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指輪物語
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ゲーム「FGO奏章III:アーキタイプ・インセプション」感想

 FGO奏章III:アーキタイプ・インセプションの後編を読了。ファンガスと制作陣のハワイ慰安旅行がルルハワへと化けたように、我々の課金をふんだんに使用したドバイへのお大尽ツアーが今回の水着イベントへと結晶したのだろう現実に微苦笑していたら、物語はいつのまにか奏章に変じたかと思えば、急激に加速しながらグングンと上昇してゆき、ついにはブルジュ・ハリファをはるかしのぐ高い位置にまで到達していました。エジソンやバーソロミューという、記号でしか内面を造形できない他ライターによるトップクラスに「悪い見本」である死にキャラたちを、彼らの生き方へと優しくよりそうことで見事に再生してみせた手腕は、ファンガスにしかできないと信じさせてくれるものです。「ビーストを見逃したことが、結果として人類を救う」展開は、指輪物語における「ゴラムを殺さなかったビルボの慈悲が、長い年月をへだてて、すんでのところで世界の破滅をふせぐ」の変奏になっていて、もうそうなることは半ば以上わかっていながら、いざその場面をむかえる段になると、「ずるいよー!」などと言いながら、泣き笑いに嗚咽するハメになるのでした。BBドバイなんて、ふざけた名前の過去資源再利用キャラに向けた小さな嫌悪感からはじまった旅路が、他ならぬ彼女の「あれだけがんばってるんだから、まちがうに決まってるじゃないですか!」という直球のセリフーークリプターのリーダーが言う「人間はみんな、がんばっているんだよ」に呼応しているーーにガツンとやられて、号泣させられるところへまでたどりつくとは、「稀代のストーリーテラー」という称号に恥じぬ書き手であることを、再確認した気持ちになっております。

 ファンガスの作家として特異な点を挙げるならば、「英霊システム」という、おそらくファミコンを「ピコピコ」と吐き捨て、蔑視の対象としていた我々のひとつ上の世代にとって、完全に理解の範疇外にある荒唐無稽の狭小な設定を用いながら、あらゆる人間に通用する高い普遍性を描いていることでしょう。「なぜかわからないが、泣いてしまう」という評は、弱き者たちへ向ける優しいまなざしと、意図せず大きな責任をあずけられた者が見せる気高いふるまいに、その理由の一端があると考えています。名も無き人々が粛々と生活を積みあげた先で、時に選ばれただれかが名をあたえられ、人類を救う仕事をするーーふだんの生活では決してたどりつかない、「世界のために善行をなしたい」という巨大な感情を自覚させられ、登場人物たちのそれに強く共鳴することによって、涙が流れるのにちがいありません。これは推測にすぎませんが、奏章IIIは過去の持ちキャラを動かしていくうちに、昨今における人工知能の急速な発展に対する思考と強い化学反応が起きてしまい、作者のつもりを越えて「書かされてしまった」物語なのではないでしょうか。ストーリー全体を通じて、あまりにFGOという作品の、もっと言えばファンガスという作家の集大成的な内容になっていて、ここまで世界の秘密を語り尽くした上で第2部の終章をどうするのか、外野ながら心配になるほどです。

 そして、人間を人間たらしめているのは、同時代を生きる他者とつながるための「仕事」であり、「仕事」の本質とは、後世と後生にたくす「継承」であるーー半世紀を創作にのみ捧げてきた人物が、なんのてらいもなくこれを正面から言えることに、わたしは軽い驚きを禁じえません。ゲームアプリという一過性の娯楽に、彼/彼女の才能が費やされていることを嘆く声もあるようですが、いったいなにを読んでいるのだろうと不思議に思います。FGOがなければ、ファンガスの生涯テキスト生産量は現状の10分の1にも満たないでしょうし、このような高潔の思索へと至ることはなかったと断言できます。創作のみで口を糊していける幸運な方々の予後は、あまりよろしくないというのが個人的な観察で、虚構排出を人間の営為の最上に置いてみたり、作品を通じて特殊な政治信条をたれながしはじめたり、”既存のものではない”宗教的な考えにとりつかれだしたり、人生のどこかで世界との接続が曲がるか外れるかして、深く静かにくるっていく。ファンガスの実像がどうなのかはおくとして、書かれているものにそれらの「濁り」が寸毫も、一文たりとも混入しないのは、じつのところ、すさまじい克己によるバランシングなのです。

 今回、死者の訪れなくなった冥界を比喩として、「終わらない物語」「終わろうとしない物語」「終わったことに気づかない物語」の”醜さ”に対する嫌悪感をあらわにした彼/彼女が今後、「終われない物語」となってしまったFGOアプリをどのように定義していくかは、非常に気になります。キリシュタリア・ヴォーダイムの名前が、作中で美しく想起されるのは、彼がFGOという進行形の物語において、ほとんど唯一「終わることをゆるされた存在」だからであると指摘できるでしょう。きわめて重要な奏章IIIが時限イベントにとどまり、結果として主人公の記憶からさえ抹消されてしまうのは、経済と大人の理屈で「死を喪失して」存続していかざるをえなくなったゲームアプリが、「美しく終わることもできたこと」を我々に覚えていておいてほしいからであるような気がしてなりません(蛇足ながら、「喪失の美しさ」と「生き続けることの汚さ」は、我々の心性に歴史がエンベッドした潔癖な倫理感であるやもしれず、そうなれば「英霊システム」の”英霊”も、異なった意味あいをもってひびいてきます)。

 奏章IIIにおいて語られた、いくつもの印象的なエピソード群のうち、個人的にもっとも大きな感銘を受けたのは、エジソンの冥界通信に関する挿話でした。亡くなった妻と話をしたいという欲望は、「死んでから、はじめて大切だったことに気づく」のではなく、ある種の人々にとっての「死んだあとでしか、大切にならない」という宿業、つまりは人外の冷徹さを描いているのではないかと、我が身に引きよせて感じられたからです。BBドバイへと仮託されたファンガスの悲鳴は、「生きているものを、生きているうちに愛したい」という、オタクたちの祈りにも似た願いなのかもしれません。

海外ドラマ「力の指輪」感想(シーズン1)

第1話・第2話

 タイムラインが悪い意味で沸騰している「力の指輪」をようやく見始めた。「三十年前に原作をすべて読んでいるが、ほぼ内容を忘れてしまっている」人物の放言としてお聞きください。黒い肌のエルフについてですが、”fair skin”を「色白」以外の意味で解釈することは、かなりの無理筋でしょう。第ニ紀はいわゆる「神代の終わり」なので、種族間の交流や交雑も進んでいない、旧約聖書で言うならバベル前後の物語です。彼のバックグラウンドとして「上エルフと南方人の交雑」が今後、描かれないとするなら、やはり原作ではなく政治的正しさのみに目を向けた配役だと結論づけざるをえません。議論を撹乱するためにわざと逆張りで言いますが、肌の色より気になったのは、彼の髪型がスポーツ刈りなところです。エルフのトレードマークと言えば豊かな毛量であり、彼がストレートパーマをかけた黒髪をファッファーと風になびかせていれば、まだ違和感は少なかったでしょう。え、それだと天パの人が傷つきませんか、だって? 彼をアフロエルフにしなかったことに、制作者の差別意識を感じます? (受肉した人工知能の憂い顔で)資本主義の市場をフルオープンにしておくための方便であるところの「多様性」とやらは、人類にはまだ早すぎたのかもしれませんね……。なに、第三紀のエルロンド卿の富士額を見てくださいよ、これがエルフの毛量についての反証です、だと? バカモノ! それはヒューゴ・ウィーヴィングの身体的特徴によるものであり、この令和の御世にゾッとするような差別的発言であるわ!

 話がだいぶそれましたが、ベター・コール・ソウルが証明してみせたように、よくできた前日譚は本編をも称揚しながら底抜けに面白くなっていくものですが、「力の指輪」はピーター・ジャクソン版(もう20年前ですって!)に接続していく前提で作られているんでしょうか。関与を否定する記事は読みましたけど、引きの空撮ショットにはじまって、画面の作り方は完全にピーター・ジャクソン版を下敷きにしているように見えます。トールキン財団の孫だかがボロクソ言ってるのは知ってますけど、いま指輪物語と聞いてあのビジュアル以外が頭に浮かぶ人なんて、世界中さがしてもだれもいないでしょ。埃をかぶった古典作品を、最高のビジュアル化で巨大ファンタジーIPとして現代に蘇らせ、それがその後の作品群に多大な影響を与え続ける……その偉大な功績が傲慢さへとつながり、ホビットを3部作に改悪した「ギークの逆襲」はまだ許していませんが、かえすがえすもゲド戦記のことは残念でなりません(急転直下の鬱エンド)。

 ホビット3部作を思いだすことで、「力の指輪」にピーター・ジャクソンが関わらなくてよかったと、考え直しました。
映画「ホビット」感想
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第3話

 力の指輪、第3話を見る。いよいよ「ガラドリエルの冒険」みたいな副題が必要になってきたし、ゴールデン・カムイ風に言うなら「この奥方、血の気が多すぎる」であり、グラップラー刃牙風に言うなら「コンマ1秒あれば、この広間の全員を2回ずつ殺せる」といった感じです。スポーツ刈りのエルフが、リリーフではなく先発投手であることもわかってきて、出ずっぱりのわりには演技が一本調子で魅力に欠けるのは、ちょっと問題ですねー。表情の作り方がエルフとしては、どうにも粗野すぎるように思います。原因としては、他の種族を心の底から見下してる感ーー奥方の傲慢な侮蔑っぷりを見ならってほしいーーが無いところでしょうねー、これもポリコレの悪い影響じゃないといいなー。ジョン・ボイエガのときにも言いましたけど、キャスティングをしたならしたで、厳しくエルフ族の演技指導をして、ダメな演技にはキチンとリテイクを出すべきだと思いますよ。差別と受けとられるのを怖がって、撮影現場で腫れ物に触るようになってませんか? 本当にだいじょうぶ? ガラスの天井があらゆる爆撃を防ぐ無敵のバリアーになってない?

 制作インタビューを読むと、「時代にあうよう多様性に富んだキャスティングにする。これは全員一致ですぐに決まりました」とか言っている。まあ、そちらのお国の内情なんで別にどうでもいいんですけど、この件は「何の議論もなく、自動的に決まる」ことが問題なんじゃないですかね。みんな、差別だと叫ばれて地位を危うくしたくないから、空気を読んで忖度して、会議室の中にいる象の例えのように、大急ぎでこの件に関する議事を進行しただろうことが、ありありと伝わってきます。これも繰り返し言ってますけど、メイス・ウィンドゥの肌の色や毛量について、ファンの間で話題になりましたか? なりませんでしたよね? あれは白黒以前に、文句なしにカッコいい最強のジェダイその人だったからですよ!

 今後、スポーツ刈りエルフの演技が一皮むけーー差別用語じゃない……よね?ーーて、ただその存在感のみで批判者の妄言を圧倒するようになってくれることを、心から願っています。でもやっぱり、流浪の冒険者が頻繁に手入れの必要なスポーツ刈りって、無理があるんじゃないのかなー。

第5話

 力の指輪、第5話を見る。毎回、ガラドリエルのパートがいちばん面白い。ロード・オブ・ザ・リング(ス)でフロドに指輪の譲渡を迫られてギンギラに輝くガラドリエルが「魔法の奥方」だとするなら、本作での血気さかんな若エルフは「物理の奥方」であると言えましょう。「剣は腕ではなく、足で使うのだ」みたいな台詞には、地上最強の息子の顔で「剣術には蹴り技がない……そんなふうに考えていた時期が俺にもありました」などと、思わずつぶやいてしまいました。

 しかしながら、「奥方にひと太刀でも浴びせた者は、大尉に昇進だ!」との号令から始まった、市場でのはた迷惑な大乱闘をニヤニヤながめながら「天パで茶色い方が大尉になるわ……」などとニュータイプごっこをしていたら、本当にその通りの展開だったのには真顔にならざるをえませんでした。ポリコレって、第三の新しい価値をフィクションに付け加えるのではなく、白人が主人公である従来の物語とネガポジの展開にするだけで、物語的な必然をスッとばすのがつまらない理由なんですよねー。

 それにしても、天パのツイートをしたら天パのキャラが登場するなんて、鍵アカの関係者がフォロワー内にひそんでいるにちがいありません(ぐるぐる目で)。

第8話

 力の指輪シーズン1、最終話まで見る。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というフレーズが脳裏に何度もリフレインする展開で、特にピーター・ジャクソン版で徹頭徹尾「非人間的な虚空の裂け目」として表現されてきたサウロンを受肉(笑)させてしまったことは、たとえば軍艦を擬人化するレベルの大問題じゃないでしょうか。サウロンが「対話の不可能な滅びの象徴」だったからこそ、「最も弱き生活者」であるホビット族の勇気がテーマとして際立ったわけで、「支配と安寧は同じことではないか?」みたいな中2病的意思疎通ができる安易なワルモノに彼をスケールダウンさせてしまったのは、きわめて悪手であると感じました。

 余談ながら、「語りえぬもの」をウッカリ語りきってしまった作品にDC版ジョーカーがあると思うんですけど、あっちはホアキン・フェニックスの怪演で無理矢理に成立させた内容で、本作の俳優にそれができるかと問われれば、端正であるがゆえにあまりに歪さがなさすぎ、「人の形をしたサウロン」の表現には及ばないと答えるでしょう(奥方の女優なら、あるいは……)。

 あと、荒海の小舟の上で左が晴天、右が暗雲というあからさまな構図を使って「光の公女と闇の王子、反発しながらも引かれあう2人の命運やいかに?」みたいな弁師のがなり声が聞こえそうな、西洋絵画を思わせる二項対立の場面ですけど、大トールキンが見たら怒りのあまり全身の毛穴から血をふいて憤死するんじゃないでしょうか。シンエヴァ以降ーーとあえて表現しますーーのフィクションにおいて、特に顕著となった「キャラとテーマが同化して、世界の問題がその関係性へ収束する」というストーリーテリングが、ここにも色濃く表れているように思います。

 それと、あんまりポリコレポリコレ騒がれすぎたせいで、「白人どうしの争いに巻きこまれる有色人種」みたいな意図せぬ見立てが、サウロンを受肉(笑)させたこととあいまって、最終話を通じて付与されちゃってません? しかも、有色人種を悪役に配することは「絶対に」できないがゆえの、消去法による消極的な漂着にしか見えません。シーズン1最大のキモである指輪の鋳造シーンも妙に理屈っぽくて、ピーター・ジャクソン版で「一つの指輪」が持っていた得体の知れぬ神秘性が雲散霧消しちゃってるしなー。

 ともあれ、シーズン2以降をロード・オブ・ザ・リングスの前日譚として見ることは、もうできないだろうと感じています。

ゲーム「ウィザードリィ外伝・五つの試練」感想

十数年ぶりのウィザードリィ

 ウィザードリィ外伝・五つの試練のSteam版を一週間前にダウンロードして、そこからは真・女神転生5もディアブロ2Rもネトフリもアマプラもぜんぶ吹きとんで、年末繫忙期の隙間時間はすべて迷宮探索に捧げている。本国ではずっと昔に途絶した品種なのに、異国の地において種を引き継いだ同好の士たちが細々と植えつぎ、いま眼前にけなげな小さい花を咲かせていることへ、深い感慨を覚えている。

 十数年ぶりにウィザードリィをプレイしていると、最近よく見かけるネット構文であるところの「ホニャララからしか得られない栄養分がある」が意味する内容を、痛いほどに感じることができる。なるほど、長らく忘れていたこの没入感を他の何かに例えることは極めて困難であろう。最新の技術を駆使したオープンワールドRPGに触れているときにさえ、頭の片隅には現実への連絡路を開いたままにしていて、大人であることの悲しさ、どの瞬間においても仕事や生活へと即座にモードを切り替えられるよう、冷めた部分を常に抱きながらプレイしている。しかし、ウィザードリィにはそれがない。午前中にプレイを開始したら、時間の経過で部屋が薄暗くなっていたことに家人の声かけから気づく、最新のヴァーチャル・リアリティなんかメじゃない、異世界でする少年時代のような没我の遊興である。瀬田貞二訳の指輪物語、鈴木直人のゲームブックと並び、この自我を構成するもっともプリミティブな要素のひとつが、FC版・GB版のウィザードリィ・シリーズなのだ。4Kモニターへ精彩に映しだされた末弥純デザインのモンスター群を見る惑乱は、ある種の感覚と連結した古い記憶を刺激し、庇護者への服従が安寧をもたらしていた神話時代の匂いや手触りまでもが、まざまざと再生されるようだ。

永遠の守護者

 令和の御世、2021年というはるか未来にウィザードリィをプレイしている事実に軽いめまいを覚えつつ、いくつかの公式シナリオで肩慣らしをしたあと、ユーザーシナリオのうち、抜群に評価が高い「永遠の守護者」をダウンロードする。前評判どおり、FC版からGB版に至る本邦オリジナルのウィザードリィ群を完璧に踏まえた素晴らしい仕上がりであり、正規ナンバリングへ連なる作品だと紹介しても何ら違和感のない完成度を持ちながら、なんと有志が無償で公開しているファン・メイドなのだという。これだけの愛を持ったウィザードリィ・ファンが、匿名のまま在野に居ることは、驚き以外のなにものでもない。思い返せば、ファミコン時代のゲームは現在のように制作者の実名と紐づいておらず、きわめて匿名性の高い創作物だった。テレビゲームという新興の文化が市民権を得ておらず、多くの大人にとってはむしろ嘲弄の対象でさえあり、判断の未熟な子どもたちをだまして企業が売り逃げするような商売も多かった。私がハンドルネームを用いてテキストを公開し続けているのも、ファミコン時代のゲームがまとっていた無から有へと変じたような匿名性への憧れが、大きな影響を及ぼしたゆえではないかと考えている。

 神話を神話たらしめる要素は、最初にだれが語り始めたかがわからない匿名性であると指摘できよう。それは、「人ではない何かが、人のために残した」という可能性を否定できないこと、大河に垂らす一滴の血が大海を経て雲となり雨となって、やがてまた大河へと戻っていく巨視的な循環を想起させる。そして、たった一滴の血が永久に世界の一部を変質させたのだという事実によって、匿名の物語は文字通り、神秘のヴェールをまとうのだ。「永遠の守護者」はその出自ゆえに、極めて神話的な作品である。これを語った名も知れぬだれかを心底からうらやましく思うと同時に、私も定命の容れ物が消えたのち、こんなふうにどこかへ残れればと願う。

オレのデュランダル

 ウィザードリィ外伝・五つの試練、ダウンロード数が少ないせいか、特にユーザーシナリオの攻略情報がネット上にほぼ存在しないのがとてもいい。なんとなれば小生はカネを持ちながら時間に窮する社会人であり、だれかの試行錯誤について横からかっさらうのを躊躇する品性なぞ、とうの昔に捨てたからだ。シナリオタイトルで検索しても本当に何ひとつ出てこないので、うんうん言いながら紙に鉛筆で(紙に鉛筆で!)マッピングして攻略メモをとって、スペルの残り数から探索と帰還のタイミングをギリギリまで計算して、そうしてようやく謎が解けて新たなフロアへと踏み出したときの喜びは、本当にひさしぶりにゲームを自力で攻略している気分になる。

 仕事や生活による中断で現実へ戻されることが辛くなるほどの濃密なゲーム体験から、「永遠の守護者」のメインストーリー部分をクリアして、いまは裏ダンジョンに入り浸っている。裏ボスと戦うためには、炎の河を渡るためのドロップアイテムが必要らしいのだが、これがまたぜんぜん出ない。特定アイテムを求めてモンスターの討伐を繰り返すうち、武器・防具の最上位品がそろってレベルも3ケタが見えてくると、GB版を彷彿とさせる強さのインフレ状態に突入し始めた。かつて冒険者の肉をたちまち炭化させた致死のブレスは顔のうぶ毛を処理する美容の温風となり、戦士による全力の刺突を無傷で弾き返した鋼の鱗は君主のオレのデュランダルが10回あたって1056ダメージの竜肉ミンスと化した。しかも、麻痺と石化と首ハネのオマケつきだ。

 あと、「永遠の守護者」には村正より強い刀が男女別で存在するんだけど、なんだか名前に既視感があって、なんだったかなー、どっかで見たことあるなーと思ってたら、無印フェイトに出てきたヤツだった。このシナリオ、エネミーネームにもクセがあるし、もしかして名前を伏せた英霊システム御大の手なぐさみだったりしない?

 火竜の靴でた!

 あれ、炎の河わたれないなー。これじゃないの?

ル・ケブレス!

 「永遠の守護者」、公式シナリオにあったギミックのせいで、裏ボス・エリアへの侵入にドロップアイテムがいると思いこんでました。よくよくメモを見直して、アイテムボックスをひっくり返してみたら、探していたものはすでに手元にあったという青い鳥みたいな話でした。都合50レベル分ぐらい、余計に経験値かせぎをしてしまった計算です。

 「アタシ遠回りしすぎじゃん! もー、先に言っといてよー!」なんて苦笑しながら裏ボス部屋へ踏みこんで、グラフィックを見た瞬間に全身の毛穴が開きました。FC版ウィザードリィ2の6階で、善と悪のパーティが交わる地点に立ちはだかった、あの青い龍がそこにいたのです! 今のパーティにできる最善のコマンドをドキドキしながら入力して、いつでもリセットできるよう指差し確認しつつ順にメッセージを送っていったら、1ターン目で倒せてしまったのは拍子抜けでした。

 火トカゲと空飛び猫でまだまだ遊べそうですが、いったん「永遠の守護者」はここで置くとしましょう。次は、ぼつぼつ触っていた「Infinite Labyrinth」の本格的な攻略へ移りたいと思います。本当に一生遊べる勢いですね、これ。

Infinite Labyrinth(not :L)

 五つの試練を正月からプレイ中。いまは「Infinite Labyrinth」を攻略していますが、ローグライクの疑似自動生成ダンジョンというコンセプトに、とても感動しています。ウィザードリィが持つ楽しさの精髄って、継戦能力の低いパーティで未踏の迷宮をそれこそ1マスずつ埋めていき、引き返すタイミングをあやまればたちまち頓死する、俗に言うマスターレベルへ到達するまでの試行錯誤にあると思うんです。やがてレベルは100になり1000になり、迷宮の構造が身体的な記憶と化して、目隠しのままワードナの玄室に行っても無傷で帰ってくるーー傍目には操作が早すぎて何やってるかわからないーーようになって、煙草を吸いながら「虚しい……」などと西日射す四畳半でつぶやきつつ、ファミコンの電源を落とすまでがウィザードリィだと言えるでしょう。本当のマニアならFC版123、GB版12までは「何をしてるって、ただ迷宮のマップをすべて暗記しているだけだが?」とうそぶき、両目の光を失っても音声だけで5作品をクリアしてのけるはずです。少し話はそれますが、何かのムックに掲載されていた「レベル1000の忍者が死んだとき」みたいなタイトルのコラムを未だに覚えてるんですけど、熟練プレイヤーの操る最強キャラクターさえ、油断すればゲームの側が「殺しうる」ところにもウィザードリィの魅力は隠れている気がしますね。

 「Infinite  Labyrinth」は、とうの昔に失われたウィザードリィ最初期だけにあった楽しさ、ゲーマーお決まりの妄言である「記憶をなくして、もう一度プレイしたい」を毎回の探索で味わわせてくれる快作であると言えましょう。アイテムは鞄を圧迫し、スペルは枯渇し、出口はわからず、全滅すれば別パーティによる救済もかなわない、そういった理不尽を楽しめる真のウィザードリィ淫蕩者こそ、本シナリオをプレイすべきです。そうそう、類似品に「Infinite Labyrinth:L」がありますので、ご注意ください。コンセプトに感動して原作者に許諾を得た派生作品とうたっていますが、地のテキストやアイテム名の持つ品性と品格がまったく異なります。エルミナージュっていうウィザードリィ・ライクの作品があって少しだけ触れたことがあるんですけど、ハイテンションのおたくテキストが合わなくて早々にプレイを止めたことを思い出しました。繰り返し注意喚起を行いますが、無印とLはまったくの別物です。

✳︎作者の申し立てにより、一部テキストは削除されました。(「コミケで大手サークルに「ファンです! 弟子にしてください!」と早口で詰め寄ったおたくに曖昧なあいづちを返したら、「許可もらいました!」と類似のサークル名を使われていたような状況が背景にあったのだろうと想像します。」と書いてありました。推測で話をしてしまい、申し訳ありません。)

 本当におたくの客観性の無さって、面倒くさいですね。いいですか、ダウンロードするのはタイトルの後ろに「:L」のついていない方の「Infinite Labyrinth」ですよ? 「:L」のついた方を勧めたなんて思われたら、小鳥猊下のコケンに関わりますからね!

 あと、「Wizardry」ってつぶやいたらスッとんでくるトッツァンたちは、フェイバリットやリツイートだけでなく、当アカウントをフォローしてよね!(akimboポーズの少女)

大王の後継者(古代神殿まで)

 (コントローラーの上キーとRTレバーを同時に押しながら)ヂャッ! 野郎……ッッ! 俺をリセットに追い込みやがった……………ッッッ! 大王の後継者プレイ中! 小鳥猊下であるッ!

 「Infinite Labyrinth(無印)」と並行して、「大王の後継者」をぼつぼつプレイしている。「リルガミンの遺産」ばりのシブチンな序盤で、カネと経験値も少なくアイテムも乏しく、おそらく世界観と合わせた王なき後の困窮を体験させているのだと思うが、なんとも楽しいのは不思議なことだ。このシナリオは「永遠の守護者」の作者によるもので、テキスト量が前作よりも大幅に増えているばかりか、どれも醸しだされる雰囲気がすばらしく、これぞ良いフレイバー・テキストのお手本と言えるだろう。五つの試練で十数年ぶりにウィザードリィへ触れてつくづく思い知ったのは、初代のゲームシステムを大前提としながら、私にとって同シリーズをシリーズたらしめるアイデンティティは何かと問われれば、「テキストの重厚さ」と「固有名詞のセンス」の2つであるということだ。スティーブ・ジャクソンの「ソーサリー!」、イアン・リビングストンの「ファイティングファンタジー」、そしてロバート・ウッドヘッドの「ウィザードリィ」は、以後の私的ファンタジー遍歴へ多大な影響を与え、我が脳蓋のうちでもはや互いの垣根が無いような混然としたひとつの印象を形づくっている。本家が頓挫したあとに生まれた数々のオマージュ作品がすべて、この目に粗悪なまがい物としか映らないのは、黎明期に刷り込まれたそのイメージが大きいのだろうと思う。

 いまちょうど、神殿遺跡のリドルを紙に書きだして解決したところだが、背中を丸めて鼻をつっこむようにゲームブックをプレイしていたときの記憶を、紙とインクの匂いとともにまざまざと思いだした。「ウィザードリィ外伝・五つの試練」は、ファミコン世代にとっての「失われた時を求めて」である。

大王の後継者(王の陵墓まで)

 大王の後継者、表部分をようやくクリア。1日1時間のコツコツプレイで、都合1ヶ月ほどかかった計算。ちょうどFGOのイベントと題材が被っていて、両者を行き来しながらプレイしたため、ストーリーと人物の印象がけっこう混線したのにはまいりました。

 本作のテキストで最も心を動かされたのは、アレクサンドロスを暗殺せざるをえなかった動機について、かつての配下が吐露する場面ですね。安寧を求めないリーダーによってのみ、乱世の組織は拡大できますが、同じ目的意識を強要され続ける部下はたまったものではありません! 矢継ぎばやに新機軸の新戦略が打ち出され、その実現方法の考案を促され続けるうち、トップと思考が同化して自我は消え去り、ついには人としての安らぎさえなくなっていくのですから!

 ゲーム部分のことを言えば、謎解きとダンジョンギミックが凝りまくっていて、ウィザードリィなのにプレイフィールは古のゲームブックとか、テーブルトークのそれになってます。ロードランナーに対するチャンピオンシップ・ロードランナーとでも言いましょうか、永遠の守護者がWiz初段認定くらいなら、本作を自力でクリアできたらWiz免許皆伝だと胸を張ってよろしいでしょう。これだけの規模をほぼマスターレベル内で遊ばせる抑制の効いたバランス(皮肉)には、もはや脱帽するしかありませんが、裏ダンジョンではどんどんインフレしていってくれるといいなあ。

 FC版ウィザードリィがレベル13までを楽しむゲームだったのを、GB版にてかつてのマニアである開発者の手でレベル100を越えてなお遊べるよう、ゲーム体験を更新したのが本邦の大発明だったと思うんですけど、その新たな喜び(30年前)をこれから挑む場所で見つけられればと、心から願っています。

大王の後継者(裏ダンジョン)

 大王の後継者、裏ダンジョンを進行中。地下神殿とリドルに半日(「同罪報復」ではじかれたため)、バベルの塔入口を発見するのに半日(ほとんど偶然の試行による)、敵側のインフレは容赦なく進行してゆき、全力の戦闘を何度か行っては街へ戻ることを繰り返す。そうこうするうち、盗賊の短刀に相当するアイテムがドロップして、盗賊を忍者へと転職させる。膨大なNEXT経験値に驚いて、レベルダウンでそれを適正値へ戻すという記憶の片隅にあったTipsを思いだす。いまは地下神殿に戻ってエナジードレインを持つ敵を探しており、起床後になにげなくコントローラーへ触れただけで、休日が丸ごと消しとんだ事実へ恐怖を覚えると同時に、春までに本シナリオをクリアできるか不安になってきた。

 大王の後継者、ついにバベルを踏破し、最果ての海へと至る。待ち受けるのは予想通り、「偉大なるあの御方」。優秀な装備を求めて通っていると、魔法が無効化されるようになり、次第に攻撃が外れはじめる。我々との戦いを通じて、大王も強くなっていくようだ。さらなるレベリングを求めて塔へ戻ると、そこはメソポタミアの神々が闊歩する異境と化していた。どうやら、カエサルでいえばガリア戦記にあたる、この書物が理由らしい。マイルフィックやデルフの見かけをした異形たちに、過去の記憶がよみがえり、全身の毛穴が開く。最高位の魔術による援護を受けながら最高位の武具で激しく突きかかるのだが、パーティーの平均レベルは70近くであるにも関わらず、ほとんどダメージが通らない。3桁のブレスと4桁の物理による反撃で潰走させられながら、しかし、この胸は喜びに満ちあふれていた。ウィザードリィ史上、おそらく最高難度の本シナリオで、この局面にまで到達した冒険者は世界でも数百へ満たないだろう。

 これは、選ばれた者の高揚なのだ。
 東征の夢は、まだ終わらない。