この連休中でもっとも胸のすいたできごとと言えば、「超弦理論の台頭により、数十年を停滞する物理学」の実態について知ったことでしょう。アホの文系アタマにできる最大限の要約をすれば、原子以下のあまりに微細な事象を取り扱うために実地の検証がほぼ不可能であり、理論だけが先鋭化していって、現実に有効な予言が生まれないという批判です。予測されていた超対称性が粒子加速器の実験では確認できなかったのを、「単に精度の問題であり、ないはあるを否定しない」みたいな理屈でダチョウが砂地に首を埋めるようにふるまっているのが現状だとかなんだとか。高度に発達したケトゥ族の知的遊戯が、やがて数式による創世神話と化していき、いまや論理の正しさではなく多数決と政治力が研究予算に直結する世界になっていると聞きおよび、思わず頬がほころんでしまいました。なあんだ、やっぱり理系クンたちもそうなんじゃん。
本邦における超弦理論の研究者が、「理論をゼロから構築するのではなく、すでに存在する真理を発掘しているような手触り」と語っているのをどこかで読んだことがあり、用意された解答を探る快感に陶然となっているのが伝わってきて、まさに受験勉強を最大に延伸した究極の果てという印象を受けました。先日、国営放送で流された宇宙際タイヒミュラー理論をめぐる騒動のドキュメンタリーも、正味の中身(踏韻)は「文系しぐさ」そのもので、「千人がひとつの物語を読むとき、そこには千通りの解釈がある。しかし、千人がひとつの公式を見るとき、そこにはひとつの意味しかない」との豪語は、いったい何だったのかという気にさせられます。同理論が高度な数学を用いながら、文学的世界解釈のファンタジーに過ぎないとするなら、日々をクソ文系仕事に従事する小人の溜飲も大いに下がろうというものです。
あと、連休中に快慶の仏像を見る機会があったんですけど、この仏師、グラップラー刃牙の強い影響下にありますねー(たぶん、逆)。