猫を起こさないように
フォールガイ
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映画「フォール・ガイ」感想

 生粋の顔フェチである小生は、プロジェクト・ヘイル・メアリーを見てからというもの、ライアン・ゴスリングのご尊フェイスがまぶたの裏にチラついてしょうがないので、衝動的にネトフリでフォール・ガイを再生してしまった。マトリックスで幕を上げたVFX全盛時代が長く続いたあと、AIによる動画生成が急激に台頭してきている現在、生身によるスタントはまさに旧石器時代のシロモノで、この映画のように「スタントマンを主役にしたスタント映画」ぐらい場外のメタにふらないと、だれも劇場に足を運ばないし、そもそも若い世代には絵ヅラがカッたるくて、見ていられないだろうと推察する。「直下の爆発で空中に舞いあげられた車体が、なんども回転しながら地面に激突」したり、「高所での格闘アクションののち、顔面のドアップから地面にむかって小さくなりながら落下」したり、「背後の爆風にあおられて、両手をぐるぐる回しながら観客方向に主人公がジャンプ」したりするのをスローモーションで見ることに興奮するのは、もはや「初体験の相手がアンネ状態だったため、事後から経血に興奮をおぼえるようになった」の文脈における”興奮”と同じ種類の特殊性癖なのである(私がそうだと言っているわけではない)。

 フォール・ガイがどういう映画かと問われれば、海外では検索候補に”burst into laughter”と表示され、国内でのそれは「つまらない」が第一候補になるたぐいの、いわゆる「モンティ・パイソン系」の作品だと答えることができよう。本邦のホニャララ・グランプリ的な漫才とは真逆の位置にある笑いになっており、「執拗な繰り返し」「会話の奇妙な間」「一瞬のアブノーマル」をすべて真顔の演技で行うことが特徴で、「笑いの洋の東西」という観点から思考を深めれば、博論の一本も書けるレベルの文化的な含意をはらんでいるのである。ご存知のとおり、小鳥猊下はサシャ・バロン・コーエンを偏愛し、ディクテーターに爆笑できる逸材であるからして、前半の1時間はキッチリとチューニングをあわせて、この荒唐無稽なコメディを大いに楽しんだのだった。しかしながら、後半は複数のライターによる合議制のシナリオ会議でもはじまったのかと疑うほど、冒頭のフリーフォールにまでさかのぼって生真面目に伏線の回収をはじめだし、スタントそのものを物語の解決へと接続させて、こじんまりと優等生的に終わってしまった。おそらく極少だろう、最後まで優生的なモンティ・パイソンをつらぬいてほしかった人物には大いに不満を残したが、ライアン・ゴスリングの名前につられて劇場に来るていどの客層(オマエが言うな!)には、これで正解なのだろうと思う。

 だが、スタッフロールにあわせて「本編スタントの裏側およびNG集」が流れだしたとたん、プロジェクトA2のエンディングが脳内に併走して再生されはじめ、我が胸と目頭は自然と熱くなったのであった。斜陽産業であるところのスタントマンにあかつきの光をあてるフォール・ガイ、ジャッキー・チェンが建物の屋上から商店のせりだしルーフを突き破って落下するのに興奮をおぼえた異常性癖者の貴様らへ、nWoが自信をもって、ここにオススメするものである!