたけど、原因の7割くらいは話し方だと思うんですよねー(残りの3割は、本人が克服したと信じているマッチョイズム)。最後に彼の語りを聞いたのは、シンエヴァ公開当日の動画ですけど、まー、これがひどかった。忖度の眼差し(「シンエヴァが傑作だ」というトーンが決まるまでの様子とか)を向けながら、表向きは無頼なマッチョのようにふるまう追従者2名を前に、酔っ払いながら甲高い声で早口に話す様子は、彼の来歴とエヴァとの関わりを知らない者が見たら、即座に印象だけでチャンネルを変えたことでしょう。何度でも繰り返しますけど、イーストちゃんにはやっぱり酔わずにしゃべってほしいし、できることなら文筆だけで思想を表現してほしい。

 だいぶ脱線したので、話をホーリーチキンへ戻します。最初の店舗が2016年にオープンしたみたいですけど、現状はどうなってるんでしょうか。ちょっと調べた感じだと、2019年で更新の止まったツイッター・アカウントと、フランチャイズを募集するホームページが残っているだけのようです。もし、ホーリーチキンがフランチャイズで全米へと広がって、ナンバー1シェアのチキンサンド・チェーンとなり、同時に鶏肉産業の闇が明るみに引き出されて衰退して、結果ホーリーチキンも順に閉鎖へと追い込まれるみたいな展開になれば、実効的な究極の社会批評が完成するのになあと思いました。

映画「新喜劇王」感想

 チャウ・シンチー監督作品は本邦でビデオ化されたものは、必ず買って見ると決めている。悪くは無いけど、なんだろう、このモヤモヤとした気持ち。たとえば松田洋子ファンが「薫の秘話」や「リスペクター」を期待して追い続けてるのに、「ママゴト」や「父のなくしもの」が上梓されるのを見るときの感じ。バッドトリップみたいなギャグと言語センスによる唯一無二のグルーヴ感を持ってるのに、親子の葛藤みたいな、だいたいだれが書いても同じハンコ絵みたいになる寸劇に才能が使われることを惜しむ気持ちだ。同じように、本作も映画としては悪くないのかもしれないけれど、やはり昔からのファンは「少林サッカー」や「カンフーハッスル」や「西遊記」のような、チャウ・シンチーにしか撮れないものを見たいと思っているのだ。荒唐無稽から普遍の崇高へと至る落差が彼の持ち味で、いまこの文章を書きながら、「少林サッカー」でサイクロンみたいなシュートをヒロインが太極拳の動きで止めるシーンが思い返され、じっさいに鳥肌が立ち目頭が熱くなってきている。

 本作は旧作「喜劇王」の半ばリメイクになっているのだが、主人公を女性にしたのは明らかな改悪で、不燃ゴミみたいにジメジメした当アカウントで炎上をわざと引き起こすために言うと、「女芸人の芸は笑えない」という例の命題を引き起こしてしまっている。映画全体の9割ぐらいが下積み時代の話で、主人公の女性を殴る蹴るは当たり前、性格は元より顔の造作から果ては体型までを何度も何度もディスっていく。執拗な繰り返しで笑いを作っていくこと自体はチャウ・シンチーの持ち味だと思うし、西洋の映画文法や構成術をガン無視していく手法は大好きだけれど、今回ばかりは「もうええって」と渋面でつぶやかざるをえなかった。最後、主人公は女優として大成ーー「一年後」というテロップで済ます雑さだけどーーして、これまで彼女をイジメてきた人物たちへの間接的な復讐を果たす「スカッとチャイナ」みたいな展開になるんだけど、ラストシーンのファンとのやりとり含めて、本作が監督の自伝的作品だとするなら、いい話ふうに終わってるけど結局これ、バリバリの生存者バイアスじゃねえのって気分にさせられた。成功したからこそ浪費した時間や無駄な努力を肯定できるし、過去の貧乏や不幸も人生のスパイスとして懐かしく振り返れるんですよね。だれに何を言われても、自分を信じて続けていればいつか何者かになれるっていうメッセージをもはや額面通りには受け取れないし、後から来る人たちにそれを言う無責任さへの躊躇が勝る年齢になってしまいました。

 そうそう、この年末年始で「ゲンロン戦記」を読んだんですけど、この世には作り手になれない人のほうが多いので、豊かな文化を形成するためには観客の育成こそ肝要みたいなことが語られてて、文筆だけで食っていける人物がその事実を使ってだれかをなぐる(じっさい、多くがそうしている)ことを選ばないのには、正直なところ視座の高さが違うなと思わされました。荒廃した祠の忘れられた神になるくらいなら、たとえ小さくとも祭りを続けられるよう信徒を集めた方がはるかにいい。イーストちゃんをはじめて知ったのは、クイックジャパンだったかで旧エヴァ劇場版を見て興奮しまくっている記事だったなー。以後、エヴァに関する言説という点でのみ追いかけていたので、ときどき横目で生存を確認しては安心するような関わり方であり、熱心なフォロワーではありませんでした。他にも同書では、この半年ぐらいアカデミズムに対してモヤモヤしていたことが言語化されていて、読んでてスッとした。かいつまんで要約すると、後から来る未熟な者たちを導くためには、先を進む者たちの熱狂に現場で感染させるしかなく、オンラインではそれを生じさせることが難しいという内容です。

 またぞろムカムカしてきたんで下品に怒るから、イヤな人はこっから何行か読みとばしてほしい。あのな、自分の内側にあるのに独力では気づけない衝動を呼び覚ますプロセスが、教育とちゃうんか。いまだ己が何者かわからない未熟な存在にアンケートした結果で、”see?”とか小馬鹿にした態度すんの、ほんま腹わたが煮えくりかえるわ。奴隷商人が奴隷に「おまえら、幸せだよな?」と聞いて「ハイ!」と言わせるみたいな構図になってんの、自己弁護に汲々とするあまり見えてへんねん。動画や文章による専門性の伝達がよりすぐれた少数へ収斂して他が淘汰される未来で、肉体を伴った場が持つ伝播の力をあえて無いようにつるつる語れるんは、年齢的にもう逃げ切れると思ってるからやろ、ああ?

 怒りのあまりだいぶ話がそれた(いつも通り)が、何が言いたいかといえば、文章で読むときのイーストちゃんは理知的(シラフだし)でホントいいこと言うなってことと、チャウ・シンチーには監督兼任で主演へ戻っていただき、「少林サッカー」ワールドカップ編や「カンフーハッスル」天下一武道会編や「西遊記3」天竺編をぜひ撮影してほしいってことと、シリアスや感動ものはもういいので、そろそろ「リスペクター2021」が読みたいなってことです。