猫を起こさないように
マスターキートン
マスターキートン

雑文「ヘブバンとキートン、そして銀英伝(近況報告2022.10.2)」

 ヘブバン、未練の毎日ログインのためだけにスマホへ保持しておくにはあまりに大容量になってきたため、泣く泣くPC版へと移行する。しかしながら、大きな画面に映して良いスピーカーで鳴らすと、見えなかった筆づかいが見え、聞こえなかった音が聞こえるようになり、手間ひまかけて作りこまれたゲームであることを、あらためて認識できました。なのに本編シナリオは……というところへまた愚痴がいきそうなので、最新イベントをイッキ見した話をすることにします。いやー、ヘブバンのギャグパートは肌があうっていうか、やっぱりメチャクチャ好きだなー。執拗な繰り返しでのギャグは、フルボイスならではのスタンダップ・コメディであり、テキストだけで同じことをしたら、きっと連打で読みとばされてしまうことでしょう。その繰り返しの部分も微妙に演技が違う感じで、「否、否、えろ」にはこらえきれず、大爆笑してしまいました。

 お決まりのシリアスな締めも、いつものようなベショベショではなく、今回はカラッとしていて好印象です。見ていて、なぜかマスターキートンの爆弾処理の話を思い出しましたね、有名な「穏やかな死」のほうではなく、バルセロナ五輪で新聞社に爆弾がしかけられる回。「まったく動揺を見せない完全無欠と思われていた人物が、内心では動揺してビビりまくっていた」というプロットが共通していたからでしょうか。ついでに、それこそ20年ぶりくらいにその回を読み返してみたんですけど、ひどく心にしみましたねー。「自分がいちばん上手くできるのはわかっているが、大きな恐怖ーーが大げさなら、億劫さーーを伴う仕事」って、事の大小こそあれ、勤め人ならだれでも持っているんじゃないでしょうか。恐怖や億劫さに負けてそれをだれかに丸投げしたら、失敗した上に時間だけが空費された状態で手元に戻ってきてしまう。この類の仕事を、泣き言はおくびにも出さず、「これはオレの役割だ」とつぶやいて、周囲に気づかれないうちに処理してのけるのが、私にとっての大人のイメージなのかもしれません。

 銀英伝で例えるなら、フィッシャー中将みたいな人。うん? 銀英伝は好きですけど、そんなキャラいましたっけ、だって? (微笑んで)そう、それ、そういうのがいいんです。けれど、いまやこういった仕事のバトンは、社会や組織の中で受けわたされることなく、消えていっていると感じます。ハラスメントという名付けで単色に塗りつぶされてしまったグラデーションの辺縁に、そのテイクオーバー・ゾーンはあったような気がしてなりません。

アニメ「スプリガン」感想(6話まで)

1話まで

 スプリガンの名前をタイムライン上に見かけて、「あれかー、ロボットが変形するPCエンジンの横シューかー。『いえ、スプリガンMk.2です。きゃああっ』、え、お姉さん、出番それだけ?」とか声色をつかって遊んでたら、漫画のほうのアニメ化だった。ちょろっと1話だけ見てみましたけど、新宿プライベート・アイズのスプリガン版って感じですね(なんじゃ、そりゃ)。原作は80年代後半から90年代前半にかけて中高生だった男性の、実家の本棚を探せば必ず発掘される3大漫画のひとつーー残りはマスターキートンとサザンアイズーーで、陰キャのオタクに自己投影型のハマり方をさせた、罪深い作品であると言えましょう(夜中の台所で果物ナイフとテーブルナイフを逆手に持ってフーフー言いながら、教室にテロ組織が侵入してきたときのシミュレーションをしてましたよね?)。

 本作の提供するテンプレートとしては、16歳は主人公のオレか清楚なヒロイン、18歳は頼れる兄貴か妖艶なお姉さん、20歳以上はオッサンかオバハンで、30歳以上は世界の敵(ドント・トラスト・オーバー・サーティ!)で、40歳以上は完全な真空ーー「博士枠」でのみ老人の存在が許されるーーという世界観が挙げられるでしょう。この強固なフレームは長く少年漫画界を呪縛し続けましたが、かつての少年が漫画を卒業せず、中年を迎えてもそこに居座り続けた結果、いまや異世界転生ものーー中年の心を持った少年ーーへと変質してしまっています。女性の人生には「生物的な要請」としての抜本的なルールチェンジの段階がいくつか存在しますが、現代の男性は「社会的な要請」としてのそれを拒否し続けた結果、おぞましいことに「週刊少年ジャンプ」というルールだけで生涯を過ごせるようになってしまっているのです。

 話を個人的な体験へ戻しますと、スプリガンとは「自分で購入せず、他人の家で読む漫画」という適度な距離感を保っていました。当時、劇場アニメ化されたのを「世界のオオトモ」の名前にダマくらかされて見に行ったのですが、絵はキレイなのに脚本は支離滅裂で、セリフもなんだか聞き取りにくく、最後はCGくさい黄金の方舟が出てくるみたいな、スプリガンという作品の負の側面である「思春期への共感性羞恥」を誘発する仕上がりで、そこから完全に記憶の奥へと封印していました。今回の試聴でよみがえってきた忌まわしい記憶の数々を、いまは苦々しい思いで眺めております。あの頃、旧ソの強化人間とかスペツナズとかたくさん出てきたけど、実際はそれほど強いわけでもないことが判明したいま、次代の少年漫画ーー読み手は初老男性が中心ーーの仮想敵国はどこになんのかなー。ファンタジー世界でドラゴンとか魔王が相手ばっかりなのは、イヤだなー。転生してない16歳の少年が、令和の現実で大人を手玉に取る作品が、また出てこないかなー。

6話まで

 ネトフリ版スプリガン、配信分をすべて見終える。いやー、堪能しました。あらためてふりかえると、本作のシャドー・フォロワーたちーーあまりに深く影響を受けたため、それを公には表明していないクリエイターのことで、小鳥猊下にも多く存在するーーの作品群を映像化したものが、30年の時を経て原典へと還流しているような印象を持ちました。この場面って、あの作品のあれだけど、あの作品のあれって、じつはこの場面に影響を受けてたんじゃないの、みたいな。いつもの習い性で茶化して、「思春期への共感性羞恥を誘発する作品」みたいな書き方をしましたけど、6話までを通して見ると昨今の作品群と比べて、よっぽどまっとうな願望を描いているなあと感じました。「腕っぷしはめっぽう強く、学校の勉強はできないけれど、頭の回転は速く機転が利いて、あらゆる大物たちに一目おかれ、女性たちからは好意を寄せられ、世界を破滅から防いで人類を正しい方向へと導く、ひとかどの人物」って、青少年が抱く欲望としては「オレをイジメてパーティから追放したアイツらにチートスキルで復讐」みたいなものよりも、確実に「正しい」と思いますね。

 話が少しそれますけど、ループものや転生ものの醜さの正体って、つまるところ、生きることの本質である「一回性」を否定している点なのでしょう。どの作品も、ある決断にともなう後悔や失意など、「意志を示すこと」で生じた負の部分を解消することばかりに焦点が置かれている。人生において100%正しい決断などほぼありえず、自分自身ではないだれかのために、それを後悔ごと吞みこんで前向きなものへと変化させていこうという姿勢ーーときに気の遠くなるような主観時間を伴うーーこそが、多くのケースにおいて有効な処方箋であるのに、その事実をどこか歪めてしまう。加えて、ゲーム由来の「スキル」や「ステータス」なる概念を用いて、世界の広大さと複雑さを手に負える範囲に矮小化かつ単純化し、読み手にいつわりの理解と安心を与えている。ゲーム黎明期に乏しいロム容量の内側で現実を表現するために発明された要素ーードぎついTRPG者を招きよせそうな指摘ーーが、昨今ではより制約が少ないはずのジャンルにおいて、書き手の貧困なる想像力を補助するためだけに世界を狭める意図で逆輸入されているのは、なんとも皮肉なことです。スプリガンに代表されるかつての少年漫画は、広大な世界を広大なままに、未知の領域を未知のままに描いており、一方からもう一方へと至る変化が、やたら数だけは多い就職氷河期世代の加齢に由来するのだとしたら、そんなものに若者たちの未来を巻きこむなと考えてしまいます。

 さらなる脱線をしておくと、ファンガスの描く(この箇所、傍点付き)FGOの物語を私が愛するのは、それがかつての少年漫画と同じ系譜にあり、「一人の人生と人類の歴史の一回性」を高らかに肯定しているからでしょう。例えば、クリプターのリーダーがジーザスを依代として召喚され、いっしょにサバフェスで同人誌を作る話などはさぞかし面白くなるだろうと思いながら、「ファンガスは、絶対にそれをやらない」と強く信じられることが、FGOを続けている最後の理由でもあります(裏を返すと、そのラインが守られなくなれば、離れるという意味でもある)。

 ともあれ、ネトフリ版スプリガンは二期、三期と制作していただき、近年の「主流になるべきではない、中年どもの後悔を慰撫するためだけの作品群」を吹きとばして、2022年を中高生としてリアルタイムで生きる少年たちへと届くことを願っています。「レベル50のオマエがレベル99のオレに勝てるとでも?」なんて話、クソつまんねえだろ! もっとみんなで「精神が肉体を凌駕しはじめ」ようぜ! でも、ソメイヨシノだけはないわー、「お嬢様学校に通う霊媒体質で銃火器の扱いに長けた16歳の峰不二子」って、ナイナイ、それだけはないわー、ここだけリアリティ、まったくのゼロだわー。