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ゲーム「ディスティニー」感想、あるいは大作化の問題点について

 ディアブロとヘイローとスカイリムのゲーム性を同じ鍋で煮詰めて、スターウォーズとスタートレックとマジックザギャザリングの世界観を香りづけとしてふりかけた超大作。あちこちで宣伝しまくっていたので、ゲームに興味が無くとも名前を知っている向きは多かろう。操作感は軽快だし、画面のクオリティは超絶的だ。制作側の愛と熱気も充分に感じられる。しかしながら、冒頭の要素の足し算にはなっておらず、結果としてそれぞれの劣化コピー感ばかりが強く感じられる仕上がりとなっている。

 だが何より恐ろしいと思うのは、十年近くと5億ドルを制作に費やした超大作であるのに、リリース直後の48時間程度である程度まで評価が定まってしまい、いったん悪いふうに定まってしまえば後からの追加要素でそれを覆すのが極めて困難だということだ。エンターテイメントを食い散らかすわれわれ飽食のブタへ、天井知らずに高まっていくクオリティを維持しながら、本質的にはすでにどこかで語られてしまった物語をそうではないように提供する作り手側の恐怖は、いかばかりかと思うのだ。

 いったいどうやって、彼らは作り続ける意志を保つのだろう。それは大河に落とす一滴のようなもので、きっと自分がやらなくても他の誰かが同じように、あるいはもっと上手くやってくれるのだ。他の誰かがではない、今ここにいる「自分」が作らねばならない、物語らなければならないと、どうすれば信じることができるのだろう。現在のnWoの停滞とはまさにその停滞である。いくつかの新たなアイデアから更新に着手しようとはした。だが、なまじ一般受けをねらって球を投げたばかりに、書く動機を失ってしまったのだ。私小説や日記をのぞいて、特定の人物が語らなければならない虚構が、いまの世界に存在するのだろうか。

 ……というのが最初の5時間くらいまでの、しかつめらしい感想。

 それからさらに10時間ほどプレイして、先ほどストーリー部分をレベル18でクリアしたが、物語の展開がびっくりするほど理解できない。これほど理解できないのはFF13以来だが、実際のところファルシのルシをコクーンでパージをはるかに超えるレベルで理解できない。いつのまにか自分が発狂しているか、脳に重篤な障害を抱えているのではないかと疑うレベルで、本当に何も、何ひとつデスティニーという物語が理解できない。正気を確かめるためにいくつかのSF作品を見返したぐらい、己の認知崩壊を半ば信じかけるレベルで理解できない。でも、ゲームとしてはすごい面白い。プレイ時間に比例して面白くなる。なんだこれ。

 「大変です! コーテックスにフレイヤーが侵入しています!」 え、なに? もう一回言ってくれる? 小鳥猊下であるッ!

 質問:e3,TGSとありましたが、今期待しているゲームがあれば。

 回答:E3やTGSが何を指すのかわからず検索したほどにはゲーム業界の事情に疎い俺様だが、もうBloodborne一択である。以前も話したように思うが、すべての携帯ゲーム機には今この瞬間、即座に爆発して欲しいし、破砕したそのガラスが蒙昧な似非愛好家どもの水晶体を苛烈に切り裂いて欲しいと真剣に願っている。先日発売されたらしい乱闘撲殺兄弟の最新作や、かつて愛した怪物殺戮者シリーズなどは、目先の小銭に目がくらむあまりプラットフォーム選択を明らかに失敗しており、もはや深刻な憎悪しか感じない。ロス在住の外タレである俺様が求めるのは、巨大モニターとサラウンドを兼ね備えたゲーム専用シアターに火を吹かせる正真正銘の次世代ゲームであり、携帯ゲームなどという尻毛に付着した糞の欠片を積極的に舐め取ろうとする貧乏人どもは、それこそ半島の電動玉はじきでもやっていればいいのである。君や私のような金満家たちは、そろそろ貧乏人からゲームを取り戻そうではないか。某有名美食家ふうに言うならば、「なんという汚らしい画面と音声だ! 必要もない連中がゲームをするからだ!! 馬鹿どもにゲームを与えるなっ!」の心意気である。それこそソフトやハードの価格を十倍にして、真の愛好家以外をふるいおとせばいいのだ。いつまでも貴様らの母親がゲームのことを「ファミコン」とか「ピコピコ」と表現するのは、正に貴様ら低収入の無業者どもがスマホや携帯ゲーム機を使用し続けるがゆえである。ゲームが本邦において文化として成熟できず、貶められ続けている原因は、正に貴様らであることを自覚せよ。

 「あのケッチにケルがいるはずです!」 ごめん、もういいや。小鳥猊下でした。

 うむ、私だ。何ッ、アースホールが閉経し申し上げただと!? 小鳥猊下であるッ!

 なんかアイポンを大画面にしたら、突如イングレスがプレイできなくなった。なので営業中に生じたその隙間に、デスティニーの世界観のことをぼんやりと考えていた。設定集であるところのグリモアを読んでも読んでもわからないストーリーになんか既視感あるなー、なんだったかなーと考えていたら、諸君の期待を裏切って誠に申し訳ないがエヴァQではなく、桜玉吉「なぁゲームをやろうじゃないか!!」のアコンカグアの回だった。「漫画専門学校の生徒がつい描いてしまいそうな、ひとりよがり設定のファンタジー」という欄外の解説は、デスティニーの正体を過不足なく語り尽くしており、ようやく胸のつかえがとれた次第である。この回は傑作なので、諸君にもぜひ読んでみて欲しい。小鳥猊下だった。

 デスティニーの内部告発みたいな文書を目にする。クリエイター側がこだわりのあまり制作に時間をかけすぎ、業を煮やした販売サイドが制作サイドからゲームを取り上げて、物語の枝葉をばっさり切った上でリリースのための突貫工事を行ったことをうかがわせる内容だった。クリエイターのこだわりが過ぎて作品を取り上げられるのってなんか本邦でも見たことあるなー、なんだったかなーと思っていたら、FF12とFF15だった。

 またエヴァQの悪口になるけど、いっしょに見に行った家人が「優秀な人たちにたっぷりの時間とお金をあげてもうまくいかへんのやから、アニメを作るのって難しいんやねえ」みたいなことを話していたのを思い出した。まったくその通りである。海の上のピアニストという映画で主人公が「鍵盤の数が88という有限だから無限の音楽を奏でられるのであって、無限の鍵盤を持つピアノでは誰も音楽を奏でられない。それは神のピアノだ」って語る場面があるんだけど、最近はいろんなジャンルでこの神のピアノ問題を見るなあと思った。

 あと、かぐや姫の物語が取り上げられなかったのは、さすが高畑監督だなと思った。

 なんかデスティニーってさ、今のゲームの悪いところの象徴って感じ、すんだよね。ゲームは基本的に子どものもんだって気持ちがどこかにあって、その上で「大人も楽しめる」ってのが理想なんだよ。今のゲームってさ、子どもは無視して大人めがけて作ってて「大人しか楽しめない」ってのがすごい増えてる気がする。そりゃ、子どもって属性は時間とともに失われるテンポラリーなものだから、少子化の時代にそこ目がけて作っても先細るっていう理屈はわかんだよ。でもそれってやっぱ大人サイドの理屈じゃん。デスティニーって、5億ドル使って10年かけて作ったんだってさ。10年っていう制作スパンが、もう子どもって属性を無視してるよね。10年って赤ん坊が小学生になって、小学生が成人を迎えるような年月だよ。例えば神格化された初期のドラクエ三部作は、2年にも満たない年月で続けざまにリリースされて、まさにその時代の子どもが子どもの属性を失わないうちにシリーズの完結までを体験できたことが大きいと思うんだ。

 ごめん、またエヴァの悪口言うけど、序の所信表明に若者のアニメ離れを食い止める、みたいな文言があって、その気宇にすごい感銘を受けたんだけど、それって正に子どもっていうテンポラリーな属性のうちに体験することの重要さを言ってると思ってたんだよね。でもそっからもう10年近く経とうとしてるわけ。序ではじめてアニメに感動した子どもは、もうエヴァという物語の完結を見ずに、この世界には存在しなくなってるわけ。もういい大人になってるぶんにはいくらでも待つけど、子どもは待てないんだよ。以前スカイウォードソードの感想でも似たようなこと書いて、そのあとゼルダの制作期間が5年は長すぎる、みたいな社長インタビューをネットで読んだんだけど、まさにこの失われる子どものことを言ってんじゃないかなあ。

 初代ポケモンとか体験した世代だけど、あれも今日まで生きながらえているけれど、もうぜんぜん今の子どものものじゃない気がする。かつて子どもだっただれかが、自分の子どもに自分の子ども時代の感情を追体験させているっていう感じがすごくする。不純物が多く混ざってる気がする。日曜朝のライダーとかレンジャーとかプリキュアとかもそういう感じがすごいする。だから最近は、レベルファイブってすごいなあって思う。

 10年くらい前にローグギャラクシーとかいうゲームがあって、グラフィックがきれいだけどストーリーが意味不明っていう、まさにレベルファイブ版のデスティニーなんだけど、これをプレイしたときは本気でブッ殺すぞって思った(今でも鮮明に思い出す「二つの塔で苦労も二倍だな!」)。実際にそこから一切レベルファイブの関わるゲームはプレイしていないんだけど、ローグギャラクシーの反省からか子ども向けの新規タイトルをずっとリリースし続けていて、ついに妖怪ウォッチを大ブレイクさせたのがすごいなって思う。就学前の子どもが「じばにゃん、じばにゃん」と言いながら走り回るのを見かけるにつけ、本当にひさしぶりに、子どもだけに向けたゲームが出てきたことを実感する。親が我が子のためにグッズを買いに走り、でも何がそんなに面白いのかはわかってない感じが、すごく子どもだけのものって気がする。

 このブームを見て、やっぱりすべての物語には賞味期限があって、その中でも子どもに向けた物語だけが幾度も幾度も、趣向を変えて語られ続ける意味があるんだなと思った。かつてジュヴナイルと呼ばれた物語類型だけが、何度も何度も子どもたちに向けて新たに語り直される意義を持っているような気がする。バンジーには、たぶん無理だろうな。