猫を起こさないように
リケジョ
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映画「超かぐや姫!」感想

 直近の体験から、アニメをわざわざ映画館で鑑賞する意義を感じられなくなっていたのと、ステレオ音声のみの上映であるようなので、話題作の「超かぐや姫!」を自宅テレビのネトフリで見る。色彩とアニメーションの洪水みたいな作品で、静止画ではカエルみたいにうつるだろう作画の崩し方など、「造形の端正さ」というより「動きの楽しさ」を優先して作られている気がしました。ライバー、Vチューバー、ボーカロイド、VRチャット、原神、エーペックスなど、10代と20代の若者に刺さる要素を、たがいの相性を考慮せず闇鍋のごとくほうりこんでいるのに、かぐや姫という古典の大筋があるので、ほとんどカーブのさいに片輪が浮くほどの暴走をしながら、なんとか最後まで物語の線路上を走りきった印象です。もともと、全12話のシリーズで企画されていたようで、中盤の長すぎるモンハンみたいなリーグ・オブ・レジェンズは映画的な構成を阻害しているし、唐突な実兄の登場や解消されない母との葛藤も、尺の都合で満足に掘りさげられません。馬齢を重ねたせいでしょう、特に京言葉をあやつる母親のあつかいは不当にひどいと思いました。はやくに夫を亡くして女手ひとつで兄妹を育ててきたのに、2人ともが感謝もなく後ろ足で砂をかけるように家を出て、上京してしまうーーもっと巧妙に、反抗も逃亡もできないよう子どもを縛る親はいくらでもいる中で、「親を一個の人間として理解する」段階が描かれなかったのは、いち観客として拒絶されているように感じました。そもそも「親との葛藤」というのが、近年の家庭をえがくさいのテーマとして古くなっている可能性があり、「両親ともに死別か海外出張」ぐらいにしておいたほうが、よけいな雑味なくスッキリ見られたのではないでしょうか。

 話を物語の本筋へもどしますと、「定型発達の生真面目な主人公が、ADHD傾向のある奔放なヒロインにふりまわされるうち、心のカラがやぶれて内面の葛藤がほぐれる」という展開こそ、古い王道のボーイ・ミーツ・ガールですが、少女どうしでこれをやるのは、現代の世相を強く反映しているように感じます。すなわち、女性だけでなく男性にとってさえ、いまや”性欲”が邪魔なものになってきているということです。肩をはだけヘソをだし、肌もあらわな女性のルックスは、「かわいい」「きれい」「かっこいい」と感じなければならないもので、万が一にも男性器を勃起させるニュアンスをはらんではなりません。ホヨバを代表とする大陸のゲーム群では、「当局の検閲をくぐりぬける」という究極の一点から、意識レベルでの徹底的な性欲のオミットを実現しているのに対して、それに影響を受けた本邦の新しいフィクションにおいて、”性嫌悪”に近いものへ変奏されてしまうのは、じつに不思議なことです。「セックスもしくは類似行為による身体性の回復」は、ジュブナイル作品にとって重要なプロセスのひとつだと信じておりますが、本作ではその位置に「味がする/しない」を代入したのは、きわめて巧妙な手口だと思いました。物語の終盤で、とても令和のフィクションっぽいなと感じたのは、「6000年の経過に魂だけとなった存在を受肉させる」ことに東大リケジョ(笑)のハイキャリアをすべて捧げる展開で、おのれの能力を「世界をより良い場所にすること」や「人類の未来に貢献すること」に使うほうが、よほど荒唐無稽な”つくりごと”で、いまや「気のおけない友人と再会し、笑いあうこと」こそが、若い世代にとって身の丈のリアルなんだろうと考えさせられてしまいました。

 昭和のフィクションなら、「別離の痛みによる成長」とか「再会の瞬間が別れのとき」みたいなビターエンドを持ってきそうなところに、「味蕾をそなえた完璧な素体を完成させ、バーチャル空間で魂のデジタルコピーが実現し、未熟と成熟と不死を総どりしながら、イツメンのライブで大盛りあがり」という悲しみも喪失も、そして成長さえもすべて拒絶したウルトラハッピーエンドになるのは、虚構の持つ願望充足の機能をフル活用していて、いっそ清々しささえ感じます。この映画のターゲット世代が、はたして10年後、20年後に同じ結論を保持していられるかに興味はつきませんが、我々の世代とまじわりのない人生たちの様相に、ロートルからとやかくは言いますまい(言ってる)。いにしえの「ロトンひつじみず」に代表される社会的抑圧を通過してきた身にとって、本作における「友人を出産する無痛分娩」に類するドリームが、外的な要請のいっさいをはねのけて個人の願いをつらぬきとおす新たな希望なのか、児相やらコンプラやらハラスメントやらでがんじがらめにされて、大人が若者にさわれなくなった結果の暴走なのかは、いずれ時間の経過が判断してくれることでしょう……などと視聴中は終始、冷笑的な態度をつらぬいていたのですが、エンディングで初音ミクのメルトが流れた瞬間、眼球の基底部から水平に涙がビュッといきおいよくとびだし、そこからは画面がにじんで見えないほどの大号泣となり、「超かぐや姫!」全体への印象をさかのぼって永久に上書きしました。個人的に、「テキストと画像」から「音楽と動画」へと移行する過渡期の、古いワールド・ワイド・ウェブの消失と新たなインターネットの台頭を象徴するような曲でーー当時なんどもリピートしていたこととあいまって、「完全に正常な外殻をそなえているのに、内面の苦しみがいつまでも消えない」という、生活にひもづいた玄妙なる感情をふいによびさまされたからです。この映画を、葛藤とは遠い場所で楽しむ10代、20代の若者たちは、「超かぐや姫!」というタイムカプセルに、どんな記憶と感情をあずけるのでしょうか。