ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版、ネトフリに入っているのに気づいて見る。目を真っ赤にしてボロボロ泣きながら書いている前提で読んでほしいんですけど、物語としてはテレビ版の余韻を台無しにするレベルでもう完全に蛇足なんですよ。フィクションとは言え、人間の、しかも子どもの死を泣かせの題材に使ってんじゃねえぞって、怒りに似た気持ちもある。この少佐とかいうヤツは一貫性の無い女々しいロリコン野郎だと感じるし、二人がついに触れ合うシーンも描写に力を入れ過ぎて、FF7リメイクのセフィロス戦みたいになっとるでとツッコミたい。おまけに、主人公がなぜあんなに強かったのかも、ついには明かされないまま終わる。
でもね、制作会社が経験した事件を考えると、もう描かれるすべてが献花台に手向けられた花々、失われた生命に向けた鎮魂歌としか思えなくなって、胸がつぶれるような気持ちにどうしようもなく涙が流れてしまうのです。私たちの人生は凡庸で、ときに醜く、この物語のようにはいつも美しくないけれど、同じだけの重さを持った、他に代えられないとそれぞれが信じる感情を生きている。日々のニュースの裏側にも、無数のそれらが等価値に存在していることへ半ば気づきながら、己の感受性を仕事や暮らしや酒や遊興に鈍麻させることで、ただただやりすごしている。ふとしたきっかけで人としての感覚が戻った瞬間には、濁流のように注ぎ込まれる悲しみに立ち上がれないほど泣き、その疲労の果て、ほとんど失神するように眠り、目を覚ませば再び泡のような麻痺が心を覆っていることに気づく。我々はだれしも視界を閉塞させることでしか生きていくことができないし、望んで認識を狭めることでかろうじて発狂からまぬがれているだけなのだ。
この物語はフィクションである。死者のよみがえりを疑うことができない、我々の弱い心につけこんだ、ただの作りごとである。だが、いまこの瞬間を生きる者たち、民衆のみならず王たちまでが求めるイフ、「ああ、時間がまきもどり、死んだ者たちが戻ってくれば!」という切実な祈りでもあるのだ。私にはこの物語を、現実と何の連絡も持たない虚構として視聴することは、できなかった。