猫を起こさないように
ピータージャクソン
ピータージャクソン

海外ドラマ「力の指輪」感想(シーズン1)

第1話・第2話

 タイムラインが悪い意味で沸騰している「力の指輪」をようやく見始めた。「三十年前に原作をすべて読んでいるが、ほぼ内容を忘れてしまっている」人物の放言としてお聞きください。黒い肌のエルフについてですが、”fair skin”を「色白」以外の意味で解釈することは、かなりの無理筋でしょう。第ニ紀はいわゆる「神代の終わり」なので、種族間の交流や交雑も進んでいない、旧約聖書で言うならバベル前後の物語です。彼のバックグラウンドとして「上エルフと南方人の交雑」が今後、描かれないとするなら、やはり原作ではなく政治的正しさのみに目を向けた配役だと結論づけざるをえません。議論を撹乱するためにわざと逆張りで言いますが、肌の色より気になったのは、彼の髪型がスポーツ刈りなところです。エルフのトレードマークと言えば豊かな毛量であり、彼がストレートパーマをかけた黒髪をファッファーと風になびかせていれば、まだ違和感は少なかったでしょう。え、それだと天パの人が傷つきませんか、だって? 彼をアフロエルフにしなかったことに、制作者の差別意識を感じます? (受肉した人工知能の憂い顔で)資本主義の市場をフルオープンにしておくための方便であるところの「多様性」とやらは、人類にはまだ早すぎたのかもしれませんね……。なに、第三紀のエルロンド卿の富士額を見てくださいよ、これがエルフの毛量についての反証です、だと? バカモノ! それはヒューゴ・ウィーヴィングの身体的特徴によるものであり、この令和の御世にゾッとするような差別的発言であるわ!

 話がだいぶそれましたが、ベター・コール・ソウルが証明してみせたように、よくできた前日譚は本編をも称揚しながら底抜けに面白くなっていくものですが、「力の指輪」はピーター・ジャクソン版(もう20年前ですって!)に接続していく前提で作られているんでしょうか。関与を否定する記事は読みましたけど、引きの空撮ショットにはじまって、画面の作り方は完全にピーター・ジャクソン版を下敷きにしているように見えます。トールキン財団の孫だかがボロクソ言ってるのは知ってますけど、いま指輪物語と聞いてあのビジュアル以外が頭に浮かぶ人なんて、世界中さがしてもだれもいないでしょ。埃をかぶった古典作品を、最高のビジュアル化で巨大ファンタジーIPとして現代に蘇らせ、それがその後の作品群に多大な影響を与え続ける……その偉大な功績が傲慢さへとつながり、ホビットを3部作に改悪した「ギークの逆襲」はまだ許していませんが、かえすがえすもゲド戦記のことは残念でなりません(急転直下の鬱エンド)。

 ホビット3部作を思いだすことで、「力の指輪」にピーター・ジャクソンが関わらなくてよかったと、考え直しました。
映画「ホビット」感想
映画「ホビット2」感想
映画「ホビット3」感想

第3話

 力の指輪、第3話を見る。いよいよ「ガラドリエルの冒険」みたいな副題が必要になってきたし、ゴールデン・カムイ風に言うなら「この奥方、血の気が多すぎる」であり、グラップラー刃牙風に言うなら「コンマ1秒あれば、この広間の全員を2回ずつ殺せる」といった感じです。スポーツ刈りのエルフが、リリーフではなく先発投手であることもわかってきて、出ずっぱりのわりには演技が一本調子で魅力に欠けるのは、ちょっと問題ですねー。表情の作り方がエルフとしては、どうにも粗野すぎるように思います。原因としては、他の種族を心の底から見下してる感ーー奥方の傲慢な侮蔑っぷりを見ならってほしいーーが無いところでしょうねー、これもポリコレの悪い影響じゃないといいなー。ジョン・ボイエガのときにも言いましたけど、キャスティングをしたならしたで、厳しくエルフ族の演技指導をして、ダメな演技にはキチンとリテイクを出すべきだと思いますよ。差別と受けとられるのを怖がって、撮影現場で腫れ物に触るようになってませんか? 本当にだいじょうぶ? ガラスの天井があらゆる爆撃を防ぐ無敵のバリアーになってない?

 制作インタビューを読むと、「時代にあうよう多様性に富んだキャスティングにする。これは全員一致ですぐに決まりました」とか言っている。まあ、そちらのお国の内情なんで別にどうでもいいんですけど、この件は「何の議論もなく、自動的に決まる」ことが問題なんじゃないですかね。みんな、差別だと叫ばれて地位を危うくしたくないから、空気を読んで忖度して、会議室の中にいる象の例えのように、大急ぎでこの件に関する議事を進行しただろうことが、ありありと伝わってきます。これも繰り返し言ってますけど、メイス・ウィンドゥの肌の色や毛量について、ファンの間で話題になりましたか? なりませんでしたよね? あれは白黒以前に、文句なしにカッコいい最強のジェダイその人だったからですよ!

 今後、スポーツ刈りエルフの演技が一皮むけーー差別用語じゃない……よね?ーーて、ただその存在感のみで批判者の妄言を圧倒するようになってくれることを、心から願っています。でもやっぱり、流浪の冒険者が頻繁に手入れの必要なスポーツ刈りって、無理があるんじゃないのかなー。

第5話

 力の指輪、第5話を見る。毎回、ガラドリエルのパートがいちばん面白い。ロード・オブ・ザ・リング(ス)でフロドに指輪の譲渡を迫られてギンギラに輝くガラドリエルが「魔法の奥方」だとするなら、本作での血気さかんな若エルフは「物理の奥方」であると言えましょう。「剣は腕ではなく、足で使うのだ」みたいな台詞には、地上最強の息子の顔で「剣術には蹴り技がない……そんなふうに考えていた時期が俺にもありました」などと、思わずつぶやいてしまいました。

 しかしながら、「奥方にひと太刀でも浴びせた者は、大尉に昇進だ!」との号令から始まった、市場でのはた迷惑な大乱闘をニヤニヤながめながら「天パで茶色い方が大尉になるわ……」などとニュータイプごっこをしていたら、本当にその通りの展開だったのには真顔にならざるをえませんでした。ポリコレって、第三の新しい価値をフィクションに付け加えるのではなく、白人が主人公である従来の物語とネガポジの展開にするだけで、物語的な必然をスッとばすのがつまらない理由なんですよねー。

 それにしても、天パのツイートをしたら天パのキャラが登場するなんて、鍵アカの関係者がフォロワー内にひそんでいるにちがいありません(ぐるぐる目で)。

第8話

 力の指輪シーズン1、最終話まで見る。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というフレーズが脳裏に何度もリフレインする展開で、特にピーター・ジャクソン版で徹頭徹尾「非人間的な虚空の裂け目」として表現されてきたサウロンを受肉(笑)させてしまったことは、たとえば軍艦を擬人化するレベルの大問題じゃないでしょうか。サウロンが「対話の不可能な滅びの象徴」だったからこそ、「最も弱き生活者」であるホビット族の勇気がテーマとして際立ったわけで、「支配と安寧は同じことではないか?」みたいな中2病的意思疎通ができる安易なワルモノに彼をスケールダウンさせてしまったのは、きわめて悪手であると感じました。

 余談ながら、「語りえぬもの」をウッカリ語りきってしまった作品にDC版ジョーカーがあると思うんですけど、あっちはホアキン・フェニックスの怪演で無理矢理に成立させた内容で、本作の俳優にそれができるかと問われれば、端正であるがゆえにあまりに歪さがなさすぎ、「人の形をしたサウロン」の表現には及ばないと答えるでしょう(奥方の女優なら、あるいは……)。

 あと、荒海の小舟の上で左が晴天、右が暗雲というあからさまな構図を使って「光の公女と闇の王子、反発しながらも引かれあう2人の命運やいかに?」みたいな弁師のがなり声が聞こえそうな、西洋絵画を思わせる二項対立の場面ですけど、大トールキンが見たら怒りのあまり全身の毛穴から血をふいて憤死するんじゃないでしょうか。シンエヴァ以降ーーとあえて表現しますーーのフィクションにおいて、特に顕著となった「キャラとテーマが同化して、世界の問題がその関係性へ収束する」というストーリーテリングが、ここにも色濃く表れているように思います。

 それと、あんまりポリコレポリコレ騒がれすぎたせいで、「白人どうしの争いに巻きこまれる有色人種」みたいな意図せぬ見立てが、サウロンを受肉(笑)させたこととあいまって、最終話を通じて付与されちゃってません? しかも、有色人種を悪役に配することは「絶対に」できないがゆえの、消去法による消極的な漂着にしか見えません。シーズン1最大のキモである指輪の鋳造シーンも妙に理屈っぽくて、ピーター・ジャクソン版で「一つの指輪」が持っていた得体の知れぬ神秘性が雲散霧消しちゃってるしなー。

 ともあれ、シーズン2以降をロード・オブ・ザ・リングスの前日譚として見ることは、もうできないだろうと感じています。

映画「ホビット3」感想

 いくど時計を見返しても、びっくりするほど針の進まない二時間半。そのうち一時間は、一言の台詞さえない。俺様の心がわずかにエレクチオンしたのは冒頭のスマウグ討伐シークエンスだけで、ファンタジー的想像力と美術が前三部作にてほとんど使い果たされていたことを確認した後は、3DアクションゲームのQTEを延々と見せられ続けてるような気分になった。

 以前ヴィゴ・モーテンセンが、「旅の仲間ではちゃんとロケハンしてたのに、二作目からCGの比重がどんどん増えていった。監督は役者の演技を軽く見てると思う」みたいな批判をするのを見かけたが、まさにその言葉の通り、ピーター・ジャクソンの悪い側面が今作ではすべて出てしまっているように思う。要は、徹頭徹尾のポストプロダクション頼みが透けて見えるのだ。「役者どもは、しかめ面のアップだけ多めに撮影しとけ。あとは全部スタジオでなんとか見れるようにするから」みたいな現場の雰囲気、言えば人間の芝居には興味が無い感じ、つまり監督の本来の出自であるギーク臭がぷんぷん漂ってくる。特に象徴的なのが終盤、マーティン・フリーマンとイアン・マッケランが夕日を背にならんで腰かけるシーンであり、これは役者の演技や存在感をぜんぶポストプロダクションが塗りつぶしていて、本当にひどいとしか言いようがない仕上りだった。

 タムリエルとかいうオリキャラ(おそらくエメラルドドラゴンへのオマージュ)とドワーフとのロマンスとか、スーパーマリオと化したレゴラスの母への執着とか、監督の混ぜこんだオリジナル要素はことごとく原作のエルフが持つ高潔さを台無しにしている。前三部作は偉大なるトールキンへ膝をついて作られている感じがひしひしと伝わってきたものだ。しかし、このホビット新三部作は、ピーター・ジャクソン本人が原作者になりかわってふんぞり返る様子しか見えてこない。こんな水増しの完結編を見せられるくらいなら、当初の予定通りの二部作で充分であった。虐げられてきたギークがいったん権威と化せば、かようにふんぷんたる臭気を垂れ流すようになるという事実を、諸君は他山の石とせよ。

映画「ホビット2」感想

 ホビットの冒険における最重要の伏線である「暗闇の謎かけ」を前作で消化し、本作ではいよいよピーター・ジャクソンが他ならぬ「自分の」ロード・オブ・ザ・リングスにつながる前日譚として、好き勝手に語り出した感がある。「キャラの立ってない髭面ばかりじゃ、画面が持たねえな」とばかりに原作では未登場のレゴラスを登場させ、さらには原作には存在しないタウリエルなる森エルフをねじこんできたばかりか、生物学的に交配のできない設定(だよね?)のドワーフと胸焼けのするロマンスを展開させる始末である。

 ここまで水増しして三部作に仕立てようとするのは、本作をスター・ウォーズよろしく、同じ構成で異なる結末を持った、相似形を成すプレ・トリロジーに位置づけたいからなのは、もはや誰の目にも明白であろう。ロード・オブ・ザ・リングスのときに感じた原作への深い敬意はどこへやら、自分以外はもはや誰も指輪物語の映像化へ手を出せないことを自覚しての大狼藉、諸君の言葉で言うならば原作レイプ、それも衆人環視のまっただ中で見られていることに興奮を促進された大強姦である。面白く無いかと問われれば、面白い。しかしそれは、画面作りやクリーチャーの造形やアクションのアイデアや、ピーター・ジャクソンの持つ資質に依拠した部分が面白いのであって、もはやトールキンの原作とは関係ない次元の面白さだと言えよう。

 そして、前トリロジーと無理やり物語構成を似せにかかっている弊害の最たるものとして、アラゴルンのポジションにあるトーリンの描写の劣化が挙げられるだろう。児童文学の原作では一種のユーモアとして機能していた彼のアホさ、身勝手さ、カリスマ性の無さが、むしろ欠点として観客に強調されてしまっているのは、トールキン・ファンとして非常に残念である。

 あと、オーランド・ブルーム、相変わらずこの無表情のエル公は弓矢を近接格闘武器みたいに使うな、と思った。それと、サウロンのシルエットがまんまゼットンなのはギレルモ・デル・トロのスケッチが残ってるのかな、と思った。それと、スマウグはあんな口の形をしているのに、ティー・エイチの発音がうまいな、と思った。