昨年度の話題作であるトワイライト・ウォーリアーズをアマプラで視聴。頻繁な広告の挿入に激怒ーーCM協賛は、真逆の効果にしかなっていないと忠告しておくーーさせられる一幕はあったものの、本作は10年スパンでふりかえってさえ、最上位の虚構体験のひとつとなったことを、まずは明言しておきたい。なんとなれば、80年代に少年期を過ごした者の魂の基底部には、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウ、ミヤギ・サン、リンリン、キョンシーなどから受けた影響が半世紀ちかくを経てなお、こびりついているからである。最近、スキマ時間に無限焚書で読みかえしている、一世を風靡した例のワイン漫画になぞらえて、超一流のフィクション・テイスターであるゲイカ・コトリが本作を表現してみせるならば、おお……おぉ……「裏山の鬱蒼とした森」「管理放棄された異人館」「居酒屋を営む友人宅の私室」「ドブ川の暗渠の秘密基地」ーーそう、この映画は失われゆくものへの”郷愁と哀悼”である。昭和の町には、大人の目の届かない、子どもしか知らない、数多くの”空隙”があった。携帯電話やインターネットは普及しておらず、GPSによる位置情報や街路の監視カメラも存在しなかった時代に、おのおのが町の各所に「子どもの隠れ家」ーー”大人の”を成立させていた原初概念ーーを持っていたのである。本作の舞台である九龍城の様子を目にすると、建物と建物のあいだに横たわる鉄の格子をかぶせられただけの下水や、むきだしの地面をはさむように建てられた木造の貧乏長家など、少年期の古い記憶がフラッシュバックのようによみがえってきた。もともと旅行がきらいなタチで、数年にいちど思いたって一人旅に出かけても、風光明媚のスポットで写真を撮る気はおこらず、その地方の名物や食事にもあまり心は動かず、時間の経過とともに、ただただ「早く巣に帰りたい」という気持ちが大きくなっていくのである。そんな、旅の醍醐味の最たるは「巣に帰りついた安堵感」だけの人物にとって唯一、自発的に訪れたいと感じていた場所が九龍城であったことを、ひさしぶりに思いだした。
いったん記憶由来の好印象がまさりはじめると、この平凡なアジア顔の人物を主役にもってくることすら、FGOが語るところの「世界のもといは、市井の一市民である」というメッセージのようにも、感じられてくるのだった。西洋の物語作法と、その影響下にある本邦のフィクションにどっぷり浸かっているだれかは、本作を典型的な貴種流離譚のながれを組む、イベントの発生に偶然の多すぎるプロットだと考えるのかもしれない。だが、原神を経たいま、わたしにはこの「血と因縁が、ふたたび家族をひとところに引き寄せる」という筋書きは、大陸の心性にとって寸毫の違和感もない”運命”であり”必然”なのだと理解できる。我々の社会はその対照として、家名をあたえられなかった者たちが都市部を形成する長い年月の中で、「血は水よりも濃い」という考え方を鼻で笑い、無化していくプロセスの終端にいるような気さえ、してしまうのだ。充分に年齢をかさね、文明と平和に守られ、無法と暴力からは縁遠い生活を続けていると、かつての九龍城へのあこがれは、いそがしい日々における旅へのあこがれ、すなわち、現実からの夢想による逃避と同質のものであることが、痛いほどにわかる。殴り、蹴り、走り、跳躍し、トタン屋根の上に眠るという「生のプリミティブさ」に、きっとこの実存はもう耐えられないだろう。ビールの小瓶を片手に近隣の住人たちとで小さなテレビをかこんで談笑する場面から、スタッフロールにあわせて流れる九龍城での”生活のようす”を目にすると、これこそがまっとうな人間の生き方だという気にさせられると同時に、もし仮にそこへほうりこまれたら、三日と生きてはいけないーーいわゆる、ナウシカのジレンマーーこともまた、否定しようのない事実なのである。もし、トワイライト・ウォーリアーズが昭和のお茶の間(古ッ!)で放映されたとすれば、翌日には全国の小学校で「硬直! 硬直!」のかけ声が絶えなかったであろうことを想像するとき、あらためて我々が失ったものの大きさに、胸の痛むような気持ちになるのだった。
あと、マフィアのボスのデブゴンの動きがキレキレで、メチャクチャつよいなーと思っていたら、まさかのサモ・ハン・キンポー本人じゃないですか! 視聴中に気づいて、「あッ!」と大きな声をあげちゃいましたよ!