猫を起こさないように
古畑任三郎
古畑任三郎

映画「マイケル」感想

 話題のマイケルをIMAXで見る。ボヘミアン・ラプソディの大ヒット以降、雨後のタケノコのごとく作られた有名アーティスト(笑)の生涯を描く伝記作品のひとつで、これまでのご多分にもれず、本家を越えることはできておりません。個人的なマイケル・ジャクソンの印象を述べておくと、インターネットの存在しない時代に活躍した最後のポップ・スターa.k.a.スーパー外タレであり、いまからふりかえって気づくことながら、テレビメディアが圧倒的な唯一性から莫大な影響を全人類へとおよぼしていた時代において、良くも悪くもその功罪の暴威にさらされ続けてきた人物でした。死後に相当な神格化が進みましたが、本邦における当時のあつかいは、パリス・ヒルトンとおなじ「おさわがせ海外セレブ枠」であり、たび重なる整形、突然の白人化、小児性愛疑惑など、良識的な人々がまゆをひそめながらもギラギラと好奇の目をむける、まごうことなき奇人変人のたぐいだったのです。アラビアンナイトのようなベールをかぶりながら、逗留先のホテルで赤ン坊を窓から突きだしてマスコミのカメラにさらす姿など、巷間をにぎわせた彼の奇行の数々をいまでもまざまざと思いだすことができます。テレビを通じた時代の意志によって黒人というカテゴリを突きやぶって、はるかな至高の園にまで連れていかれながら、他ならぬそのテレビのパワーによってさんざんに失落させられたのが、マイケル・ジャクソンの人生だったと言えるでしょう。最近、ネトフリで古畑任三郎を見かえしているのですが、こちらもまたインターネットの存在しない時代の空気感にあふれていて、まさに「楽しくなければテレビではない」を地で体現する、傲慢かつ無邪気、衒学的かつ無知蒙昧、不真面目かと思わせながら転じてドシリアス、そしてなにより、ジャブジャブにカネをつかった躁のハイテンションと”正しくなさ”に満ちあふれていて、なつかしい気持ちとうらやましい気持ちが同時にきました。万能の科学捜査と街中にめぐらされた防犯カメラによって、もはや成立しえないトリックの数々と、大物ゲスト俳優たちとの演技対決を、田村正和という特異点的な個性で強引に成立させるドラマは、令和の御代にはぜったいに再現不可能なオーパーツと言えるでしょう。インターネットが24時間365日を常駐する世界において、古畑任三郎vs.マイケル・ジャクソン回ーー「ンフフ……それはおかしいですねえぇ……あなたのペニスの斑紋と、坊やが暗闇で見た模様は完全に一致しています!」ーーは、残念なことに起こりえないのです。

 話を映画のほうのマイケルにもどしますと、元祖・アーティスト伝記作品であるボヘミアン・ラプソディの持っていた、時代時代の楽曲にあわせて、思春期の劣等感、家族との葛藤、妻とのいつわりの生活、性的嗜好のカムアウト、エイズによる死の恐怖と積みあげた先に、ライブ・エイドにおいて情動を大爆発させるにいたる構成の妙が、こちらからはスッポリと抜け落ちています。多くの観客は「ジャクソン5を抜けて”から”」のマイケルが見たいのに、本作で描かれるのは「ジャクソン5を抜ける”まで”」の時間軸で、父・ジョセフとの軋轢だけが弱いストーリーラインとして、延々と細くつむがれてゆくばかりなのです。この父親によるドメスティック・バイオレンスも時代の要請からか、後期マイケルの肌のように完全に”漂白”されていて、冒頭に少し声をあらげる場面があるものの、あんなほっそいベルトで分厚い半纏の上からいくらたたいたって、皮膚に赤いスジすらつきはしないでしょう。なのに、子役はギャアギャアと大げさに泣きさけんでみせ、この映画のフェイクっぷりを最初からフルスロットルであびせられて、たいそう鼻じろみました。以後もジョセフはホラー映画のドッキリ演出みたく、突然に画面へ登場するたび、コワモテですごんでみせるのですが、毎回マイケルには特に危害をくわえず、すごすごと引きかえしていきます。腕をつかみ、頭髪をつかみ、胸ぐらをつかみ、顔面を殴打し、腹を蹴りあげ、大声で罵倒するなんてことはいっさい起こらず、マイケルの部屋で帰宅を待ちかまえる場面でも、ムダに緊張感だけは高めながら大暴れにはいたらず、なにひとつ調度品を壊さないまま静かに部屋を出ていったのには、「なんやねん、おまえ! なにしにきとんねん!」と心の中で思わず悪態をついたほどでした。直接的なDV描写への遠慮がすぎることの弊害として、父親と目もあわせられず、FAXひとつでマネージャーを解任したのになぜか実家ぐらしを続け、大観客にむけてジャクソン5の解散を宣言するくせに、面とむかってはなにひとつ言えず足早に会場から逃げ去る姿は、一貫してただのヘタレにしか見えません。問題の本質は、マイケル役が遺伝的類似を持つソックリさんにすぎず、本職の役者ではないことで、実在の人物とは似ても似つかぬ細面の優男がフレディ・マーキュリーという男の本質を表現しきったのに対して、演技が弱すぎるために父親と対立が葛藤のドラマとして昇華していかないのです。

 じっさいには他の兄弟との確執もあったのでしょうが、映画化の許認可を与えるさい、マイケルに係るすべての罪をジョセフに押しつけようと暗黙の合意がなされ、ジャクソン5の他のメンバーは彼の人生になにひとつ影響をおよぼさない、無個性の点景にまで後退していきます。結果として、「家族という名の地獄を撹拌することで生まれた、天上の音楽と魔性の舞踊」という創造の源泉が消滅し、スリラーのMV撮影シーンも制作秘話というより、フワッとしたマイケルの指示と挙動に一流ダンサーたちがいちいち大げさに驚いてみせる、デトロイト・メタルシティを彷彿とさせるーー「すげえ、さすがマイケルさん! ジャケットの脱ぎ着をダンスの一部にとりいれるなんて!」ーーギャグみたいになっています(我々はすでに「THIS IS IT」で彼のクリエイティブの舞台裏を見ているだけに、余計にそう感じるのかもしれません)。おなじことがコンサートシーンにも言え、おそらくダンスと歌唱のしあがりに自信がないせいでしょう、やたらとカメラアングルを変えながら、熱狂する観客の様子を次々とインサートしまくります。これは国宝における鷺娘問題と同様の構造になっていて、もっと堂々と引きの定点カメラで長回しをすべきだったと思います。家族の葛藤を描けず、マイケルの真情を演技で伝えられない以上、本作は「最新の映像フォーマットおよび音響技術で再現する、遺伝的類似を持つソックリさんによる完コピ・ミュージックビデオ」であることが最大の価値となるはずですが、その観点からさえ不満の残るクオリティになっているのです。映画の最後に置かれたロンドンでのソロライブも、直前のジャクソン5解散コンサートとパフォーマンスの内容が似かよっているため、父親のくびきからの解放というテーマも表現できておらず、どこまでいっても画面の解像度と音圧以外は本家にかなわないミュージックビデオという印象のままでした。

 本作には字幕版しかないのですが、全編にわたって歌詞のキャプションがつかないのも、楽曲に仮託する隠された真意がまったくないことを逆に表してしまっていて、ハリボテMV感はいっそうに強まりました。またぞろ続編の話も聞こえてきますが、巨大な事故物件となったネバーランドを実物とVFXを駆使して、当時のままの姿で見られるだろうぐらいの期待しか、もはや残されておりません。裁判とスキャンダルの落としこみ方に四苦八苦するぐらいなら、マイケル本人がほぼ唯一、ライブ映像のパッケージ化を許諾したライブ・イン・ブカレストを8Kリマスターして劇場にかけるほうが、オールドファンにとっても、本作を通じて新たにファンになった人たちにとっても、よっぽどウィンウィンになると思いました、ポウ!(おわり)