猫を起こさないように
リドリー・スコット
リドリー・スコット

映画「ナポレオン」感想

 ホアキン・フェニックス目的でナポレオンを見る。「暴の雰囲気を濃厚にまとわせる無表情から、突然のチャーミングな大破顔」というどこぞの宮崎駿みたいな役作りをしていて、現代へいたる法体制を整備した「稀代の政治家」ではなく、戦争ですべてを解決する「狂気の戦術家」としての側面に強いフォーカスがあり、そこへジョセフィーヌとの関係性を歴史ミステリーの軸にすえた「人間ナポレオン」の物語として全体は進行していきます。戴冠式のアレを始めとして、有名な西洋画の構図をそこここにノールック・スリーポイントシュートーーあれ、オレまたなんか新古典主義キメちゃいました?ーーでバシバシに投入してくる撮影はさすがの大巨匠リドリー・スコットであり、「同氏にとってブレードランナー以来の傑作」という、褒めてんだか貶してんだかわからない評も大いにうなづけるところではあります。アウステルリッツからワーテルローまでをド正面から四ツに組んで映像化しており、堂々たる歴史大河として「これぞ映画芸術の真髄なり!」と思わず膝をうつほどの快作であるのに、本邦ではいつ劇場にかかっていたのかわからないほど、一瞬で上映が終了してしまいました(たぶん、スパイ家族のせい)。配信ドラマや一分動画が全盛の現在、それこそブランデーを片手にドッシリと腰をすえて二時間半を銀幕の幻想に没頭する姿勢が、珍奇でまれな心理的外傷のケーススタディになる日も、もはや遠いことではないでしょう。

 個人的には、LGBTQF(レズ・ゲイ・バイ・トランス・クイア・フィーメイルを表すnWoの造語)以外に属する者として、同胞たる市民に向けて散弾をこめた大砲を水平射撃して鎮圧する様ーー足を失った婦人が血塗れで這いずるーーには背筋がゾクゾクしましたし、歴史の教科書でしか知らなかったナポレオンの大勝と大敗を象徴する2つの戦闘を、あたかもその場にいるような砂かぶり席で見られたことに、アドレナリンが全身へ充満する昂揚を感じました。歩兵・騎兵・砲兵を基軸としたファイアーエムブレム時代(まちがい)の戦争は現代のそれと異なり、「肉に食いこむサーベルの感触と、血しぶきとともに冷えていく遺体」を否応にともなっており、誤解を恐れずに言うならば、LGBTQF以外を心の底からワクワクさせる、ホンモノの闘争であると言えましょう。特に、アウステルリッツで砲撃をくらった露助どもが、極寒の湖へ血煙とともに沈んでいくのを幾度も幾度も執拗に映す様子は、「撮影時、私はナポレオンその人だった」とふりかえるリドリー翁が感じている「殺戮の悦楽に、硬く反った陰茎」がまざまざと伝わってくるようでした。そして、「勝っている戦争ほど、楽しいものはない」「異人を殺すとき、胸は寸分も痛まなない」という身もフタもない興奮状態から編集時にハッと我へかえったのか、外人傭兵部隊が設立される理由にもつながる「ナポレオンが戦場で死なせた、おびただしいフランス兵の数」をエンドロールの手前に申しわけ程度のテキストで列挙することによって、「せんそー、はんたーい」みたいな弱々しいシュプレヒコールをあげるフリで物語の幕を閉じるものの、この映画が表現しているのはそれとは真逆の内容ーー「祖国のための戦争で他国を蹂躙するのって、ハッキシ言って最高におもしろカッコイイぜ!」ーーであると指摘しておきます。

 あと、レ・ミゼラブルの感想のときにも言いましたが、フランスというのは若者の無軌道な衝動性をレボリューションなる語彙で称賛する短慮短絡な国家であり、賢明な老人諸氏にはさぞかし生きづらい場所だろうと推察するとともに、心からの同情をお寄せいたします。本邦に根強い仏国に対する好印象は、主にベルばらと宝塚によるプロパガンダ的な由来を持っており、まだ大聖堂が燃え落ちておらず、中心街が移民によって釜ヶ崎みたいにはなっていない時分に渡仏(ぬりぼとけにあらず)し、埃っぽいシャンゼリゼ通りでバケツ一杯のムール貝をむさぼり食った経験を持つ貴人に言わせれば、パリなんてのは錆びた鉄塔と治安の悪い地下鉄があるだけの小汚い下町に過ぎず、その意味で新世界周辺となんら変わるものではありません。「イラついたので王を引きずりおろしたクセに、なんだか不安になってすぐさま次の王を立てたかと思えば、やっぱりムカついたのでその王を引きずりおろしたあげく、尻のすわりが悪いのでまた別の王をすえなおす」みたいな、前頭葉に欠陥のあるとしか思えない、感情の抑制がきかないバーバリアンどもから、ローマ帝国の浴場的末裔であるプレーン・フェイス族の我々は、くれぐれも何かを学んだりしないようキモに銘じたいところです。それと、ナポレオン式着衣後背位(高速)ーー「なんで妊娠しねえんだよ、チャクショーッ!」ーーが史実なのかどうかは、とても気になりました。

映画「ハウス・オブ・グッチ」感想

 映画館で見ようと思っていたら、一瞬で上映が終わってしまったため、円盤を購入していました。んで、今日ようやく時間をつくって見たんです、ハウス・オブ・グッチ。いやー、すごいよ、これ。リドリー・スコットがグッチをテーマに映画を撮ると聞いて、ファッション業界を舞台にしたゴッドファーザーみたいなものを想像してたんですよ、アル・パチーノも出てるし。レディ・ガガが真ン中で腕を組んで、「それは、人を狂わすほどの名声」ってコピーがついたポスターがあったじゃないですか。あれを見て、映画偏差値70オーバーの内容をワクワクと思い描いていたら、出てきたのはなんと30以下のシロモノでした。

 脚本ダメ、構成ダメ、撮影ダメ、演出ダメ、演技ダメ、選曲ダメ、編集ダメ、全体的に安っぽいテレビドラマみたいなクオリティで、そもそも映画芸術の域に達していません。アダム・ドライバー、ジャレット・レト、ジェレミー・アイアンズと錚々たるメンツをならべておきながら、カメラテストの1発目をリテイクなしで採用したような場面ばかりで、バストアップを交互に切り返すだけの会話シーンが多用され、題材から逆算して画面に漂わねばならない緊張感は常にとぼしく、なぜ挿入されたかわからない意味不明のカットも散見されます。1つ1つの場面がダラダラと続くくせに、カット尻の切り方はどれも唐突で気持ち悪く、2時間30分ほどの全長のうち、1時間は編集で詰められるでしょう(4時間かけた特殊メイクがもったいないと思ってんのか、ジャレット・レトを出しすぎ)。

 もちろん良かった点も無くはなく、アダム・ドライバーが次々とハイブランドに身を包んで出てくるのは眼福でしたし、グッチのはじまりが皮革産業を生業とした共同体であることを知れたのは興味深かったですし、レディ・ガガの演じる「下賤の女」は彼女の出自と地金が垣間見えてゾクゾクしました(まあ、演技はアレですが……)。でもね、ひどいまとめ方をしますと、晩年を迎えた巨匠が自分より若い妻にそそのかされた結果、もう何人も口出しできないゆえに客観性が1ミリも入りこむ余地のない、恍惚とした老人の主観世界を体現するような作品に仕上がってしまったのではないでしょうか。なんか最近、似たような印象を持った作品があったなー、なんだったかなーと考えていたら、ククルス・ドアンの島だった。

 あと、検索してもハウス・オブ・グッチに関する感想があまり出てこないのは、最近の「賞賛か無視」しかないインターネット社会を如実に反映しており、みんな微妙だと感じているのだろうなと、ご推察し申し上げます。本作へ言及する数少ない記事に、「アダム・ドライバーがハウス・オブ・グッチの打ち上げに参加しなかった」というものがあり、「役へ入り込み過ぎるきらいのある彼が、ブランドのために家族を捨てる夫の役から、一刻も早く離れたかったのかもしれない」とか書かれているのを見つけました。いやいや、本作でのアダム・ドライバーは頬骨ごと口角を上げるひきつった笑顔の芝居しかしてなかったじゃないですか。マウリツィオ・グッチがいったいどういう内面を持った人物なのかサッパリわからなかったし、何の演技プランも監督の指導も感じなかったですよ。リドリー・スコットの名前にだまくらかされて、よくよく内容を精査せず、本人に確認しないまま事務所主導で出演を決めてしまったものの、渡された脚本に首をかしげながら撮影を進めるうち、駄作疑惑が確信へと変わり、レディ・ガガと事務机でする獣のようなファックが決定打となって、もう二度と思い出したくない現場になったからじゃないですかね、知らんけど。