猫を起こさないように
ワンピース
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ドラマ「ワンピース(実写版)」感想

 悪い評判が流れてこないので、イヤイヤ薄目でゴム人間の実写版1話を見る。ファンから総スカンを食らったカウボーイビバップ実写版の制作会社によるもので、正直なところ、クオリティはあちらと大差ありません。マッケンユー等の見どころは若干ありますが、他の漫画実写化で言えば、るろ剣というよりハガレンの方にカテゴライズできるでしょう。アルファ的な方々が、チラホラ頭のいい批評的な褒め方をしてるのは、どうにも「企業案件」くさいなと思っています。本当にファンへ受け入れられて流行っているなら、まっさきに低偏差値ヤンキーどものアホな歓声がタイムラインを埋めつくすでしょうからね!

 少し話はそれますが、原作の漫画は本邦において「マスコミ不可触群」に繰りいれられていることが、容疑者が海賊団の首魁を名乗る例の事件で明らかとなりました。この不可触群の中身としては他に、親族や私生活がどれだけアレでも騒がれないフィギュアと新体操の元メダリストや、千と千尋ばりの「本名剥奪刑」を受けたのにどこの人権団体も動かない女優や、「美男の名優」という公式設定を各社が共有するチンピラ大根などが挙げられるでしょう。最近、ようやく旧メディアへ現出するようになった「邪児縊頭(キタキターン!)」の、過去最大1億2千万人の共犯者を持つ「漏れスター(アイドル失禁?)事件」にせよ、外圧からの出火が自然鎮火しそうにないことを充分に確かめてから、横目で互いの動向を確認しつつ、早すぎないよう遅すぎないよう、会釈と見分けがつかないレベルの謝罪を申しわけに公表するのがマスコミ仕草であり、「数ヶ月におよぶ誤報と3行の訂正文」が天地開闢よりずっと変わらぬ、きゃつらの心根の正味なわけです。そして、我々が住まう地の本質とは「泣いている者と怒っている者」が共同体の安定のため、最優先でケアされるクレーマー天国a.k.a.土人の巣であり、この環境下においてはヤクザ者のたつきが消えようはずもありません。

 話をラバーメンに戻しますと、こちらが燃えず、カウボーイビバップが燃え、範馬刃牙が燃えず、チェンソーマンが燃えたことは、フィクションの特性を分析する上で好対照の材料になっているように思います。キーワードは「リアリティラインの位置」と、それに伴って変動する「原作ファンのシリアスネス」だと指摘できるでしょう。チェンソーマンが作者の資質から、「文学」や「芸術」の枠組みに片足をつっこんでしまっているのに対して、ワンピースはどれだけ連載が長期に渡ろうと、任侠風味の「少年向け冒険活劇」という範疇にとどまります(刃牙シリーズ? あれは、ジャンルが唯一無二の「格闘ギャグ」になって長いから……)。そして、オリジナル版カウボーイビバップの「構成の見事さ」と「アニメによるウソ」から絶妙に成立する高品質の「リアルな本物っぽさ」は、大の大人をシリアスに狂わせるレベルにまで達していたわけです。実写化によって、この2つの要素を失った残骸を見せられ、ファンは自分たちの信仰を侮辱されたように感じてしまったのでしょう。

 原作ラバーメンは「グランド・リアリティ・ライン」がどこまでも低めーー人間がゴムて、キミ!ーーなので、期待値ゼロベースからの加点方式で評価が行われているのが、燃えなかった理由かもしれません。ゴチャゴチャ言いましたが、単純な真相は連載開始から25年が経過した現在、もう熱心なファンがそれほど残っていないってことじゃないですかね! そろそろ禁断のパチンコ・ブースト、いっときますか!

雑文「アニメ版チェンソーマン・第1期終了に寄せて」

 NOPEについての感想を調べるうち、チェンソーマン作者の妹アカウント(意味不明)がこの映画をほめているのと、チェンソーマンのアニメが漫画版のコアなファンたちに大きな不興をかっているのを同時に知りました。この配信全盛の時代に、いい音響設備を持っていれば話は別として、わざわざ円盤を買う層がいるとも思えませんのに、その売り上げを人気のバロメータとして語っているのには、いつまでも野球のニュースがスポーツコーナーの大半を占める「本邦の変化できなさ」と同じものを感じます。以前、いくつかの読み切りへの感想に、「この作者を理解できるのは自分だけだと思わせ、読者の一人ひとりと直接に書簡を交わすことのできる、稀有な作家」みたいなことを書きましたが、今回はこの特性がアダになっている気がします。なまじ感想を言語化できる、中途半端に偏差値の高い層がファンなので、SNSでバズりやすいと同時に燃えやすくもあったんだろうなーと思いました。当の監督さえも口を閉じていられずに、「アニメではなく、邦画のように撮影した」みたいなことを得々と語らされてしまうあたり、本当にファム・ファタールのような作家性だなあと感心してしまいます。まあ、チェンソーマンは洋画、それもB級洋画のチープさで撮らなきゃダメなんですけどね(「運命の女」の色香にやられた者の目で)!

 「アニメ版チェンソーマンのどこがダメか?」という議論をイヤイヤ横目で流し見しましたけど、わかりにくい例えながら「東大京大以外に通っていた者が、自分の出身大学は明かさないまま、私立大学の序列について語りあってる」みたいな雰囲気を感じましたねー。この例えに乗っかって言うなら、アニメ版の評価は「都心から少し離れてるけど、難易度も手ごろで、いい大学よ」とでもなるでしょうか。自戒をこめて書き残しますが、中途半端に偏差値が高い人物の言語化は、表現した内容と意識の本体に微妙なズレがあるんですよね。そして、発した言葉の方にピッタリ合うよう意識の本体を補正していくことで、やがて人格にまで影響が出るようになっちゃう。SNSがもたらした最大の弊害は、「言語化しないほうがいいもの」の存在を人々に忘れさせてしまったことだと考えています。個人的には「言語化に前駆する意識の広がりを後置される言葉で剪定しない」ということを、最近では肝に銘じておる次第です(これを記述するのが、そもそもの矛盾ですが……)。

 余談ながら、海賊王を名乗る詐欺事件の話が原作ファンの間で思ったほど燃えているように見えないのも、ファン層の大半を占めると思われる言語化の苦手な低偏差値ヤンキーたちは、ツイッターに生息していないからでしょうねー。長くなってきたのでまとめにかかりますと、アニメ版チェンソーマンの敗因は、「中途半端にかしこいメンドくさいファンが、受け手と送り手の双方に多く含まれていたこと」だと指摘できるでしょう。特に本邦での「かしこさ」ってのは、神経症の言い換えみたいなもので、美人の顔にある小さなひとつのシミさえ批判の本体にしちゃいますからねー……おっと、例えが昭和オヤジすぎて、平成キッズのみんなは引いちゃったカナ? 美醜は無いもののようにふるまうのが令和流だったよね、メンゴメンゴ! 最近では加齢と飲酒で脳細胞の多くがいい具合に破壊され、「言葉が存在しない状態」に生きる時間が増えてきました。これこそ、実家住み・マルチプルインカム・中卒ヤンキーの持つ多幸感の正体なのだと気づき、これまでの無用の苦しみをふりかえると、その遠回りに悔しいような気持ちにもさせられます。

 ともあれ、イケメンの頭頂部の砂漠化ぐらいのこと(大問題)で第2期を立ち消えにしてしまっては、元も子もありません。いまこそ私たち高偏差値の男前ハゲは、あたかも高等教育を経験しなかったかのようなフリで、アホになるべきではないでしょうか。では、みなさん、ごいっしょに! (ロンパリ前歯2本欠損ダブルピースで)チェンソーマンのアニメ、さいこー!

雑文「海賊王には、なりたくない」

 海賊王の名を騙った事件のニュースを見る。生放送だろう番組でも作品名が出ないどころか、ほのめかしやにおわせさえない不自然なほどの箝口令に、作者の狂乱と編集部の狂奔がしのばれて、なんだか楽しくなってきました。もちろん作品に罪はありませんが、幅広いファン層の一部について、大きく解像度が上がりましたねー。

 本邦の長い長い下り坂と並走してきた長期連載が、そのストーリーの最終盤において、このような現実とのリンクを生んだのは、じつに示唆的かつ皮肉なことです。新たに何も手に入らない世界において、すでに持てる者の財産を仲間たちと強奪する行為に、肯定的な文脈を与えてしまっているのですから!

雑文「物語のスケールについて」

 ワンピース(衣類)やシネバ(呪詛)からの客の離れ方を見ているとそれは、懐かしさ半分と惰性半分でずっと追いかけてはいたものの、次第に商売と骨がらみになって純粋さを失ったクリエイティブに対して、じつは心のどこかで嫌気がさしていたことに、鬼滅を筆頭とした近年の、伏線をキチンと回収してバランスよく終わるコンパクトな物語群によって、気づかされた結果ではないかと思うのです。物語は長くなればなるほど、物語単体としての純粋さを失って、語り手の人格や人生と骨がらみになり、作者の変節が物語の変質につながる段階を必ず迎えるような気がします。

 例えばグイン・サーガも50巻ぐらいまでは純粋なファンタジーでしたが、最後のほうでは作者の自意識を代弁する何かに成り果ててしまったのですから(それまでいっさい登場しなかったアルド・ナリスの母親が突然あらわれ、病床の息子を数ページにわたって改行無しに罵り続けるなどの、物語の自走性ではない、作者の内発性によるストーリーテリング)。

 そして物語への興味ではなくて、作者への関心で読むようになってしまうと、ストーリーへの好悪よりも語り手への愛憎が意識の前面に出てきて、エンターテイメントの観客の本来である楽しみや喜びを味わえなくなってしまうのです(私にとってのエヴァがそれ)。

 ともあれ、この二十年かけられ続けてきた集団催眠ーーテレビの形状がボックスからプレートに変わっても、まだ画面には青い猫型ロボットや入道雲パーマが映ってるーーから我々は、ようやく目覚めようとしているのかもしれません。時代の変化というと大げさですが、長い長い夏が終わり、エンターテイメントの季節が成熟の秋へと移った年として、本邦の2020年は記憶されるのでしょうか。