猫を起こさないように
上伊那ぼたん
上伊那ぼたん

雑文「上伊那ぼたん、あるいは百合について」

 最近はフォロワーを増やしたくて、手あたり次第にフォローをくり返しているため、完全にタイムラインの構築に失敗しており、なぜか「上伊那ぼたん」なる百合アニメの話が延々と流れてくる。Diablo2Rのシーズン14において、ついにsteamとbattle.netの2アカウント運用を始めてしまったため、セルフrushとセルフbaalrunがはかどってしょうがないので、数話をながら見して、深刻に考えこんでしまった(吠え馬場は完成した)。なので、きょうは思いつくままに、”百合”という虚構カテゴリについて、すこしテキストを書いてみようと思う。まず、対立する概念であるところの”薔薇”は、まさにその語源となった「薔薇族」や「さぶ」に描かれた、むくつけき毛むくじゃらの大男がくんずほぐれつする、男性の性欲が男性へむかうさまをあらわす。つまり、このワードは現実に行われる同性愛を指している。次に、栗本薫を創始者とする”やおい”は「JUNE」などに小説や漫画の形式で掲載されていた、読み手であり書き手でもある少女が自身の自我をあずけた美少年や美青年による愛の営為であり、現実とは連絡のない明確なフィクションだと言えるだろう。ただし、繁殖の不可能性による社会からの冷たい拒絶に、少女たちの青春期の鬱屈や孤絶や閉塞感を重ねて書かれたため、それらの一部は非常に高い文学性をまとうこととなった。しかしながら、栗本薫その人がのちに嘆いてみせたように、大家族の解体による社会の変容が進むにつれ、誤解をおそれずに書くならば、「世間や父母や友人から祝福される、無責任・末代同性セックス最高にきもちいい!」というポルノ方向へと、やおい作品の総体が傾いていってしまったのである。

 では、百合はどうか。「上伊那ぼたん」を見るにつけ、現実に生きるレズビアンの実体を描いているわけではなく、若い女性を都合よくドール化した人形あそびのようなもので、同性ゆえの行き止まりの葛藤も、他のだれかではない”あなた”でなければならない理由も、いっさい感じることはできなかった。「わたしが醜い肉塊であったとしても、あなたはわたしを愛してくれるのか」という切実な問いかけは、かつてのやおい作品にはたしかに存在していたが、現代の百合において美醜へのまなざしは、あらかじめキャンセルされる。なぜなら、”性欲”と呼ぶとドぎつすぎるので言いかえれば、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられた男性のまなざし」からキャラクターは造形されており、昭和の生んだ有害なマスキュリニティ・ワードの頂点の一角をなす「ギリ抱ける」かどうかが、その基準となっているからである。以前、ナントカちゃんのセーラー服にも似たようなことを感じたのだが、「あらゆる男性のまなざす、若い女の肉がはなつ媚態とフェティッシュ」だけが本体のイラスト集に対して、その事実にまったく気づかないフリの、ストーリー漫画に向けてする高評価がならんでおり、ステラーブレイドばりの奇妙な界隈だなあと感じたのを思いだした。「上伊那ぼたん」に話をもどすと、飲酒をするとしゃっくりが止まらなくなる体質に、ただ一度「うるさい」と言われたことについて、泣くほどのトラウマにしているのを繊細さのあらわれとして受容するには、わたしはこの短くない人生において、あまりに多くの弱き人々を見すぎてしまっている。だいたい、すこしでも波風を立てることを避ける昨今の若者が、あの場面ーーあそこだけ、昭和の飲み会感あるーーで「うるさい」なんて発するはずもなく、100人中100人がその内心がどうであれ、表面上は「だいじょうぶ?」と声をかけるだろう(”ためにする”作劇をやめろ)。

 しかしながら、最終回において、ピアスの穴をあけることをセックスの代替行為としたのには、非常に納得感があった(結局、ぜんぶ見てるやん)。なんとなれば、「体内への侵入による支配と、テンポラリーな合一」こそがセックスの本質であり、ペニパンを装着したところでそれはあなたの一部ではないし、懸命に外性器をすりあわせたところで、永遠に相手とは近づけないだろう。現実のレズビアンが持つ、そういった”どうしようもない寂しさ”が、百合のフィクションからはきれいサッパリ抜け落ちているし、せいぜいが大学生までの若さと”何者でもなさ”があるからこそ、「やがて過ぎ去り、いつか失われるもの」として鑑賞していられるのだ。このあと、彼女らは就職活動の果てに、企業の序列と職種による外的な評価があたえられ、そうして2人が30代、40代になり、否応に関係性を変化させていく未来を、おそらく本作のファンは見たいと思わないにちがいない。その態度こそが、やおいのような文学の高みへは到達できない、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられる男性のまなざし」にのみ立脚する、百合作品の限界なのだろうと思う。正しく百合の関係性を完遂するためには、肉の誘引力が消えるまえに心中させるーーできれば、体内への侵入を象徴する刃物でーーしかないのだが、その張りつめたテンションとそこへいたらなければならない切実さは、上伊那ぼたん系の作品には求めるべくもないというのが、小鳥猊下の偽らざる感想である。寡聞にして物を知らない可能性もあるので、女性の若さにフォーカスが無い、女性視点の百合を題材としたフィクションがあるなら、ぜひ教えていただきたい。終わる。