猫を起こさないように
原神
原神

ゲーム「原神5章4幕・燃ゆる運命の虹光」感想

 原神の第5章を実装分まで読む。特に4幕について、画面内で起こっていることに1ミリも同調できず、これほど物語に入りこめなかったのは、ディシアの伝説任務ぶりかもしれません。その理由としては、受容のための心がまえができていなかったことが半分、ストーリー展開と演出のまずさが半分、といったところです。まず、今回の魔神任務をシロネンの伝説任務だとカン違いしてスタートしてしまったのが、ボタンのかけ違いのはじまりでした。と言いますのも、なぜか大型アップデートに必ず付随してきたフィールド部分の拡張がなく、「6つの部族から6人の英雄を選出する」という設定から、残りの3部族と呼応する新エリアが登場するまで、メインストーリーは先に進まないという思いこみがあったせいです。ナタのそもそものサイズ感も、宝箱の位置を示すトレジャーコンパスの解放前から、既存マップをすべて達成率100%にできてしまったくらいで、スメールやフォンテーヌをふりかえれば、同サイズの新規マップが当たり前のようにドンと追加されると予想するのは、それほどおかしなことではないでしょう。

 シトラリなる胡乱な人物ーーおそらくセリフの翻訳に失敗しており、中国語原文で読まないとキャラ造形がわからないーーの人探しへ同行していたら、あれよあれよという間に、ご近所の顔見知りぐらいの狭い範囲内で、なぜか6英雄が確定してしまい、ナタの全容も明らかになっていない状態から、アビスとの全面戦争がはじまったのは、旧エヴァで例えれば第拾六話Bパートの途中から、そのまま人類補完計画が発動したみたいなものです。そこから、長時間にわたって離脱できない戦略シミュレーション”風”の特殊モードへと移行するのですが、基本的にストーリーは一本道で、なにをしようと成功裡に進むため、ときおり挿入される勝敗率や損耗率などに、フレーバー以上の意味がまったくありません(FF11のデュナミスをやりたいのかな、とは思いました)。MGSを彷彿とさせる姉妹潜入パートも同様で、元ネタとなる和製ゲームから本歌取りを試みながら、57577の枠組みさえとらえきれていないような有様なのです。残念ながら、これらは中華のコピー商品や偽ブランドと、まさに同じクオリティになっていて、時間に追われた定期更新をそろそろ間遠にし、ガワだけマネた仏に魂を入れるための、テストプレイとリテイク作業を優先すべきだと進言しておきます。

 また、ロシアの上級将校に当たる敵方の人物ーー二つ名はそのまんま「隊長」ーーが、「祖国を戦争で滅ぼされたことがあるので、ナタの防衛に協力したい」みたいなことを言いだしたときには、現実と虚構がオーバーラッピング(笑)し、「オイオイ、どのクチがぬかすねん!」と関西弁による激しいツッコミが入りましたし、パイモンがいちいち民間人の戦死を見て悲鳴をあげるのにも、ほとんど初めて「ウザい」という感情ーー「なに、カマトトぶっとんねん! 悲しいけど、これ、戦争なのよねん!」ーーを抱いてしまいましたし、近所の顔見知り6人による謎の儀式によって、なぜか「全部族の一般人が死んでも復活できる」状態になってからの、アビスに対する大反攻と炎神の「一人ドラゴンボールZ」も、ご都合主義の臭みが強くはなたれた「偽りの昂揚」に感じられました。それもこれも、ホヨバのつむぐ物語には、「現在の社会状況や世界情勢へ向けた、批評的な視点」がどこか含まれ続けてきたからで、今回は「ロシア(相当の組織)と共闘して、なに/だれと戦うのか?」から意図をもって焦点をボカしたせいで、描かれるナタ防衛戦と勝利の喜びは、ウソと欺瞞に満ちたものに映ってしまいます。そうなると、戦争の残酷さを伝えるために、景品表示法から課金キャラは殺せないので、その係累を退場させたのも、作り手の打算的な思惑が透けて見えるようで、どこか鼻じろむ感じはありました。

 正直なところ、今回の第5章4幕においては、世界の実相に迫ろうとしながらも、深さが足りずに座礁した印象があり、ホヨバの苦手分野での底の浅さが割れてしまったことで、日本ファルコムやタイプムーンの「世界の深奥には迫らない、なぜなら売る商品がなくなるから」という姿勢は、もしかすると企業体としては正しいのかもなー、とほんの一瞬だけ思ってしまったことをお伝えしておきます。ただ、本編のあとに解放されたシロネンの個別ストーリーは、「母なる狂気」をミステリーじたてでネチッこく描いていて、あいかわらず最高でしたね。シロネン本人も「情に流されない、冷静かつ理知的な工学系ギャル」として、大いに株を上げました(レベルMAX、スキルMAX、聖遺物は軽く厳選ずみ)。やはり、中華のフィクションは大所高所から天下国家などを語らず、「家族の物語」「時間のSF」だけを書き続けるべきなのかもしれません。この2点においてだけは、まちがいなく他国の追随をゆるさないクオリティですもの!

ゲーム「原神5章・ナタ編」感想(少しFGO)

 原神の第5章である「ナタ編」を実装部分までクリア。「戦争が恒常化した国家」とのふれこみから、ジューに対するナチの所業が、歴史の宿痾として残穢するミドルイーストの被虐殺国ーー不謹慎を承知で言えば、スターウォーズ4を持ちだすまでもなく、大衆向けフィクションは「反乱軍視点」を好むためーーが舞台になるだろうと予想していたのですが、フィールド音楽がライオンキングのテーマをモロにアレしている点からもわかるように、アフリカ・モチーフだったのには拍子抜けしました。キリンヤガの映像化を25年待ち続け、ぢじゅちゅ廻銭の連載より20年も早くムンドゥングゥ(呪術師)が主人公の小説を書いたアフリカ通にとって、評価のまなざしは、いきおい厳しいものにならざるをえません。うがった見方ながら、ロシア相当であるファデュイの悪魔化が薄まってきていることとあいまって、中華の経済政策とリンクした舞台チョイスになっているような気がしてきております。まずフィールド部分について言えば、フォンテーヌ編で導入された水中操作は大きなインパクトを与えましたが、ナタ編はここまでのところ既存エリアのギミックを集積させただけになっていて、新奇さの演出に成功しているとは言えません。特に、恐竜へとモーフィングすることで追加されるアクションの一部が、他のエリアならプレイヤーがふつうにできる行動と重なっているため、不便さの方を強く印象づけてしまっています。フィールドのサイズもフォンテーヌより、さらにコンパクトになっており、「狭いエリアでギミックの密度を高める」方向の調整がなされていて、スメールにあった「広大さに由来する冒険感」はかなり薄まってしまっています(まあ、あっちはちょっと広すぎましたが……)。

 また、しばらくぶりに世界レベルの上限が解放され、プレイヤーの強さはすえおきのまま、敵のレベルだけが10ほども上昇し、反射神経の衰えた世代による「帰宅後の酩酊プレイ」は、いよいよ厳しいものとなってきました。さらに地方伝説をふくめ、「元素パズル」や「純粋アクション」な高難度チャレンジが追加されているのですが、「ターゲットロック」「ローリング」「防御」「パリィ」がすべて”存在しない”原神において、一撃で3万超あるHPを蒸発させるボスの攻撃には、「気がくるってる」以外の表現は思いつきません(初回アップデート前のエルデンリングDLCで、大盾もローリングも使えないボス戦を想像してみましょう)。原神の戦闘は、上記のアクション群がない代わりに「元素爆発」なる必殺技の無敵時間を使って敵の攻撃を回避する仕組みなのですが、これに加えて超必ゲージにあたる「元素エネルギー」の蓄積を阻害するオーラを一部のボスがまとうという、きわめてストレスフルなギミックを導入してきました。RPGというジャンルの欠かざる美点は、「レベリングでプレイヤースキルの拙劣さを緩和できる」ことであると、ゲーム制作者のみなさまにはくりかえしお伝えすると同時に、原神プレイヤーの9割が求めていないことが過去のアンケートでも明らかな、高難度の緩和施策をホヨバに強く求めるものです。個人的に、格闘ゲームへ嫌気がさしてプレイしなくなったときと似た感覚があり、このままではちょっとまずいような気がします。開発チームのみなさまにおかれましては、先進国のチーズ・カウではなく、ゲームにはじめてふれる「アフリカの子ども」を念頭においた調整をお願いし申し上げます。

 ここまで、さんざんゲーム部分の文句を言ってきましたが、ストーリー・パートはあいも変わらぬハイクオリティを維持しており、中華フィクションの真髄および真骨頂は、世界的な超ヒットとなった三体の例をとりだすまでもなく、「気の遠くなるような長い時間」のあつかい方であることを再確認しました。ナタの炎神であるマーヴィカは「赤髪ライダースーツのお姉さん」であり、開いた胸元にはじまる前面のチャックが股関に向けて伸びてゆく、昨今のポリコレ潮流をガン無視したギンギンにセクシャルな造形ながら、彼女を形づくる内面には毛ほどもチーズ・カウ的な劣情を混入させないのは、原神や同社の崩スタの大きな特徴だと言えるでしょう。今回はストーリーの初期から、炎神とのコミュニケーションを深める機会が幾度も設けられており、自然と「TINTINスタンディングの状態から、その魂の高潔さに触れて、崇敬の念に膝を折る」気持ちにさせられるのです(マーヴィカが実装されたあかつきには、雷電将軍と同じだけの課金をしようと固く心に決めました)。また、ナタにおける部族たちの時間感覚は「過去・現在・未来がひとつながりの糸(未来からのホットライン!)」のようになっていて、「個人のふるまいに対する集団の記憶が、長い時間をかけて英雄を形づくる」という仕組みは、非常に考えさせられるものがあります。エス・エヌ・エスでは「いま、この瞬間」だけが常にフォーカスされ、個人の感情を微細にドぎつく言語化してゆく一方で、ロングタームでの集団の記憶は形づくられにくくなり、人々に行動の規範を示して皆の精神を鼓舞するような「古名」は、出現をさまたげられてしまうのかもしれません。

 そして、ナタ地方においては「モノに宿る記憶と精神」が現実へ物理的な影響をおよぼす描写があり、これは重要な伏線になるだろうと予想しています。炎神の孤独と責任の旅路を慰撫すべく、建築物か美術品へと託された「500年前に妹が残した、姉へのメッセージ」がどう描かれるのか、いまから楽しみで仕方ありません。「人間であった時期があるから、私はこの世界を愛おしく、守る価値のあるものだと信じることができる」という彼女の言葉は、現代の孤独な王たちの倦み疲れた心を癒すものではあるでしょう。「王になる」とは、個人であることを捨てて、計画やシステムそのものと同化することに他なりません。夜中に自室で「だれかがここで、やらねばならぬ」とつぶやいた言葉が、ふいに呼び水となって号泣するような、元より少ない仲間をさらに失った就職アイスエイジ・エラのマネジメント層にとって、炎神マーヴィカのふるまいは、まるで血を分けた同志のように感じられることでしょう。最後に別作品の話をしますが、FGO奏章IIIの中編における、箱男の文化的対偶であるところの盾女が叫ぶ、「いえ! わたしひとりで、やるのです!」という決意の言葉は、ファンガスその人がFGOのライティングへ向けた宣言のようにも聞こえて、ひどく胸をうたれました。あなたとはちがう世界に生きていて、組織の規模も養うべき人間の数も、きっとケタ違いなのでしょうけれど、わたしもここで、ひとりでやってみせます。

ゲーム「黒神話:悟空」感想

 待望の「黒神話:悟空」を第2回(章に相当)の、おそらく中盤までプレイ。まず、ゲーム部分をサッと湯どおしするように腐しておくと、システムはゴッド・オブ・ウォーをベースにダークソウルを隠し味に加えて、そこから防御とパリィを引いたものとなっています。武器はもちろん如意棒の一択であり、ボス戦は敵の大技をローリング回避しながら、FF16ばりに少ないダメージをペチペチーー効果音がショボいので、本当にこの擬音がピッタリくるーーと地道に累積していく以外の方法がありません。比較的ダメージ量の大きいタメ攻撃もあるにはあるのですが、道中の雑魚敵を気持ちよく処理するのには使えても、ボス戦ではほぼ役にたちません。なぜなら、こちらのタメ攻撃に対してはエルデンリングばりの、まるでキー入力をダイレクトに検知しているかのような超反応による「潰し」が入るからです。このことに気づくまで、濁流に下半身を封じられた南斗水鳥拳のごとき「跳べない猿」をしつこく棒で跳ばそうとし続け、PS5のコントローラー1個を破壊しました。近年ではゲームソフト1本よりも価格が高いぐらいになっており、破壊へのハードルは格段に上がっているはずなのですが、それさえも抑止にならず、このゲームはみごとに小鳥猊下から「撃墜数1」をあげたわけです。キー入力に対するレスポンスも微妙につっかかる感じがあり、あと一撃というところでR2L2を同時押しーーなんなん、この意味不明のキーアサイン?ーーする妖怪技が不発で得勝を逃したときには、夜中にもかかわらず魂の絶叫がほとばしりでました。もし今後、nWoの更新が長く止まるようなことがあれば、脳か心臓の血管に由来する激情型突然死か、近隣住人の通報による措置入院のせいだと考えてください。

 全体の進行は「オープンワールド風味の、枝分かれが若干ある1本道」になっていて、移動を制限する不自然な透明の壁があちこちにあり、関所のように立ちはだかる理不尽の中ボスを倒すまで、ゲームの進行は完全に停止します。アンリアルエンジン5によるフィールドは美麗さ優先で作られており、スターフィールド用に新調されたデスクトップPCでさえ、処理落ちで重くなる瞬間が何度かありました。また、レベルデザインが甘いため、ふつうはプレイヤーの強化にともなってゼロにまで漸減していくはずの経験値が、いつまでも固定された数字で入るので、ダークソウル式のリスポーンを利用して同じ雑魚敵を何度もたおすことで、序盤エリアから延々とレベル上げができてしまいます。この脳死周回はファミコン時代のレベリングを想起させる絶妙な楽しさーー普段の労働が「同じ内容を、同じ精度でくりかえす」ことに特化しており、性格由来の強い耐性があるーーであり、おかげさまで米国の共和党大統領候補みたいな略称を持つアニメの最新更新分までを、ながら見で履修完了しました(感想は言いません)。サッと湯どおしするだけのつもりが、「高温のコークスで、まる鍋の底を真ッ赤に焼く」みたいになってしまいましたが、本作に対する評価は言うまでもなく、120点です。なぜって、あの斉天大聖・孫悟空をプレイアブル・キャラとして操作できるのですから! この感情は、ワンサイズ小さいパンツでパンパンーー単なる擬音で、他意はなしーーになったムチムチの尻を誇示し続ける整形顔少女が大活躍のステラーブレイドによってかきたてられた欲望と、まさに陰陽をなすものだと言えるでしょう。半島と大陸の新進ゲームメイカーが、世界におのれたちを認めさせるための、言わば社運をかけた乾坤一擲の大バクチに、「美への欲情」と「猿の英雄」をそれぞれ選んだのは、文化論的にも非常に示唆に富んでいると指摘できるでしょう。同時に、本邦の例の超人気マンガに名前ごと上書きされてしまった自国のIPを、巨大な物量で塗りかえすことで取りもどそうとする静かな意志を、ひしひしと感じます。

 昭和後期に青春を過ごした人物は当時、おそらく国交正常化によって醸成された機運から山ほど作られた西遊記オマージュ作品に、心の深い部分をコンタミされており、原神インパクトに続いて長く閉じられていたフタを開かれ、その繊細な部分をひさかたぶりに外気へとさらされた気分になっております。いまパッと思いついた順にならべてみると、「そうさ、いまこそアドベンチャー」は言うまでもなく、「火の玉、悟空の大冒険、ドカーン!」や「ニンニキニキニキ、ニニンが三蔵」や「そこにゆけば、どんな夢もかなうというよ」など、傑作・怪作の数々がそろいぶみ、もしかすると「さらば地球よ、旅だつ船は」さえ、原作小説のSF的翻案だったのかもしれません。個人的には、たぶんタイムラインのだれも見ていないだろう、チャウ・シンチー監督の「西遊1&2」が大好きで、ガンダーラ編を描くだろう3の発表をいまだ心待ちにしているほどです。「黒神話:悟空」は、盛大にネタバレてしまえば、三蔵法師を無事に天竺へ送りとどけてから、悟空が作品舞台を再訪する後日譚であり、西洋文明のこざかしい批評家による「ストーリーは断片的で支離滅裂」などという指摘は、東洋文明における聖書に該当する書物についての基本的な知識すら持たないという、教養の欠落とむきだしの差別心をそれとは知らないまま、恥しらずに露呈しているにすぎません。たとえば、旧約聖書のテキストをそのままゲーム体験に落としこめば、ストーリーは現代の感性に照らして意味不明なものになるでしょうが、その指摘に対して金髪碧眼のサルは、黄色い肌をしたバーバリアンどもの無教養を、口をきわめてののしるにちがいないのです。

 ともあれ、全クリしたら(できたら)、また小鳥猊下の申しのべる感想をタダで読めるわけであるから、諸君はこれから壊れるだろう複数個のPS5コントローラーの代金(値上げ後は、1万2千円超!)として、noteにお気持ちを課金してよい。

ゲーム「崩壊スターレイル・第3章前半」感想

 崩壊スターレイル、ピノコニー編を実装部分までクリア。本作のシナリオは、同社の他作品と比して「情の原神、理の崩スタ」とでも評すべき、仮面ライダーみたいなテイストの棲み分けになっています。「新規のSF的概念」「組織と人物の相関図」「各キャラの台詞と、その裏」を、かなり丁寧に読みこんでいかないとストーリーの本筋が理解できない作りになっていて、グラフィックというよりテキストに強く依存した形式は、かつてのゲームブックを彷彿とさせます。その一方で、JRPGに向ける怖いような畏敬から造形されたフィールド部分に、イヤというほど盛りこまれた大量のギミック群は、本邦のユーザーに「知育玩具」と揶揄されるぐらい、わざわざプレイさせる意味を哲学的なレベルで考えてしまうほど単純なものばかりで、「漢詩の教養が市井の一市民にまで浸透しながら、理系分野においてはいまだひとつもノーベル賞の受賞がない、スーパー文系国家」である事実に由来しているのではないかと、邪推しておる次第です。理系分野の根幹を成す数学という技術は、乱暴な言い方をすればIQテストのパターン認識と事物の抽象化であり、「重厚なシナリオと対極をなす、簡素きわまるパズル遊び」は、中華のその特性にピッタリと合致するように感じられます。

 第三章前半のストーリーについて言えば、今回も世界情勢との意識的なリンクをうかがわせる内容になっていて、故郷を失った「星間難民」であるヒロイン(ホタルたん!)が違法なデバイスを使って夢の世界に密入国したことを告白するくだりは、世界各国の12言語を相手に物語をつむぐホヨバにしか、正面から取りあつかえないだろうと思わせるもので、そこへさらに「筋ジス患者にとってのバーチャル・リアリティ」とでも表現すべきハードな詩情を盛りこんでくるのです。最近、タイムラインに流れてきた「現実が厳しい者は仮想現実を選び、現実に満足している者は拡張現実を好む。それを証拠に、メタクエストは500ドルで、ビジョンプロは5000ドル」という記事を読んださいには考えもしなかった、「現実への充足」とはカネや社会的地位だけを意味するのではないという気づきを前に、五体と五感が不足なく動くことを当然とみなす人物の背筋は、内省によってわずかに伸びる感じさえありました。パイモンのしゃべくり一人称で進行してゆく原神と比べて、崩スタは無言の主人公と距離をおいた三人称のカメラで語られるせいか、ただでさえ速いストーリー展開は緩へ急へとさらに大きな振り幅を見せ、そのドライな筆致によって重要と思われる人物を拍子抜けなほど、アッサリと退場させたりする。もしかするとその唐突ささえ、第三章の後半であつかわれるだろう「夢の中での死は、精神的な死である」という指摘が、いかなる実相をともなうかを種あかしの中心にすえたミステリー要素の一部なのかもしれず、いまはあらゆる想像や予断を外して心静かに続きを待ちたい気分でおります。

 そして、ここまでのマジメな考察と分析をすべて台無しにする萌えコションならではの視点を、我慢できず露出狂のようにまろびださせていただくならば、ピノコニー編に登場する多くの新キャラのうち、なんといってもその白眉は金槌花火(たぶん偽名)たんでしょう! この少女は、下品なワードなので自分のテキストに残すのも正直はばかられますが、いわゆる「メスガキ」というエロマンガ由来のネットミームからその造形をスタートしつつ、その概念をいったんすべて脱構築してから、異なる位相で再構築したキャラになっているのです。同ワードを用いて、本邦の創作者たちが描くだろうエレメンタリー・ガールを想像してみましょう。いま貴君の脳内にうかんでいる、魚類に関するワードを連発する記号まみれのコピーキャットから遠ざかって一個の人格を編みあげた上で、なお「メスガキ」と呼ぶにたるというのは、じつに見事な手腕です。これはまさに、足し算と掛け算をいったん別宇宙に分離してから再構築するがごときアクロバットの所業であり、金槌花火(おそらく偽名)たんの存在は、美少女ゲーにおける宇宙際タイヒミュラー理論だとさえ言えるでしょう(言えると思う……言えるんじゃないかな……まあ、ちょっと覚悟はしておけ)。画面外の大きなお友だちは大興奮なのに、画面内のキャラたちはだれもがうっすら彼女のことを嫌っていて、すでに「どうしてみんな、しかめっ面するの」みたいな負けフラグも口にしており、「登場時に必敗を前提とした優越を持つ」みたいなルールを付与されているところまで再現されていて、花火たんが今後いかに敗北するかを想像するだけで、もうワクワクがとまりません。

 あと気になったのは、特に三月なのかや今回のヒロインであるホタルたんに顕著なんですけど、朗読されるセリフに息つぎのブレスが入りまくるところです。これって本来は編集で消すべきなのか、話し手がブレスの瞬間にマイクを外すべきなのか、どっちが正解なんでしょうか?(旧エヴァ第弐拾弐話のビデオフォーマット版で、「時計の針は元へは戻らない」というゲンドウの台詞の直後に、本放送版ではなかったかなり大きめの息を吸いこむ音が収録されていて、演出意図なのか消し忘れなのかわからず延々と悩んでいたのを、いま思いだしました) 最後に、中華サイファイから理論物理学へと連想ゲームを飛躍させた近況報告で終わります。以前、ピーター・ウォイトのブログを週イチでチェックしていることをお伝えしましたが、あれだけ厳しく弦理論をとりまく状況を批判しておきながら、リジェクトされた論文未満の万物理論に関するアイデアを科学誌のインタビューで得々と語ってしまい、ストリングスの専門家と同じ不健全さでマスコミを利用しているとブログのコメント欄が炎上していることに、満面の笑みを浮かべております。もっとも冷静かつ論理的であらねばならない理系分野のテニュアどもが、ほとんど2ちゃんねるやツイッターみたいなレスバトルをくりひろげている様子を極東の観客席から眺めるのは、(ビールの泡を白ヒゲに、破顔して)本ッ当に最高の娯楽ですね!

ゲーム「原神・閑鶴の章」感想

 原神の最新アップデート部分をクリア。「フォンテーヌと璃月はつながっている」という伏線の解消に、シルクロード的なエリアをはさんでくるのかと考えていたら、璃月エリアの拡張を中華の願望そのままに、ガチャッとフォンテーヌの隣へ接続させたのには、思わず苦笑してしまいました。原神はチャイナ発のゲームなので、同国をモチーフにしたエリアやキャラが増えていくのは仕方のないことですが、「鶴の仙人(鶴仙人!)をメガネ美女として擬人化するのは安直にすぎませんかね、更新頻度が高すぎてついに息ぎれですか?」などと、ヘラヘラ弛緩した笑いを笑っていたら、いつも通り原神のオハコである「家族の物語」を火の玉ストレートでキレーにみぞおちへと食らって、胃液を吐きながら号泣するハメになるわけです(学習しませんね)。実家を離れて都会に出た2人の娘を心配してコッソリ職場を見に行く母親の様子は、まさに子育てが終わったばかりの「空の巣症候群」の心情によりそったものだし、両親に先立たれて認知症のはじまった祖母と2人暮らしする少女について、ヤングケアラーなる珍奇な欧米の概念を用いず肯定的に描いているのも、その確信に満ちた手つきにほうと嘆息がもれます。つくづく思うのは、本邦において標準的な中央値の生活をしていると、「何者かの意図」みたいな陰謀論は申しませんが、うっすらと家族を嫌うように仕向けられていく気がしてなりません。当事者でない状況へわざわざ首をつっこんで口角泡をとばしたり、他者のルールをユニバーサルなお仕着せと信じて袖を通すのではなく、色川御大の言葉を借りるならば、我々はもっと「既製品ではない、手縫いの生き方をつくる」ことにのみ心を砕くべきだと強く思います。様々な形式の言語芸術が存在する中で、太古の昔より作りごとにすぎない虚構が途絶えず物語られ続ける理由は、自分ではない主観を通じて「手縫いの生き方」を追体験できるからで、その意味において、のちに仙人の弟子となるこの少女は、断じてヤングケアラーなる単語でおしはかれる存在ではないのです。

 永遠も半ばを過ぎると、多かれ少なかれ「取り返しのつかない後悔」はだれの中にも生じてきて、これを書いているのは大作ゲームを始める前に「ゲーム名」「取り返しのつかない要素」で必ずグーグル検索ーーバルダーズゲート3も2章の終盤で「取り返しのつかない要素」があまりに多くなりすぎて、頓挫してしまっているーーする人物なのですが、「あ、これ、ホンマに取り返しつかへんのや」との冷えた実感が、骨の髄まで浸透する人生のステージへとさしかかりつつあります。今回の伝説任務の終盤で、物忘れの果てに「人でも獣でもないモノ」と化す前に本来の姿へ戻ろうとする祖母へ孫がかける言葉、「おばあちゃんにとっては後悔ばかりだったのかもしれないけど、そのおかげで私はこの世に生まれることができた」は、物語の称揚による劇的な負の反転であり、ありえなかったはずの後悔の取り返しであり、「ジャパニーズ・フィクションa.k.a.中年男性が裏声でする十代のジャリの世迷言」では決してたどりつかない深い人生訓であると同時に、人間讃歌にさえいたっていると言えるでしょう。全共闘に端を発した「体制殺しによる国家解体」のカーボンコピーである「毒親殺しによる家族解体」をテーマとした昭和の物語群が、ついに新しく来た若い世代によって上品に忌避されはじめたことで、原神の大ヒットが生まれているのだとすれば、世界は確実に良い方向へと進んでいるのだと感じられます(いまなら、「昭和のフィクションたちの墓標」として、シン・エヴァンゲリオンに歴史的な評価を与えることができる気さえする)。また、「いやしい身分に己をやつしてまで、親の意に染まぬ相手とかけおちすることを選んだ娘」に対して、表面上の怒りとは裏腹に陰ながらゆるしと慈しみを与えるキャラの描き方は、「バブみ」や「オギャる」などの空疎なワーディングでしか、母性の輪郭を表現できなくなった本邦でのそれとは異なり、真の意味での「母なるもの」を篆刻していると言えるでしょう(本シナリオを読了後、レベルMAX・スキルMAX・聖遺物の軽い厳選・モチーフ武器への課金を最速で完了しました)。

 あと、パイモンが夢を見ていないことに気づく描写が一瞬だけ挿入されるのですが、いよいよ原神世界はペガーナの神々におけるマアナ・ユウド・スウシャイ(MMGF!の元ネタ)の、あるいは幸福な妖精の見る「夢そのもの」である可能性が高くなってきましたねー。

映画「アイの歌声を聴かせて」感想

 数年ぶりにスカイリムをインストールした話、しましたっけ? 年末年始の休みにドバッとまとめてメインストーリー部分をプレイするため、10月くらいから毎日コツコツとMODを入れては、競合の解消やロード順の調整に努めてきました。以前のパソコンでは重すぎてゲームにならなかった4KテクスチャMODが、fpsを下げずに動いたのには感動しましたし、近年のくだらない風潮によって、エロMODのあふれかえるNexusからさえ姿を消した、現実生活では個室での音読すらはばかられるMODをダークサイドウェブ(笑)よりサルベージしてドキドキしながら導入したり、ストーリーを進めるための装備を作る目的で鍛治・符呪・錬金などの生産系スキルを上げているとき、ふいにウルティマ・オンラインを始めたばかりの記憶がよみがえったりして、本当に楽しい2ヶ月間でした。

 それが先日のこと、突然ゲームが起動しなくなったのです。首をかしげながらSKSEの更新状況を確認し、MODをあれこれと差しつ戻しつ試行錯誤をくり返しても、ウンともスンとも言わない。よくよく調べてみると、野良MODを一掃するべくゲームファイルの根幹に抜本的な変更を加えるアップデートが、それこそ10年ぶりに行われたというではありませんか。この所業はまさに、長きにおよぶファンたちの熱意や愛情へ向けて枯れ葉剤を散布するかのごとき暴挙であり、ベセスダの親会社のゲーム畑以外から就任した役員が「素人どものMODを取りしまって、同じ機能の公式MODで置きかえて課金させれば、ずいぶんもうかるじゃないか。なぜ、こんな簡単なことを思いつかなかったんだ?」などと経営戦略会議で放言する様がまざまざと脳裏に浮かび、怒りで視野が狭窄しました。かように、人や文化を育てるのには穏やかな場所と多くの善意と変化にとぼしい長い時間が必要とされるのに対して、それを終わらせるのには一人の部外者の思いつきと引き金をひく一瞬で完全につりあってしまう絶望的な不均衡が、現在進行形にくり広げられるこの世の不幸の実相である気がしてなりません。まあ、制作に6年をかけた超大作であるところのスターフィールドが、ゲーム・オブ・ザ・イヤーでジャンル部門のみの温情ノミネートにとどまり、受賞は絶望的という盛大なポシャり方をしたせいで、”ちいやわ”社がベセスダに対して収益構造の見直しを迫ったというのが、本当のところに近いのでしょう。

 こうして、スカイリムが過去の美しい思い出ごと完全に視界から消滅したあと、一日の終わりのア・フュー・アワーズにすべりこんできたのは、原神において各地の探索率を100%にする作業でした。鋳造したコンパスなどを使いながら、宝箱や神の瞳をチマチマ探す行為は、マリオ64での「スター120個と全ステージの全コイン取得」のそれをどこか思いださせ、かけた時間が必ず積みあがるという点で、たいへんに心やすまるひとときとなっています。バージョンの変遷にともなうマップの進化もクリアに見えてきて、茫洋として特徴に欠ける丘陵のモンドから、パキッとした高低差で地形を表現する璃月、ギミックの量とシビアさにイライラがつのるーーあらゆる崖にCHINPOのカリみたいなネズミ返しがついている地味な嫌がらせも!ーー稲妻、気合いの入ったマップが広大すぎて探索の喜びを移動のダルさが上回るスメール、そしてここに至るすべての反省を生かしたちょうどいいサイズ感で探索の楽しいフォンテーヌと、着実な改善がうかがえるのはじつにすばらしい点だと言えましょう。この推移を分析したさいに浮かびあがってくるのは、「謙虚で内省的な、頭のいい中華人民」という人物像であり、エンタメ業界の皆様にはあらためて、アホのインフルエンサーが暴れまわる煙幕の向こうにキチンと敵の実体を見きわめておかねば、今後の勝ちをひろうのは難しいだろうとお伝えしておきます。

 その探索率100%の旅のオトモに、アマプラで「アイの歌声を聴かせて」をながら見していました(ここからが本題です)。ぶっちゃけ、「君の名は。」の下に2匹目のドジョウをねらった数匹目のヤツメウナギではあるのですが、冒頭のSF的なビルドアップが秀逸で「日常のガワはそのままに、中身と部分へ革新が忍びこむ」というのは、ブレードランナー的な描き方になっていて、説得力あるなーと感心しました。人工知能がする言動の不自然さを、発達の特性によるエキセントリシティへとまぎれこませるのも、「木を隠すなら森」で大いにうなづけるところです。しかしながら、このふるまいを許容されるのは女性だけであり、男性ならば即座に場から排除されるのを理解した上での描写だとすれば、シンカイ・サンが先鞭をつけてしまったゆえに、「雨後のタケノコ」いう言い方が類型的すぎるなら、日陰の石の裏の湿った場所から地虫のごとくゾロゾロと這いだしてきた「地方在住の女子高生ヒロイン」というバニラへ、どんなフレーバーをトッピングするかというだけの違いを持つ作品群へ向けた、批評的な視点をはらんでいるのかもしれないと一瞬だけ思いましたが、すぐに気のせいだとわかりました。そもそも、「学校にまぎれこませて、見破られないAIを作れるか?」という命題以前に、「動作から表情から、じっさいに触れられてさえ、完璧に人間を擬態できるガワ」の実在が、まったく言及なくスルーされている時点で相当なファンタジーであり、多少の強引な筋書きは美麗な絵と歌唱でねじふせてゆくミュージカルとして視聴するのが正解かもなー、などと考えつつ、ヘラヘラとながら見していたのですが、物語の後半へと進むにつれて眉間のシワはどんどん深まってゆきました。

 決定的だったのは、シングルでバリキャリの母親がひとり娘をヤングケアラーとして家事を丸投げし、連日の午前様で家庭を省みずに人生を捧げてきたプロジェクトである人工知能なのに、小学校へ上がる前のハッカー少年が手なぐさみで作成したものに、いつのまにかすりかわっていたと判明したときで、「大人をコケにすんのもたいがいにせえよ、ジャリどもが!」と思わず絶叫していました。この「40代経産婦を対象とした、サイファイ風味のキャリア・ネトラレ」は、あまりに特殊な性癖すぎて、私のINKEI(ナイキのアナグラム)は恐怖に縮みあがり、ふかふかのTAMAKIN(金玉のアナグラム)内部へと後退してしまったほどです。そして、このテの青春グラフィティでいつも気になるのは、「勉学と進路に多くの時間を費やさなくてはいけない時期に、女子たちが色恋沙汰へと時間を全振りする」有り様です。本作に登場する男子たちについて言えば、ハッカー少年は旧帝大か海外大の理系学部にノー勉でスルッと現役合格するに違いないし、自らを80%となげくイケメンも東京の有名私大に推薦入学するだろうし、柔道ボーイも高卒で農業か土方ーーいやだなあ、”ひじかた”ですよ!ーーをするか、地元の三流大から声のバカでかい営業になるかだろうし、彼らの進路は容易に想像ができるんですよ。

 一方で、ヒロインを含む女子たちのキャリアはまったくと言っていいほど思いうかばない。この時期の女子は、よっぽど強い意志をもって勉強と進路へ時間を全振りしないと、フワッとしながらも根強く消えない社会通念にからめとられてしまうことが、まったく意識されていない。この映画のエンディングの先に、残された2人の行く末を想定するなら、ヤンキー女子は地元でスナックのママ、主人公は実家住みの家事手伝いでしょうね。なぜなら、女子高生を題材にする作り手の感覚が、女性を「永久不老の処女」か「幸福なお嫁さん」に留めおく無意識の力学として働いているからです。オトコに逃げられたり、トシとったらのうなってまう「しあわせ」なんかに、青春を全振りしとったらアカンで! 恋愛に発情して頬を染めるヒマがあるんやったら、おどれの進路を見さだめて1日キッチリ12時間は勉強せんかい、このダボが! ついつい激昂してしまいましたが、本作の女子たちに向けた「良い大人」からのアドバイスは、以上になります。

 あと、日々の仕事に疲れはてたハイキャリア女性が、「娘にはしあわせになってほしい」みたいなボンヤリとした感じで、子どものスペックに見あわない人生の選択をほとんどネグレクト的に看過する生々しい雰囲気は本作の全編にわたってただよっていて、背筋がうすら寒くなりました。それと、仮にAIのシオンが受肉して不死性を失ったら、地下アイドルかキャバクラ嬢になって、ファンや客の怨恨かウッカリ事故で早死にすると思いました。

ゲーム「原神4章5幕・罪人の円舞曲」感想

 原神4章を最終幕までクリア。言わば、「原爆投下1日前のヒロシマ」を旅人とパイモンがそぞろ歩くシーンでの、モブによる「明日おなじものを食べられないとしても、今日はおなじものを食べる。それが生活ってものでしょ?」というセリフに、またしても号泣させられてしまいました。いつも感心してしまうのは、大所高所から語られるストーリーに対置された、こういった市井の一市民による素朴な感情を細やかに描いている点であり、「今日の食事」という極小の視点から百年を優に越える極大の時間ギミックへとカメラを引き上げる際の落差は、前者の連続で後者が成り立っていることにハッとした気づきを与えてくれます。そして、真の神が人間を愛するようになるまでの数百年を、一介の個人が偽りの神としてウソと演技による「時間かせぎ」をする苦悩は、いかばかりだったでしょう。いつ終わるかさえ知らされていないその苦しみを、異邦人へとすべてうちあけて楽になるチャンスを目の前にしながら、「利己的になってはダメだ、もう少しだけ考えよう……」とすんでのところでふみとどまる場面には、我が身に照らしての嗚咽がほとばしりでました。

 このフリーナというキャラクターのことは、登場した最初の瞬間から「軽薄で底の割れた演技者」として、どこか好きになれない気持ちがありました。「原神にしては、魅力に欠ける造形を持ってきたものだな」などと冷めた視点でずっとながめていたのに、その感覚の正体が同族嫌悪や自己嫌悪と同じ種類のものだったと判明したときの衝撃たるや! 私自身が「身の丈よりも大きなもの」を日々、演じることを強いられており、「すべて投げだして、終わりにしたい」という欲求と毎秒をせめぎあって生きているのですから! メインストーリーが幕を閉じ、彼女の後日譚ーー「僕はもう、二度とだれかを演じるつもりはない」ーーが終わる頃には、フリーナのことを心から愛おしいと思うようになっていました。個人を翻弄する大きな物語の渦中に落としこまれた小さなキャラクターたちが、それでもどうにか生きようとあがく様は、なんと彼らを魅力的に見せることでしょうか。いつの時点からか、キャラクターが物語のサイズを凌駕してしまうようになった本邦のフィクション群の失ってしまったものを、原神はいまだに脈々と受け継いでいるのです。

 どこか洗練されていない部分や、強引な展開、つたない手つきがまったくないとは申しません。けれど、いまを生きるだれかの熱を帯びたドラマツルギーが、すべてを「是」「好」へと変じていくのです。原神4章の最終幕を通じて、中華の若い世代が語る「旧エヴァ劇場版の先の先」を確かに見届けさせてもらった気分になりました。あなたたちは、「旧劇の最終局面で碇シンジが取るべきだった行動」と「新劇による再話で選ばれるべきだった結末」を、このように考えたのですね。先日、地球外少年少女の感想を再掲したところ、監督本人にRTされてビックリしましたが、彼の元へも土地と世代を超えたアンサーが届くことを願っています。いつものごとく、「アカの手先」となってベタ褒めしてしまいましたが、まあ、ロシア相当の組織の構成員たちが急に好意的な様子で描写されはじめたり、不安を感じる部分もなくはないんですよ。

 オマージュをわずかに越えたド直球の引用もチラホラ見えてきて、「第三降臨者」なるワードもすごく旧エヴァっぽいなーと感じます。今回、公子の師匠としてスカークなる人物が登場したのですが、FGOのスカサハと設定や見た目ばかりか声優まで同じ(!)になってて、「ああ、メッチャ好きなんやろうな……」と、思わず生あたたかい視線を送ってしまいました(「呑星の鯨」から剥離した物質のフレイバーテキスト、メッチャ好きです)。ともあれ、原神4章の最終幕を通じて、本邦のフィクションを弱くしているのは、家族を解体する「毒親」や 「親ガチャ」なる概念と、大きな物語を一個のキャラクターに矮小化する「VTuber」なる存在であることを確信いたしました(ぐるぐる目で)。みんな、そんなつまらないマガイモノは窓から投げ捨てて、中華ファンタジーから「物語の王道」を逆輸入していこうぜ!

 最後にぜんぜん話は変わりますけど、遅ればせながら劇光仮面の4巻を読んだんですよ。えー、「本物が現れ」ちゃダメじゃん! そんなのいつも通りじゃん! 本物がいない世界だからこそ、例えば「ゆきゆきて神軍」のような文学性や批評性を帯びていたのに! 本作へ向けていた興味関心の熱が、一気に冷めてしまったことは、残念ながら認めざるをえません。本物がいない日常だからこそ、我々はなんとかしてその虚無をやりすごそうと、もがき苦しむというのに……。

映画「バービー」感想

 ほんの一時期、オッペケペーみたいな映画との抱きあわせ商法で話題になっていたバービーを、アマプラでようやく見る。個人的には、コメディ・ミュージカル・社会風刺のいずれにも振り切れていない、じつに中途半端な作品のように感じましたけれど、どうも頭文字Fの観点から読み解く態度がネットでは主流のようです。以下は、幼少期に人形遊びをしたことがない性別の人物ーー頭に浮かんだのは、どちらですか?ーーによる、そんな視点での感想文と思ってください。端的に言って、我々サイドの本性は「邪智・性欲・暴力」から成り立っていて、本作に登場する人物たちはマテル社の重役連をふくめ、決定的にこれらの要素を欠いており、その外見がどうであるにかかわらず、全員が我々とは異なる方の性別に属していると言えるでしょう。「暴力による死と、その究極へ至る道程に横たわる不倶のグラデーション」を予期しないですむ、劇中で行われているような話し合いによって、何か有益かつ有効な結論が導かれるとは、とても信じられません。同様に、ネットでの議論が社会の変化へと結実しないのは、まさに死を前提とするフィジカル・イコール・肉体の破壊を伴わないからであり、「全裸の範馬勇次郎と密室に閉じこめられたときに言えない言葉」さえ気軽に発信できてしまうことが、レギュレーション上の不備であると指摘できるでしょう。ある不快を感じたとき、外的な抑止が無ければ「不可逆な地点まで、無言で対象をなぐり続ける」ことこそ、我々が持つ偽らざる性質であり、とりかえしのつかない死を大量に発生させないため、「法律・婚姻・国家」なる自縄の概念をみずから作りだすことで、自縛による死の回避を試み続けてきたのです。

 かつて人形遊びをする側の性別は、「邪智・性欲・暴力」の本来をたわめないまま、間接的にそれらをコントロールする手法に長けていました。なぜなら、異なるルールを持つ小集団が割拠する場所では、他の集団から向けられるそれらの毒を、同じ毒をもって制する必要があったからです。そこから長い時間をかけて、同一のルールを共有する集団の規模は併合によってどんどん大きくなり、めったに死を伴う争いが生じなくなった結果、かつて有効な手段として乗りこなしていた「邪智・性欲・暴力」を不愉快なものとみなし、ゼロへと希釈しようとする内向きの動きが発生します。しかし、それは自分たちが文明と定義する埒外への想像力を欠いた運動で、他の集団において脈々と受け継がれる「邪智・性欲・暴力」に対して、むきだしの無力をさらけだす危険性を裏腹にはらんでいます。その執拗な、例えるならば陰茎にするハモの骨切りがごとき思想未満の思惑は、近年ではフィクション全般にもおよんできており、雑に言いますと、プリキュアやマーベルによる特定の性別への「物理的な」エンパワメントは、文字どおり字義どおりの虚構かつ虚妄に過ぎないことは、次の世代へキチンと伝えておく必要があります。人をなぐったことのない若いオタクが、人形遊びをする側の性別を「フィジカルにひいでた属性」と心から信ずる姿勢は、人類全体の価値観を一様化することの困難さが証明され続けている現在、未来において有害な瞬間をもたらしかねないことを、くりかえし何度でも強調しておくべきではないでしょうか……

 オップス、最近の陰鬱な精神状態にひっぱられて、なんだかオンナ子どもをムダに怖がらせるしゃべり方になっちゃってたね! ちょっとモードをーー眉間に皺を寄せた劇画調から、ポップなトゥーン調の顔面にモーフィングするーー変えて、本作のクスッと笑えるブライト・サイドについてお話しするね! この映画の面白いところは、リアル人体にドールと同じ動きをさせていることなの! ジェニーやリカちゃんの両脚を180度回転させて、ツルツルおマタをオッぴろげた逆八の字ポーズにゲラゲラ笑った記憶って、だれにでもあるわよね! そんな「ドール遊びあるある」が、全編にわたって小ネタとして挿入されてるんだけど、中でもアタシのお気に入りは、「床に放置されたバービー系の人形は、必ず顔面を下に伏せた状態になる」というマーフィーの法則(古ッ!)を再現してるとこなのよ! 人間がうつぶせになるときって、高い鼻が邪魔になるーーえ、アジア人の話なんてしてないわよ?ーーから腕を枕にしたり、顔を横に向けたりするじゃない? なのに人形の演技をしてるもんだから、両腕をまっすぐ体のワキにそわせたまま、鼻から地面に顔をつけてんのよ! 美人のパツキン女優が全力でそれをやってんのがおかしくっておかしくって、アタシひさしぶりに涙がでるほど笑っちゃった! ベセスダゲーの死体がときどきハチャメチャに笑えるのも、これが原因なのかもしれないわねえ(目尻の涙をぬぐう)! それにしても、戦火から遠い文明国に住むマイノリティ人種でシングルマザーな家庭が抱える葛藤ーートゥーン調から、劇画調の顔面へとモーフィングするーーなんてもうだれも、1ミリの興味関心もねえよなァ!

 ……などと、世情と季節に起因する気持ちのアップダウンにふりまわされていたのですが、ついさきほど原神の最新ストーリーをしょぼくれた顔でプレイしていたところ、”Love is destructive”なるアチーブメントの達成を目にした途端、たちまち大破顔となって、すべての憂悶はふきとんでしまいました! うわー、やっぱりキミら、フォンテーヌ編は確信犯でやってるんやないの! 中華の若い世代がつむぐ、旧エヴァ劇場版の堂々たる先の先を、ワテに力いっぱい見せておくんなはれ! なぜって、同じ意図で始まったはずの、本邦の若い世代によるマーキュリー・ガンダムは、見るも無惨な大失敗に終わってしまったからなァ!(だいぶ不安定だし、もうバービーと関係ない)

雑文「政治的ヌヴィレット礼賛(近況報告2023.10.13)」

 原神の第4章、ヌヴィレットの伝説任務をクリア。諸君に「アカの手先」と思われたくないので、もう二度と言及するまいと心に誓うのですが、ストーリーのすばらしさが毎回それを超えてくるのです。課金量を調整するため、「男性キャラは引かない」というハウスルールを敷いている萌えコションにも関わらず、終盤のムービーにおける「水龍、水龍、泣かないで」のセリフにふいをつかれて号泣し、ナヴィアとフリーナのためにとっておいた原石をすべて吐きだして、ヌヴィレットを引いてしまいました。ヴァイオレット・エヴァーガーデンのときにも少し触れましたが、オタクの自己定義とは、正しい見本や教育を得なかったために人としてのふるまいを教わらず、「人間社会にまぎれこんでしまったエイリアン」として毎日をやり過ごす者であると指摘できるでしょう。それゆえ、己の日々の苦闘や人生の辛酸を体現するかのような「人に憧れ、人を知り、人になろうとする」キャラクターたちに、とても強く共鳴してしまうのです。「感情を排して論理的にふるまおうとするためにセルフケアがおろそかとなり、結果それがむきだしのウィークポイントとして露呈する」ーー古いオタクに自己投影を促してきた、おそらくはミスター・スポックを源流とする人物造形の最新のかたちが、ヌヴィレットの上に表れています。

 書き手にとって、かなり取り扱いの難しいキャラクターのはずですが、本人にはいっさい感情を語らせないまま、周囲の言動や時々の情景をていねいに描写することで彼の内面の輪郭が浮かびあがる図式は、じつに見事な手さばきです。さらには描写されたその内面が、「もっとも賢い者が持つ心の陥穽と、長く続いた差別構造の解体」というストーリーラインへと自然にリンクしていく。原神が導く「どうすれば、この世から差別がなくなるのか?」という究極の問いへの回答は、ズバリ「争いをやめてから、数百年が経過すること」であり、ここには差別の解消が進んでいくにつれ、ある段階において人権活動が構造解消の足かせになることへ向けた批判すら含まれています。「同じ過ちを繰り返さないため」という表向きの題目が、その裏で「活動によって己の口を糊すること」につながっていないかを自覚し、抵抗運動の自己解体までを差別の解消に織りこむことは、おそらく容易なふるまいではありません。近年の世界情勢を見るにつけ、「数百年に向けた数十年の前進が、またゼロからのふりだしにもどった」ような状況は慨嘆にたえませんし、「『だれもが死ぬ』という事実が教育を生んだが、教育では多くの憎しみを消せない」というシンプルな無力感は痛切ですが、原神のストーリーは「真に世界市民的」な態度でそこへ向きあっており、我々の見る現実と物語のシンクロニシティが意図的か偶然かに関わらず、「いま」を生きる同時代のだれかによってつむがれているということが、ひしひしと伝わってくるのです。

 12の言語で世界展開するゲームのストーリーを語る主体は、自国による文化的検閲や各国の政治情勢について、けっして無頓着ではいられないでしょう。最近どこかで「学生運動を正しく鎮圧できなかったことが、過去から現在に至るまで本邦の大きな負債となっている」という指摘を見かけましたが、マネジメント側から見ると大いにうなづける話です。これは刑罰を適切に与えなかったという意味ではなく、「自分たちが間違っていた」と彼らに思わせることが、ついにできなかったという話なのでしょう。本邦において、一定の歳月を耐えた組織に根深い野党的な言説というのは、「母体に害をなす致死性のヴァイラス」であり、発熱によるこらしめにとどまらず、後遺症を残したり、死につながるような暴れ方さえする。自分たちの非をいっさい認めず相手を悪魔化して糾弾し、譲歩を引きだしたり妥協点を見いだすことではなく、批判する姿勢を仲間や周囲に見せることが自己目的化している。最近のフィクションで言えば、昭和の活動家が用いた左翼的論法を無意識のうちに内面化したファイナルファンタジーの最新作などに、「学生運動を正しく鎮圧できなかった名残り」を見ることができます。「世界を変えず、己が負けない」論法を便利な手段として後の世代が学んでしまったのはつくづく大きな負の遺産であり、本邦の歴史に根ざした品性に欠けるその「土着ぶり」は、村上春樹などよりもずっとノーベル文学賞が求める資質ーーqualityではなくnatureーーに近いものだと言えるでしょう。

 大幅にそれた話を元へ戻しますと、昨今の「物語から書き手の内面を想像するな」という意見には、私はまったく同意できません。その主張を認めるならば、同じ題材やテーマで充分に完成された古典がすでに山ほどあるわけで、人類が「異曲」をつむぎ続ける理由とは、商業的な要請を別とすれば、同時代を生きるだれかの生が否応に作品へと混入し、その語り方を変じるからなのです。原神のつむぐストーリーは、両手足を縛られたようながんじがらめの状況から深く思考して、「どの国の、どの年代の、だれにとっても不快ではない」ラインを見きわめた針の穴を通すストーリーテリングを徹底しており、この創作手法こそが真の意味での「政治的な態度」だと言えるでしょう。あと10年もすれば、「テロリストをアイドルと奉じる一群」は死や恍惚によって現世への影響を完全に失います。そこからさらに半世紀も待てば、「被使用者から使用者への逆差別構造」は消えてなくなるはずです。その日を心待ちに、せいぜい長生きしましょう、マネジメントを生業とするご同輩! あと、永野のりこのマンガに青春期の一部をコンタミされていたので、第4章のプレイ中、エリック・サティっぽい一部の楽曲に、なんだか学生時代にタイムスリップしたみたいな感覚を味わったことを、最後にお伝えしておきます。

雑文「GENSHIN EVENT and EVANGLION EFFECT(近況報告2023.7.14)」

 原神の夏イベントをクリア。不機嫌な大人たちを苦手とする子どもの心情や、その子どものために大人たちが怒鳴りあいではない、正しいコミュニケーションを取りもどす様子など、我々が日常で忘れがちな、ハッとするような気づきと学びを、原神はいつも与えてくれます。倫理や道徳にも似た「大人として正しいふるまい」への嫌味ではない教化は、文字通り世界中の若者がプレイする作品として、かなり意識的に行われている気がします。ファイナルファンタジー16を通じて、最新のJRPGが奇しくも体現してしまっている本邦の現状を突きつけられ、かなり絶望的な気分になっていたところだったので、この夏イベントは干天の慈雨のように心へしみました。タイムラインに流れてきた「みんなアニメが好きなのではなく、キャラクターが好きなのだ」という指摘を借りてJRPGとの比較をするなら、「みんな良い物語が好きなのではなく、カッコいい台詞が好きなのだ」「みんな双方向の対話が好きなのではなく、一方的な宣言が好きなのだ」とでもなるでしょうか。

 最近、ヤングケアラーなる言葉を頻繁に耳にするようになりましたが、LGBTのときにも感じたことながら、無限段階のグラデーションが存在する場所へ、ガチッと枷をはめて違いを有限化しようとする仕掛けは、いったい「だれが、何の」意図を持って行っているのか、さっぱりわかりません。以前、不仲だった父親にかけられた言葉によって、ある官僚が「ゆとり教育」を猛烈に推進した話をお伝えしましたが、ひとりの家庭の病裡がシステムとして再演されるのを、我々はまた見せられようとしているのでしょうか。この単語によって、「おまえは家族に虐待されていたのだ」と公から宣言され、不必要な「目覚め」を得てしまう個体ーー私は自戒をこめてこれを「エヴァンゲリオン効果」と呼んでいますーーを作りだし、本来的には無用の苦しみと混乱を生じさせる効果の方が大きいような気がしてなりません。

 別の視点から鳥瞰すれば、「西洋文明に対する無批判の追随が、彼我の心性の差異を越えはじめ、きしみをあげている」とも指摘できるでしょう。仏国では、自国に存在しなかった概念を表す外国語に対して、新たに造語を作成せねばならない法律が存在すると聞いたことがありますが、周回遅れながら骨身のレベルでその重要性がわかってきたように思います。近年の洋画(古い表現)につけられる邦題が原題のカタカナ読みばかりになっているーーファントム・メナスとウェイ・オブ・ウォーターが最悪の二巨頭ーーことにも表れているように、我々の文化と心性に許容しやすい「自国語による翻案」がいつのまにか廃れ、西洋由来のドぎつい概念が直に日常へ挿入されるようになってしまったことが、様々な問題を引き起こしているように思うのです。

 きっと陰謀論のようにひびくでしょうが、LGBTに続くヤングケアラーなる単語は、「田舎の次男坊以下によって形成される核家族」ーー詳しくは「七夕の国・友の会」に寄稿した文章を参照のことーーをさらに小さな単位へと細分化して、旧来の家族なる枠組みを解体しようとする試みにも思えてなりません。こんなふうに感じるのも、おそらく原神をプレイしてしまったからで、そこに描かれる家族像や人間像のほうが、ずっと正しくまっとうなもののように映ります。この概念の震源地はテレビであり、かつてすべての情報の中心にあったそれは、いよいよ「貧者のメディア」へとステージを移した感があります。いずこからも独立した最先端のようにふるまうSNSでさえ、遠巻きに「貧者のメディア」から受信した内容を取りあつかっていて、その議論の多くは核家族の構成員やそこから派生した者たちが、「己の生きる百年」の上下を批判しあっているにすぎません。そんな貧しい者たちの目が届く場所においては、けっして言語化されないがゆえに、本当の豊かさーー金銭だけの意味ではないーーは、彼らの人生の埒外で原神的な価値観の下に、粛々と受け継がれていっているのだろうと想像するのです。

 最後に、原神の夏イベントへと話を戻して終わることにしましょう。今回の物語のエンディングで、洞天の主がみずからの住む小さな世界を「ここが私の夢の終着点」と表現するのですが、「大きな夢に耐えるための小さな夢をかなえて、いずれ離れるべき魂のゆりかご」という考え方は、テキストサイト時代に抱いていたインターネットへのイメージと完全に一致しています。あれから長い時間を経たいま、ここは私にとって「夢の終着点」となったのかもしれないーーそう、思いました。