猫を起こさないように
ビートルズ
ビートルズ

映画「ヒトvsハチ」感想

 ネトフリでローワン・アトキンソンのヒトvsハチ、見る。キリスト、ビートルズに続き、その誕生以来、年齢・性別・人種・国籍・言語を超えて、ネット動画の誇大タイトルどころではない、文字通り「全人類を楽しませた」のがMr.ビーンであり、本作は言わば、そのスーパースターのカムバック公演なのだ。「ビルドアップがダルいな」とか、「話のオチが小賢しい気がする」とか、「10分9本じゃなくて90分1本でいいんじゃねえの」とか感想未満の印象を述べるのは、それこそ「キリストが異性愛者なので傷つきました」ぐらいの難クセであり、まさに抱腹絶倒、ひさしぶりに涙が出るほど笑わせてもらった。オックスフォード出身の英才が演じる、このビーン型のキャラクターは、現代においてたぶん正式な診断名(アスペルガー?)がつく特性の持ち主で、いったんひとつのこだわりが生じると、他のすべてが見えなくなってしまう。グッタリした犬を床に放り投げて「ゴトッ」と音がする場面などに狂笑しながら、やがて自分の内側にも同じ性質が潜んでいることに気づかされるのである。

 休日の朝、ディアブロ・イモータルのプレイに本腰を入れて取りかかるも、2時間もしないうちに、もうゲーム内ですることがない。デイリーでクエストを規定数こなし、ウィークリーで1、2回レジェンダリー宝石のガチャを引く。パラゴンレベルは毎日2ほど上がるから、進捗の感触がないわけではないし、はるか遠方にうっすら目的地も見えている。けれど、それは日本列島を徒歩にて縦断するような道程であり、しかも重課金者は初日にプライベートジェットでゴールを済ませているのだ。エンドゲームの全容が俯瞰できてしまったあと、ディアブロ・イモータルのために予定をすべて空けた休日が残された。そこで、「そういえば、艦これのイベント海域を3の3で放置してたな……」と思い出してしまったのが運の尽き。ゲージを破壊できず、友軍の到着を待っていたくせに、「支援艦隊と基地航空がキチンと仕事をして」「通称・ながもんタッチが敵旗艦に当たって」「夜戦までに4隻以上が中大破を逃れ」「魚雷すべてが敵旗艦にクリティカルする」という奇跡を、なぜ一瞬でも信じることができたのか。頭ではわかっているのに、いったん着手するともう身をもぎ離すことができない。

 連合艦隊の全隻が幾度も中大破で帰港し、数週間をかけて再備蓄したバケツと資源がおそろしい勢いで虚空に消滅していく。攻略情報を検索して見かけるクリア報告に、得体のしれぬ焦燥が高まっていく。これはおそらく、独身女性が友人から結婚や出産のハガキを受け取るときと同じ感情だ。「たかがゲームなのに、みんなふつうにこなしているのに、なんで私はちゃんとできないんだろう!」という己への失望と、世界への絶望。イベント海域のプレイ中には、私の人格の中で最も低劣な部分が表層へと浮かびあがる。激情、狂乱、絶叫のうちに、バック・グラウンド・ビジュアルとしてパリピ孔明を見終え、ヒトvsハチの配信に気づいて、乱暴に再生をはじめる。はたして、そこには、私がいた。

 自然とマウスから手が離れ、私が私の痴態を笑っているうちに、全身を包んでいた怖いような執着は、いつの間にか消えていた。艦これを走らせていたブラウザを終了しながら、私はこうつぶやく。ありがとう、ローワン・アトキンソン。狭量な時代がこの作品に何を言おうと、あなたは私にとって、永遠のジーザス・クライスト・スーパースターだ。

映画「ジョン・レノン・ニューヨーク」感想

 これまた何年か、シアターで棚ざらしになっていたジョン・レノン・ニューヨーク見る。エイト・デイズ・ア・ウィークがイマジンの前半部分の拡大版だとしたら、こちらは後半部分のそれ。構成としては、ジョンの死を受けて「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」から「イマジン」「イン・マイ・ライフ」と畳みかけるイマジンの方がずっと好みです(少年期のショーンが父の丸眼鏡をかけて東京バビロンみたいな肩幅の服でインタビューに答える激萌え映像もあるし)。けれど、大まかな流れとしてだけ把握していたビートルズ解散後のジョン・レノンの軌跡が、関係者インタビューを通じて私の中でより精彩になったのは、僥倖でした。ヨーコから追い出されたジョンが、ロサンゼルスで酒びたりの生活となった後、狂乱する群衆の中へ「奴らは俺を欲しがってる」と言いながら自暴自棄に飛び込んでいった話や、関係者による「彼は本当に泥酔すると必ず『ヨーコ!』と叫んだ」という証言には、思わず涙がにじみました。

 オノ・ヨーコって、ビートルズ・ファンにとっては解散の引き金となった、エヴァで言うところの碇ユイばりの魔女で、むしろその存在は疎ましく語られることの方が多いように思います。しかし、泥酔してすべての理性のタガが外れたあげく湧き上がる「ヨーコ!」という叫びに、ジョンは真実に彼女を愛していたことが伝わってきました。若い時分のオノ・ヨーコのことを言えば、英語の発音のマネがうまい典型的な帰国子女(財閥の御令嬢)って感じで、よくよく聞いてみると話の中身はカラッポなんですよ。ジョンとマスコミの前に出るときも、基本的に相づちか、直前のジョンの言葉をオウム返しすることに終始している。共通の友人たちの前でグルーピーとファックして恥をかかされたことが、ジョンを追い出した理由みたいに話していましたけど、巨大なカリスマとペアで語られ続けることによるアイデンティティの衰弱も大きかったと思うんですよね。じっさい、彼と別れたあとの活動が彼女に自立と主体性を回復させ、それらをあらためて確立したからこそ、またヨリを戻すことができたのでしょう。その後、誕生日に米国の永住権を手に入れ、二人目の息子を同じ日に授かって、そこから父親として「人間になろうとする」ジョンの決意と生活は、涙なしにみることはできません。

 最近、葬送のフリーレンを読んだんですけど、高齢化するドラクエ世代に向けた、遠くない己の死を追想する物語だと感じました。淡々とした筆致で紡がれる美しい記憶のストーリーは、しかし次第に変質していきます。淡々とした筆致は、取り扱うテーマを表現するための手法ではなく、作画担当の個性であることが判明し、ハンターハンターの念を連想させる魔力の描写など、次第に原作者が富樫先生フォロワーであることを隠さなくなっていきます。「勇者の死から29年後」から時間が動かなくなり始めているのも気になります。このト書きが30年、40年と動いていく物語だと思っていました。「勇者のときには満足のいく看取りができなかったフリーレンが、新しい仲間たちをーー新しい仲間がフリーレンを、でもいいーー今度こそは正しく看取る」という岩のように静かな成長譚だと思っていたのに、週刊少年ジャンプ的なバトル漫画に内容がシフトし始めたのは気にかかります。「葬送の」が魔王軍の幹部を殺しまくったゆえの二つ名として作中に語られたのには、思わず「えー!」と声が出ました。

 なぜ唐突に葬送のフリーレンの話を始めたかといえば、ジョンの亡くなった翌日、オノ・ヨーコとプロデューサーがスタジオに集まって、残された曲や録音を聞いて故人を追悼するエピソードが出てきたからでした。「どのように記憶に残るか?」という問題は、ある程度まで人間社会に関わった者ならば、大なり小なり、だれもが抱くようになるものなのかもしれません。曲はもちろんのこと、大量の写真や映像、そしてスタジオ内のバンドに指示を出す声までが録音として残されていて、それらを見聞きすれば、ジョン・レノンという個人は、いつでも我々の目の前へ鮮やかによみがえります。テキストしか表現方法を持たない私にとって、どこか頭の片隅に栗本薫(中島梓)の残り方があるのだと思います。小説ではなく、彼女が本人として登場するエッセイ群のほうにそれを強く感じるのです。特に小説道場は、35年前に始まり、25年前に幕を閉じ、道場主が亡くなって10年以上が経ち、門弟に故人もいるのに、紙面を開いた瞬間、すべてがリアルタイムで行われている鮮やかさで、眼前によみがえります。まるでみんな、生きているかのようです。私がいまだにインターネットでテキストを書いているのは、このたぐいの不滅を求めているからのような気がしてなりません。データは10年、紙は1,000年、石は100,000年、SNSのサービスを提供する会社には、せめて100年を長らえて、次の世代へと私たちの記憶を運んでほしいものです。

 そして、ジョン・レノンがたったの40歳で亡くなったのだという事実と、彼が残した膨大なクリエーションの足跡に、あらためて打ちのめされる思いがしました。

映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪)

 ネトフリでエイト・デイズ・ア・ウィーク見る。ビートルズのドキュメンタリーとしては、イマジンを擦り切れるほど(もはや黒電話とかフロッピーディスクみたいな表現)リピッてるんですけど、あっちはジョン・レノン中心の構成なので、解散後のオノ・ヨーコとの生活にかなり尺が割かれてるんですよね。本作はライブ・コンサートをやっていたアイドル時代に多くの時間を使っていて、とても新鮮な気持ちで見ることができました。シガニー・ウィーバーとか、少女の頃に彼らの熱烈なファンだった有名人たちのインタビューも挿入されてて、ウーピー・ゴールドバーグ(ガイナン!)が登場したのは、嬉しい驚きでした。母親がサプライズでチケットを押さえてくれていた話と、”They are colorless.”とため息みたいに言う様子が強く印象に残りました。ビートルズって、あれだけ豊かで多彩な音楽活動を繰り広げながら、デビューから解散まで実質9年くらいしかないんですよね。ちなみに、シンエヴァの制作期間も同じ9年で、両者の間に横たわる長大なクリエイティブの格差には、もはや愕然とするばかりです(鷺巣先生、かわいそう。まあ、特撮テーマの再録音以外はいっさい口出ししないし、ジャブジャブ無尽蔵にお金を使わせてくれる都合のいいパトロンぐらいにしか思ってないのかもしれませんけど!)。

 ビートルズに話を戻しますと、スーツ姿にマッシュルーム・カットで、互いに区別のつかない4人のイギリスの若者が、まったく異なる個性と見かけを持った大人の男性へとメタモルフォーゼしながら劇的に楽曲を変化させていくその過程は、まさに「創造の魔法」という表現がピッタリと当てはまるでしょう。そして、アイドル時代の記録映像は白黒だったのが、スタジオ録音へと移行する時期からカラーへと転じるのも、撮影技術の進化と並走したまったくの偶然ながら、「サナギから羽化した」ような印象をさらに補強しています。もしジョン・レノンが凶弾に倒れなかったら、再結成した四人がどんな音楽を作ったのかは、ファンたちの間にいつまでもたくましい想像(僕はビートルズ!)をかきたてます。シンエヴァみたいな自己模倣のサンプリング集と化してしまった可能性もゼロではないとうそぶきつつも、想像の中でだけ楽しめる点においては、じつに優雅な遊びだと言えるでしょう。エヴァンゲリオンに関しては、いまだ作り手が存命であり、海外メディアによる監督インタビューから判断しても、さらに「どん底」の底が開く可能性が残されている絶望的な状況なのですから!

 再びビートルズに話を戻しますと、有名なルーフトップ・コンサートが本作の締めとなるのですが、四人が屋上で「ドント・レット・ミー・ダウン」ーー「甘き死よ、来たれ」のサビは、この反転だと信じて疑いませんーーを演奏する姿には、なにか神々しいものさえ放たれているように感じます。以前、スーパーマン・リターンズの感想で「冒頭、スーパーマンが飛行機を不時着させるスタジアムの観客のひとりであれたら」と述懐したことがありました。もし立ち会うことができたら、どんな惨めな人生が後に残されていても、その瞬間を反芻するだけで生きていけるイベントがこの世には存在し、サヴィル・ロウの街路からアップル・コアの屋上を見上げる通行人であれれば、それだけでこの尊大な自意識を死ぬまで食餌していけただろうと夢想して止みません。そして私の生きる時代では、そこへもっとも近かったはずのシンエヴァ公開初日・初回の劇場が、そこからもっとも遠い場所だったというシンプルな事実に対する深い失望が、いつまでも、いつまでも、いつまでも、胸のうちから消えないのです。

映画「ジョジョ・ラビット」感想

 ナチスとヒトラーをあつかった先行作品はすでに山ほど存在しており、それぞれがデリケートな題材に対して何か特別な視点や切り口を与えようと苦慮していた。ひるがえって本作はと言えば新しいアイデアは皆無であり、この題材に改めて挑戦した意義を感じることはできなかった。昔からの監督のファンだったりとか、スター・ウォーズ周辺の噂が気になる向きでなければ、ナチス政権下の市井を知るためにわざわざこの作品を選ぶ必要はないだろう。スーパーマリオのような天地人の横から構図、オブリビオンのごときバストアップを交互に切り返す会話、そして鮮やかな(ときにドぎつい)色づかい、この3つがかろうじて監督の持ち味と呼べるもので、脚本にいたっては映画業界を目指す少し意識の高い学生が書きそうな中身で小賢しさにあふれており、同テーマの作品群に比べてもひどく薄味である。オープニングがビートルズ・ナンバーで、私などのオールド・ファンはゲット・バックとか同バンドの楽曲を展開にからめるのではないかと一瞬だけ期待させられたが、ヒトラーへの熱狂をビートルズへのそれと重ねあわせて、サラリと大衆批判を行うための小道具に終わっていた。これは一例に過ぎず、指摘しだすとキリがないが、全編にわたって底の浅い意図によるしゃらくさい演出に満ちあふれているのである。監督自身が演じているイマジナリー・フレンドのアドルフもあとからとってつけた感が強くストーリーから浮いていて、狂言回しにすらなっていない。あと、アベンジャーズ女優から脱却したいスカーレット・ヨハンソンの、演技派をねらったわざとらしい演技もひどく鼻につく。暖炉の炭を顔に塗って出征中の父親のふりをする場面なんて、痛々しくて画面を正視できなかったほどだ。ただ、ふだんまったく映画を見ないようなライト層や、アメリとか好きな頭の弱い女子がベタ褒めしそうな雰囲気だけは漂っていると思いました(もちろん、アメリは傑作ですよ)。しかしながら、この作品に本当に必要だったのはそんなファッション感ではなく、ファッショ感だったのではないでしょうか……ドヤッ!

 え、タイカ・ワイティティ、スター・ウォーズ新シリーズの監督に決まったの? すいません、ライアン・ジョンソンのときと同じく、私にはもうすでに惨劇の未来しか見えません。そして、デ銭の好む監督像も明らかになってきたように思います。絵作りは個性的だけど作家性は薄く、いくらでも後から味付けを変更させてくれる人物です。脚本にクチバシをつっこんでも絵作りに触らなければ文句いわなそうな本作の監督がまさにそれ。どんなにヘタクソでもイビツでも、他者によるわずかの改変をも絶対的に拒絶するのが作家性で、ハゲの御大とかカントク(Cunt-Q)とか、目の前で自分の作品を「正しく」修正なんかされようものなら、即座に全力で殺しにいくという確信があります。ジョージ・ルーカスもまさにそれ。