猫を起こさないように
旧エヴァ
旧エヴァ

アニメ「エヴァ破再視聴、あるいは旧エヴァ19話礼賛」

 なんかYoutubeで序破Qが無料公開されていると聞きおよび、久しぶりにロスの自宅に備えた7.1chサラウンドのシアター(忘れてた)でアンプの埃をはらって、10年ぶり(10年ぶり!)に破を大画面で見た。オリジナルの8話から19話を再構築しながら、同時に旧劇場版のモチーフをあちこちに散りばめて、本当に新しいエヴァの新たな行く末へ、期待しか持てない仕上がりだったことを再発見し、悔しさのあまり涙が出てきた。2010年の段階で、都市を襲う津波がすでにビジュアル化されていたり、海洋研究所で大災害を生き残った者がいなくなった者を悼むやりとりがあったり、2011年の出来事をあらかじめ予見したかのような先回りのアンサーさえ描かれいる。今回あらためて、Qでの方針転換が本当に余計で必要のない、作品の自走性と共時性を裏切った、ただただ世の悲惨をエンターテイメント化する類の冒涜だったとの気持ちを強くさせられた次第である。

 さて、ここからはただのおたく語りとなる。くぐもった早口で本当にキモいので、注意してほしい。終盤のアスカ退場以降の展開について、テレビ版の19話があまりに完璧すぎるため、カネと労力はより以上にかけられているだろうにも関わらず、ゼルエル戦のパートがゴテゴテと厚塗りされた(特にコネメガネ周辺)緊張感のないものにしか見えなくなっている。劇場公開版では本部への使徒侵入後のシーン全般に赤いフィルターがかけられていたのをご記憶だろうか。第19話の構成・構図・カット割りのテンポがハイパーすぎて新作で上書きすることができず、コピーで流用するしかないのを、演出で異なったふうに見せようとあがく試みがすべて空回りしているのだ。後のぶんだー(笑)艦長の台詞にしても「メインシャフトが丸見えだわ」はテレビ版の録音の方がはるかに鬼気迫る感じだったし、「5番射出急いで」の下りも緊迫感を大きく損なう改変ーーロックを解除してから、初号機がキックでボタンを押すーーが行われており、見るたび生理的な違和感でイラッとする。電源が切れる直前のシーンも原作のゲス顔(劇場公開版はゲス顔のままだった)から、観客にアピールするためのヒロイックな表情に差し替えられており、人類の存亡をひとりで背負ったあの場面におけるシンジさんの必死さを大きく減じているように思う。あらゆる手段でテレビ版の19話を越えようともがくも、完璧すぎる内容にことごとくはねかえされ、苦肉の策で行った修正や追加演出ーーシンジさんの「でもそんなのかんけえねえ」、コネメガネの「もったえー(え、何? オマエ滑舌わりいな)」ーーが見事にスベッているのは、もはや気の毒でさえある。新劇場版しか知らない君には、ぜひテレビ版の19話だけでも見てほしい。

 あと、劇場公開版はBGMが台詞や効果音を圧倒するぐらいもっとギンギンに鳴っていて、DVD版の音量バランスにガックリして、アンプを調整することで再現できないか一晩中、延々と設定を詰めていたことも思い出した。あの頃は、本当に次への期待にあふれていて、楽しかったなー。本当に、楽しかった……

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

映画「まどか☆マギカ新編」感想

 アイム・スティル・リヴィング・イン・ザ・ナインティンズ! 小鳥猊下であるッ! 貴様らがあんまりEOEを超えたとか破を超えたとか騒ぐから、「エヴァを馬鹿にするなッ! エヴァをけなしていいのは、この世でボクだけなんだッ!」と絶叫しながら自家用ジェットで奈良の辺境を脱出し、まどかマギカ新編を見てきた。

 幼少期にトラウマを植え付けられた誰かが、トラウマを持たない誰かとのふれあいによって魂の癒やしを得る。テレビ版から引き続いて、苛烈な虐待を受けた子供や猟奇殺人者が描いた絵画を連想させる背景美術が素晴らしく(中世? 同じ意味だろうが!)、それを素晴らしいと感じる理由が作品テーマとの融合にあったのだと気づいた。

 最近の私の気分を伝えれば、この脳髄にはまったトラウマテックなフィルターを外して眺めるならば、世界に通底する基調はおそらく善だろうと考えているし、何より行動の事実として今や人類の存続の側に加担してしまっている。確かに自分は歪んでいて間違っているが、この世の別のところには健やかで正しいものがあると信じられること、あるいはそれへ実際に触れることが、誰かにとっての救済なのだと思う。

 話はそれるが、遅ればせながらキーチVSを最終巻まで読了した。高天原勃津矢と同じく、世界に対して特別な存在であるためには、人類の存続に挑戦する悪を行使することが、現代では唯一の方法だ。作中にたびたび描写されたように、善行に対してネットの白けた発言は「教祖様」と揶揄できるが、明確な悪の一線を踏み越えた者に対しては、一斉に誰もがからかいを止めてしまう。悪の行使は、世界に偏在する目に見えない善を一瞬だけ可視化させ、人の心へ集合無意識的な善を否応に惹起するからだ。世界中を味方につけることはできないが、世界中を敵にすることは誰にでもできるのである。

 閑話休題。ドラスティックな世界観の反転が、まどかマギカの持ち味だと思う。テレビ版のあの結末から、新編のこの結末へと至ることは、むしろ物語自身が求める必然であった。それゆえに、新編はテーマとして退行せざるを得ず、私には語られるべきではない、非常に蛇足的な内容だと感じられてしまった。そして、ネット上の感想に散見される続編への期待に驚く。もし更なる続編が構想されるならば、ここまでのような叙述トリック的作劇、短所を隠し長所を強調する化粧に長けた女性の手口では、どうしても追いつかない場所へ突入するだろう。

 今回の物語の最終盤、これはEOEでさえ感じたことだが、表現しようとしている中身に絵と言葉が追いつかない感じがあった。この先にはデビルマン的な善と悪のハルマゲドンしか残されておらず、その描写に説得力を持たせることは、あのエヴァでさえ未だ達成の不可能な、正に神か悪魔の領域なのだ。諸賢は軽々と続編への期待をぶちあげぬがよろしかろう。

 ああ、聖典たるEOEにまで言及してしまった! ごめんなさい、教祖さま! もう、こんな不敬は致しませんから!