猫を起こさないように
上原ひろみ
上原ひろみ

漫画「ブルージャイアント・エクスプローラー9巻」感想

 ブルージャイアント・エクスプローラーの最終巻を読む。驚くことに、これまでの石塚真一ならぜったいに描かなかった、虚構による称揚で現実の冷たさを温めるようなエピソードが語られる。この変節の理由は、まちがいなく劇場版アニメによる無印ストーリーの結部改変を見たことによるものだろう。「右腕を潰せば、もう演奏家としての再起はかなうまい」としてトラックをつっこませたのに、劇場版のラストでは上原ひろみの楽曲と本物のピアニストによる技巧が、その漫画家の想像力をはるかに超えてきたのだった。結果として、このボストン編はこれまで積みあげてきた、前だけを向いて進むダイ・ミヤモトにフォーカスしたストーリー・テリングからわずかに浮いてしまっているし、もし劇場版アニメが2作目、3作目と作られた場合、完全に不要の蛇足パートになってしまうだろう。これは鬼滅の刃における賛否両論の最終話と同じで、メタ的に言うならば、「作者が作中の人物に、強いてしまった苦しみを心から謝罪する」ような性質をともなっていて、近年の「作り手の意志に隷属するパペット」をあやつる類の物語ーーシンエヴァがその最右翼ーーとは、圧倒的にキャラクター強度の作り方がちがうことを、同時に意味している。

 劇場版アニメにうちのめされて、「現実以上の現実を」と満身の全霊をこめてきたはずの虚構が、現実のしなやかさに敗北する様を見せつけられて、これまでとの一貫性やおのれの信念を投げうってまで、おそらく作家人生で初めての「物語に尋ねるのではない、作者本人のワガママ」で、このエピソードを描かなければならない激しい衝動を得てしまったのではないかと推察する。それを証拠に、同時発売された続編のモメンタムでは原作から完全に身を引いて、作画担当へ自らを降格させてしまった。これは石塚氏の漫画に対する、もっと言えば物語をつむぐことに対する誠実さの表れであろうと思うと、どこか胸のつまる感じさえおぼえるのだ。作者本人すらも、その衝撃に生き方を変えてしまう無印ブルージャイアント劇場版はやはり、いまのレベルの注目と称賛ぐらいに甘んじるべき作品ではなく、現在を生きる十代、二十代の若者たちはこれに触れることで、「かつてそこにあり、失われてしまった熱」に感染してほしいと強く願うものである。

映画「ブルージャイアント」感想

 小鳥猊下のキャラに合わないものは極力、言及を避けてきた十数年だったのですが、最近はその制約と誓約もだいぶ希薄になってきたーー現実ではルールを守っても、特に能力がカサ上げされないことが判明したためーーので、もうしゃべっちゃいますけど、漫画ブルージャイアントの大ファンなんですよねー(ジャズってスカしてて、nWoっぽくなくない?)。無印から始まって、シュプリーム、エクスプローラーと単行本はずっと発売日に買ってます。この作者の描くキャラクターたちは、昔の文芸時評ふうに言えば「ちゃんと人間が書けて」おり、読んでて腹が立ってこない(かなり重要)ので、とても好きなのです。ただ、人に薦めるにあたって注意しておくべき点があって、この漫画家の信条と申しましょうか、創作姿勢みたいなものを言葉にすれば、「偶然いま、この人物にカメラが向いているけれど、世界に主人公なんてものは存在しないし、だれにでもどんな不条理でも起こりうる。それが生きることの残酷さってものだ」とでもなるでしょうか。山岳救助隊のスーパー・ボランティアを描いた前作も、この考えに従って最後には主人公を二重遭難でキッチリ殺して終わらせている。

 この後味の悪い結末への非難ーーバッドエンドとわかっている長編を読みたくない層は一定数いるーーに懲りたのか、ブルージャイアントでは単行本の巻末に「有名ジャズプレイヤーとなった主人公を、過去の関係者が語る」挿話が毎回あり、「ダイ・ミヤモトは夢の途上でdieしませんよ、サクセス・ストーリーだから安心して読んでね」という目くばせをセーフティ・ネットとして用意している。なので、読者は今度こそ安心して読めると思うじゃないですか。いやいや、少しの内省で創作の信念が曲がるほど、売れているプロ作家の業は甘いものじゃありません。主人公を守られた安全圏へしぶしぶ退避させながら、本作において作者の牙は準主人公へと向かうことになります。無印ブルージャイアントの最終巻、大事なライブの前日にメンバーのピアニストが何の脈絡もなく大事故に巻きこまれ、右腕をグシャグシャに損傷させられてしまうのです! 工事現場の立ちんぼで誘導棒を振っている準主人公に、ページをめくったとたん見開きでダンプが突っ込んでくる絵は、あまりの唐突さに「コイツ、やりやがった!」と思わず爆笑してしまったほどでした。そして、どれだけ過去の巻を見直しても、この結末に至る伏線なんか微塵も出てきません。作者を問いつめたとして、「若くして大動脈解離で亡くなった有名人の死に、伏線があったか? これが世界の残酷な実相ってもんだ」としか返ってこないと想像できるあたりが徹底しています。

 無印ブルージャイアントの映画化と聞いてまっさきに思い浮かんだのが、ダイ・ミヤモトの海外雄飛のきっかけとなった、物語としては読者を絶頂からドン底に叩き落すーーじっさい、リアルタイムでは非難轟々だったーー作劇をどう再現するのか、またはしないのかという興味でした。んで、きょう見てきたんです。あまり大きくないハコだったのですが、若い原作ファンと年配のジャズファンが半々といった感じで埋まっていて、アニメ作品としては面白い客層でした。ラストの改変は、映画として収めるにはこれしかないというラインでしたが、あまりにフィクションの機能による称揚が強すぎて、石塚真一作品の本質からは少し浮いているような印象を持ちました。話題になっている演奏シーンの映像的なクオリティは、京アニの音楽モノなどで目の肥えたオタクには正直なところ、厳しいと言わざるをえません。上原ひろみのギャラが制作予算の大半を占めてしまったせいなのか、CGを含めたルックスは全体的に劇場版というより、テレビアニメのレベルです(録音は文句なしなので、円盤でのリテイクを期待)。

 「アニメ映画を見る」のではなく、「ジャズライブに参加する」意識で行った方が満足感は高まるーー前の席の老人は終盤、目をつむって横ゆれしていたーーと思いますが、夢を追う若者たちの青春を描く、最近ではめずらしくなってしまったストーリー展開は原作同様、やはり特筆すべき熱量に達しています。疲れた大人たちは、若いパッションが己の諦念を砕いてくれる瞬間をどこかで夢想しているし、子どもの純粋さが冷めた大人の打算に勝ってほしいと、いつも願っているのです。その意味で、ダイ・ミヤモトの狂気じみた情熱が本作を視聴する若い人々に感染し、この老いた世界の見かけに充満する「冷めたあきらめ」を吹きとばしてくれればと、半ば本気で期待しています。あと、「映画館で見るべき!」との感想を散見しましたが、「防音室とサラウンド再生環境の無い家庭は」を条件として追記しておきましょう。映像の一部は大画面に耐えるレベルじゃないし、ホラ、衰退期とはいえ全国民がウサギ小屋に住んでる貧民ってわけじゃないから……(無用の挑発、そして台無し)。