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ミッションインポッシブル
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映画「ミッション・インポッシブル:ファイナル・レコニング」感想

 ミッション・インポッシブル:ファイナル・レコニングを映画館で見る。「配信時代の銀幕の守護者」「ボクらの疾走する映画バカ」が、トップガン・マーヴェリックぶりに、劇場へと帰ってきました! スパイ大作戦や009の亜流だかスピンオフだかからスタートしながら、続編を重ねるにつれてトム・クルーズのプライベート・フィルムと化していったことで有名な本シリーズは、いよいよ「俳優トム・クルーズの人生と、その生き様」をダイレクトに表現する装置と化してきたようです。3時間ちかくある作品なのに、上映中は時計も尿意もいっさい気にかからず、オープニングからエンディングまで、ほぼひとつながりの意識で画面に集中することができました。劇場を出てから行う内容の反芻においては、「上映時間を30分は縮められるだろう、長すぎるアクションシーン」や「ツッコミどころの多い、隙だらけでご都合主義のシナリオ」などの感想が浮かぶには浮かぶのですが、上映中はまるで80年代から90年代にかけてのハリウッド・ブロックバスターを見ているようで、ひとりの観客としてエンタメ・ジェットコースターの快楽へ、完全に身をゆだねていました。デッド・レコニングへの批判を受けて、ストーリーの構成と編集をイチからやりなおしたそうで、ドラマパートをバンズ、アクションパートをアンコで例えるならば、前作が薄く切った味のとぼしいカステラで蜜抜きをしないーー美味しんぼからの知識ーーギトギトのアンコをブ厚くはさんだ、ひどく胸やけのする「失敗したシベリア」だったのに対して、本作はしっとりフワフワで味の濃い生地にサラリと口の中でほどける上品な甘さのアンコをとじこめた、開店1時間で完売する「上質なあんぱん」ーー検索エンジンを意識した例えーーだと表現できるでしょう。もっと具体的に言えば、前作でのドラマパートは撮影してしまった「やりたいアクション群」をつなぐだけの粗悪な接着剤みたいな中身でしたが、本作のそれはこれまでのシリーズから引用した映像を織りまぜながら、時間をかけてアクションシーンの目的と必要性を説明してくれるため、観客が主体としてミッションへ感情移入できるようになっています。2つのチームと過去/未来の場面を速いカット割でザッピングしていく手法は、長尺を使ったアクションパートとの好対照なメリハリを成しており、緊張の系は細く長くずっと切れないまま、3時間にわたってつむがれていくのです。

 そしてなにより、還暦をオーバーしたトム・クルーズによるCGをいっさい廃した生身のスタントは、もはやロコモーションの型番を偏愛するような脳の特性にしか響かなくなった、ポスプロまみれのマーベル作品ーー上映前に予告編をアホほど見せられるの、もうなんかのハラスメントちゃうの?ーーに向けた無言の批判として成立するレベルで、近年のクリストファー・ノーランが高尚かつ思想めいてきたのに対して、アホで低俗で愚かな大衆である我々を、トムが全力の笑顔でハグしにきているような暖かみさえ感じます。もしかすると、上空3000メートルで複葉機に取りついて行うスタントは、CGで95パーセント同じシーンを再現できるのかもしれませんが、この愛すべき映画バカは「それを生身でやることで生まれる、差分の5パーセントの意味」に大金と、文字通りの生命までを賭けており、観客の冷めたハートもその本気度にどうしようもなく燃やされてしまうのです。ロンドン橋の上やレシプロ機を追いかけての”イーサン走り”は、もはや「間に合わないことの直喩」みたいになっていますが、本作では「ピッチャーゴロを打った高校球児が、一塁まで全力疾走する」のを見るときのような、青ビョウタンの「無駄じゃん(笑)」という冷笑を問答無用にふきとばしてしまう、不思議な感動がありました。結局のところ、リモートワークや人工知能などの便利なツールは世に氾濫すれど、人間は人間の肉の実在とその躍動にこそ心を動かされるのであり、自分もそうあらねばならないと背筋の伸びる気持ちにさせられます。「アラカンのトムがあれだけがんばってるんだから、オレも明日からもっとがんばらなきゃな!」と思いながら、すがすがしい気分で劇場をあとにしたご同輩も多いのではないでしょうか。ここでまたいつものように脱線しておくと、ジークアクス8話における大気圏突入のワンカットを見た瞬間、大号泣してしまったことを告白しておかねばなりません。なんとなれば、現状を現状のまま留めおこうとする打算に満ちた政治と、既得権益に満ちあふれた賢しい大人の権謀術策を、年若な底抜けのバカが情熱だけでブチやぶって、冷えて固くなった世界のド真ん中に風穴を空けるシーンに見えたからです。50年もののシリーズにガンダム素人がうかつなことを申すまいと、ずっと口を閉じておりましたけれど、次週の展開を見ることでこの印象が薄れたり変わったりするのが怖いので、ここに感情の記録として書き残しておきます。

 話をファイナル・レコニングに戻しますと、世界同時公開となる大作映画として、終わらない侵略と進行するジェノサイドを前に、前世紀末の「核戦争の恐怖」を援用しながら、人工知能を仮想敵とすることで、トップガン・マーヴェリック終盤のように「現代において、だれがなにを打倒するべきなのか?」への焦点を徹底的にボカしたまま、旧世代にとってのカタルシスーーポセイドン・潜水艦・アドベンチャー、時限爆弾の色つきコードと時計カウントダウン、デジタルの脅威をアナログの物理で粉砕などーーを演出しきったのは、お見事というほかありません(デジタル・ネイティブである新世代が、これらを”快”と感じるかどうかは、正直わからないです)。ただ、作品の瑕疵とまでは申しませんが、3時間の中で一ヶ所だけ、フィクションへの没入から思いきりキックアウトされる場面があったことを、最後にお伝えしておきましょう。深度200メートルの海中から、酸素ボンベなしのスッポンポンで水面へと浮上するところまでは、「まあ……イーサン・ハントなら……ギリいける……のか……?」と自分をだませていましたが、直後に行われたポッと出のヒロインによる救命シーンには、怒髪天を突きました。人工呼吸はチュウやないし、胸骨圧迫は乳首へのペッティングとちゃうんやで! そもそも心臓とまっとんのに、人工呼吸で蘇生するわけあるかいな! トムやなかったら、ゆうに5回は死んどるところやで! ヒジを伸ばして関節を垂直に固定して、骨折させるつもりの全体重をかけて胸骨をヤッたらんかい! あと、黒人の女性大統領に対して、だれもが”ミズ”ではなく「マザー・プレジデント」と呼びかけるのですが、これはプロトコール等において現実に先んずる形で、すでにルールが決められているのでしょうか。それと、”コーリング”という単語が劇中で何度かくり返されていましたが、キリスト教における「神から与えられた使命」という意味だそうで、トム・クルーズにとっての映画制作は、もはやこの境地に達しているのだなと思うと、じつに感慨ぶかいものがありました。

映画「ミッション・インポッシブル:デッド・レコニング」感想

 ミッション・インポッシブル:デッド・レコニング、これまた愛マックスで見る。前作からあいだにトップガン・マーヴェリックを挟んだせいで、「配信全盛の現代における、劇場映画の守り手」とか「自制心に満ちた一流の俳優で、最高の映画キチガイ」など、ちょっとトム・クルーズに対する評価と期待値を上げすぎた状態で見始めたのですが、映画が終わる頃には「ああ、MIシリーズって元々はB級C調のバカ映画だったし、トムも他の役が回ってこないスタローン級の大根役者だったわ」としばらくぶりに長い幻惑から覚めて、真顔になってしまいました。「コンプライアンスの概念がハリウッド全体に浸透し過ぎたため、ヤクザまがいの横車を押して編集権をにぎる往年の剛腕プロデューサーは姿を消し、映画制作がクリエイター主導となってしまった結果、近年の作品はどんどん大長編化して冗長になっている」との指摘をどこかで読みましたけれど、本作にはこの批判がそのままピッタリと当てはまります(最初に流れたデューン第2部の予告編の、まあダラダラと長かったこと!)。

  このシリーズ最新作、なんと脚本を準備せず撮影に入ったそうなのですが、「撮りたい絵が優先した支離滅裂なストーリー」「一貫性の無いキャラクターの感情と言動」「物語を駆動しない、”撮影したから使っただけ”の意味不明なカットの数々」などなど、「手に入った映像素材のパーツでジグソーパズルをしている」みたいな、迷走した仕上がりになっています。特に目立つのが「欽ちゃん走り」ならぬ長回しの「イーサン走り」で、その多くがシーンごと丸々とりのぞいてもストーリー進行には何の影響も与えないことでしょう。序盤で空港の屋根を延々と走る場面などは「60歳を越えて、長距離を全力疾走できるトム・クルーズの節制はえらいなあ」というメタい感情を観客に惹起することが目的でないとしたら、「がんばって走ったら飛行機を追い抜いて、現地へ先回りできた」みたいな意味不明の文脈を生じさせてしまっています。

 また、近年の界隈に顕著である「人種アファーマティブ枠」で選ばれたヒロインがまったく魅力に欠けており、この女優に「ルパンを手玉に取る峰不二子」という役割を与えようと試みたのが、映画内で起こったあらゆる事象を踏まえたとしても、最大のアクシデントでしょう。ただのモブだと思っていたスリの男顔女が、前作からのバディを押しのけてまでずっとスクリーンに居座り続けたのには、ビックリ仰天しました。いつまでも終わらないカーチェイスや、アクション映画のお約束となった暴走列車の屋根における肉弾戦など、直近に視聴したインディ・ジョーンズ由来の既視感はすさまじかったのですが、ハリソン・フォードがトム・クルーズよりはるかに動けていないことを勘案しても、フィービー・ウォーラーのヒロイン分だけ、あちらの方が上等な作品と言えるでしょう。予告編でさんざん撮影の舞台裏を含めて公開した、バイクで崖から飛びおりる例のシークエンスにしても、ストーリー上での使い方がヘッタクソーーイーサンの機転ではなく、失敗の帳尻あわせーーすぎて、「予告編で観客の脳内に繰り広げられた妄想が最高潮」という情けない有り様になっているのです。おまけに、飛びおりからパラシュートで列車に取りつくところまでを長回しでやるのかと思いきや、「まあ、それはさすがに危険すぎるでしょ」と2つにカットを割ったのも、かなり興ざめでした。

  映画終盤のアクションも、撮影技術的にはすごいのかもしれませんが、「アンチャーテッド2の冒頭を実写でやってるなあ」という感想が先に来て、少しもワクワクできませんでした(アクションシーンの新味という意味では、出がらしみたいな作品です)。「トム・クルーズ本人が墜落しても骨折ですみそうな、ほんの低い位置をパラセイリングする」という貧弱なスタントシーン(笑)から、2時間40分もの長尺を使っていながら尻切れトンボの方がまだ尻尾が長く残っているぐらいの感じでエンドロールとなるのですが、「撮りたい場面だけカメラを回していったら、ある程度の映像素材がたまったので、パートワンのラベルを貼ってとりあえずの幕引きとした」みたいな、観客をナメきった不誠実さを強く感じました(パートツーの構想は、現段階でほぼゼロなんじゃないでしょうか)。クランクインに先んじて脚本がキチンと用意されていて、剛腕プロデューサーが興行収入という自身の職責に照らして編集権を行使できる現場なら、「沈没したロシアの潜水艦へ深々度ダイブして、鍵を使って人工知能を停止する」までやった上で2時間に収めて、1作で完結できていただろう内容の薄さです。

 かように受け手をナメきった態度は、デッド・レコニングというカタカナ邦題にも表れていて、この単語の意味はもちろんのこと、航海用語であることすらわかっていない人がほとんどでしょう。それを「いいって、いいって、そのままで! トム・クルーズの名前が入ってるだけで、みんな見に来るんだからさ!」と広報宣伝の努力どころか、己の職責さえ完全に放棄したヤリサー陽キャ電通マン(幻覚)の態度には、しんとした深い怒りさえ覚えます。こうやって映画は緊張感の欠落した、人生とは何の連絡もない「パッケージ商品」へどんどんと成り下がっていくのでしょう。いま本邦で、もっとも客を劇場に呼べる作品を教えてさしあげましょうか? ジャンルやタイトル、だれが監督かさえどうだっていいのです、ズバリ、「ショーヘイ・オオタニ主演」ですよ! 芸術を解さない、この田吾作どもめが、みんな死んでしまえ!