猫を起こさないように
大谷翔平
大谷翔平

映画「ミッション・インポッシブル:デッド・レコニング」感想

 ミッション・インポッシブル:デッド・レコニング、これまた愛マックスで見る。前作からあいだにトップガン・マーヴェリックを挟んだせいで、「配信全盛の現代における、劇場映画の守り手」とか「自制心に満ちた一流の俳優で、最高の映画キチガイ」など、ちょっとトム・クルーズに対する評価と期待値を上げすぎた状態で見始めたのですが、映画が終わる頃には「ああ、MIシリーズって元々はB級C調のバカ映画だったし、トムも他の役が回ってこないスタローン級の大根役者だったわ」としばらくぶりに長い幻惑から覚めて、真顔になってしまいました。「コンプライアンスの概念がハリウッド全体に浸透し過ぎたため、ヤクザまがいの横車を押して編集権をにぎる往年の剛腕プロデューサーは姿を消し、映画制作がクリエイター主導となってしまった結果、近年の作品はどんどん大長編化して冗長になっている」との指摘をどこかで読みましたけれど、本作にはこの批判がそのままピッタリと当てはまります(最初に流れたデューン第2部の予告編の、まあダラダラと長かったこと!)。

  このシリーズ最新作、なんと脚本を準備せず撮影に入ったそうなのですが、「撮りたい絵が優先した支離滅裂なストーリー」「一貫性の無いキャラクターの感情と言動」「物語を駆動しない、”撮影したから使っただけ”の意味不明なカットの数々」などなど、「手に入った映像素材のパーツでジグソーパズルをしている」みたいな、迷走した仕上がりになっています。特に目立つのが「欽ちゃん走り」ならぬ長回しの「イーサン走り」で、その多くがシーンごと丸々とりのぞいてもストーリー進行には何の影響も与えないことでしょう。序盤で空港の屋根を延々と走る場面などは「60歳を越えて、長距離を全力疾走できるトム・クルーズの節制はえらいなあ」というメタい感情を観客に惹起することが目的でないとしたら、「がんばって走ったら飛行機を追い抜いて、現地へ先回りできた」みたいな意味不明の文脈を生じさせてしまっています。

 また、近年の界隈に顕著である「人種アファーマティブ枠」で選ばれたヒロインがまったく魅力に欠けており、この女優に「ルパンを手玉に取る峰不二子」という役割を与えようと試みたのが、映画内で起こったあらゆる事象を踏まえたとしても、最大のアクシデントでしょう。ただのモブだと思っていたスリの男顔女が、前作からのバディを押しのけてまでずっとスクリーンに居座り続けたのには、ビックリ仰天しました。いつまでも終わらないカーチェイスや、アクション映画のお約束となった暴走列車の屋根における肉弾戦など、直近に視聴したインディ・ジョーンズ由来の既視感はすさまじかったのですが、ハリソン・フォードがトム・クルーズよりはるかに動けていないことを勘案しても、フィービー・ウォーラーのヒロイン分だけ、あちらの方が上等な作品と言えるでしょう。予告編でさんざん撮影の舞台裏を含めて公開した、バイクで崖から飛びおりる例のシークエンスにしても、ストーリー上での使い方がヘッタクソーーイーサンの機転ではなく、失敗の帳尻あわせーーすぎて、「予告編で観客の脳内に繰り広げられた妄想が最高潮」という情けない有り様になっているのです。おまけに、飛びおりからパラシュートで列車に取りつくところまでを長回しでやるのかと思いきや、「まあ、それはさすがに危険すぎるでしょ」と2つにカットを割ったのも、かなり興ざめでした。

  映画終盤のアクションも、撮影技術的にはすごいのかもしれませんが、「アンチャーテッド2の冒頭を実写でやってるなあ」という感想が先に来て、少しもワクワクできませんでした(アクションシーンの新味という意味では、出がらしみたいな作品です)。「トム・クルーズ本人が墜落しても骨折ですみそうな、ほんの低い位置をパラセイリングする」という貧弱なスタントシーン(笑)から、2時間40分もの長尺を使っていながら尻切れトンボの方がまだ尻尾が長く残っているぐらいの感じでエンドロールとなるのですが、「撮りたい場面だけカメラを回していったら、ある程度の映像素材がたまったので、パートワンのラベルを貼ってとりあえずの幕引きとした」みたいな、観客をナメきった不誠実さを強く感じました(パートツーの構想は、現段階でほぼゼロなんじゃないでしょうか)。クランクインに先んじて脚本がキチンと用意されていて、剛腕プロデューサーが興行収入という自身の職責に照らして編集権を行使できる現場なら、「沈没したロシアの潜水艦へ深々度ダイブして、鍵を使って人工知能を停止する」までやった上で2時間に収めて、1作で完結できていただろう内容の薄さです。

 かように受け手をナメきった態度は、デッド・レコニングというカタカナ邦題にも表れていて、この単語の意味はもちろんのこと、航海用語であることすらわかっていない人がほとんどでしょう。それを「いいって、いいって、そのままで! トム・クルーズの名前が入ってるだけで、みんな見に来るんだからさ!」と広報宣伝の努力どころか、己の職責さえ完全に放棄したヤリサー陽キャ電通マン(幻覚)の態度には、しんとした深い怒りさえ覚えます。こうやって映画は緊張感の欠落した、人生とは何の連絡もない「パッケージ商品」へどんどんと成り下がっていくのでしょう。いま本邦で、もっとも客を劇場に呼べる作品を教えてさしあげましょうか? ジャンルやタイトル、だれが監督かさえどうだっていいのです、ズバリ、「ショーヘイ・オオタニ主演」ですよ! 芸術を解さない、この田吾作どもめが、みんな死んでしまえ!

雑文「SHOWHEYとCHOMSKY、そしてDAISAKU(近況報告2023.3.16)」

 野球選手の顔面について言及するツイートが炎上した事件を、いまさらに知りました。頭に浮かんだことは2つあって、1つ目は親世代の道徳や倫理に対して冷笑ないし反発して、2ちゃんねるぐらいからの肉を離れた発信ーーパソコン通信のときは、まだ個人との地続き感があったーーに耽溺してきた者たちが、ほかならぬその肉の衰えによって肉の実在にからめとられてしまい、かつてあれだけ否定した昭和の価値観に同調(シンエヴァ問題!)してしまう滑稽さと哀しみです。ハンドルネーム、匿名掲示板、もしかするとポストペット、ついにはバ美肉へと至るネットの変遷とは、現世の肉を離れるための「化身」の変遷でもあったように思うのです。このいずれにも共通しているのは「自分ではありたくない」という切実な希求であり、小鳥猊下なる存在もその欲望に端を発していると言えるでしょう。

 2つ目はSNSに氾濫する言葉の群れのことで、以前「キュレーター不在の博物館の床に放置される真贋不明の美術品」とも表現しましたが、それらは自分の人生、もっと言えば己の肉とは直接に触れることのない「死者の小説」としてのみ、許容されうる性質のものだということです。一般人に発見され炎上した今回のツイートは、昭和の左巻きコメンテーターが生放送の討論番組で顔をさらして発言するときにだけ有効だった類の言説であり、そのラインを読み誤った理由が「化身」の内側にある肉の加齢に過ぎないという点は、ちょっと情けないくらいに凡庸な顛末だと言えます。

 個人的に最近おもしろかったのは、チャットAIの飛躍的な進化に生成文法がキャンセルされる危機感を覚えたノーム・チョムスキー(94)ーー「生きとったんかい、ワレェ!」ーーが公の場に現れて、人工知能を道徳の観点からクソミソにディスった件です。くしくもこれ、野球選手の顔面の話と同じで、旧世代をおびやかす新世代の台頭へ向けた批判は結局、いつの時代もどんな知能からも、道徳へと収斂するんだなあと考えさせられました。世代交代と聞くと「新旧の直接対決によって古い側がやぶれ、双方が納得した上で権威の禅譲が行われる」みたいなイメージを、特に少年漫画に過去を汚染された我々は抱きがちですが、身もフタもない言い方をすれば、古い価値観を持つ世代の引退か物理的な死によって何の意志も伴わず、突然そういう状態になるだけのことなのです。

 「早く辞めるか、死ぬかしねえかな」と思っていた人々がある日いなくなると、長らく場を拘束していた枠組み、イコール古い価値観はウソのように消滅するのですが、外殻を失った内容物はすぐに液状化して外へと流れ出していこうとします。上にもうだれもいなくなった人々は、その事実を前にホッとする間もなく、「これはヤバい!」と自らを枠組み化して流出をせき止めることで、なんとか組織の形を維持する。そして、いったん枠組みとなった個人は個人として扱われなくなり、おそらく物理的な終焉を迎えるまで、ただただ下からの批判と非難を一身に受け続ける装置と化すのです。今回のチョムスキー御大の発言を見て、長らく言語世界の枠組みだった生成文法は、ついに新たな枠組みの内側にたたえられる内容物へと移行したのだとの感慨を、強く持ちました。

 あとは、FGOヘブバン原神ブルアカの倫理観と宗教観をダイサク・イケダ(95)ーー「生きとるんかい、ワレェ!」ーーが公の場でクソミソにディスれば、昭和オタクの世代交代は完了しますね! 唐突に終わります。