猫を起こさないように
ドラクエ3
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ゲーム「ドラクエ10オフライン」感想

 ドラクエ3リメイク、ついにはmod入りPC版で全トロフィーを獲得する。ここまでやって、まだドラクエ熱は冷めやらず、ネクサスに日参してはゲームバランスをフルチューンするmodの登場を期待したり、突然のバージョンアップによるオリジナルモード搭載や、完全版商法による「S」の発表がないかを確認していたが、どれもむなしく終わってしまった。3リメイクの出来があまりにひどかったため、11の売り上げが急に伸びるという現象があるようで、渇いた者に海水をあたえるがごとく、「ドラクエ熱のほてり」に苦しむ仲間が一定数いるらしいことがわかり、少しなぐさめられる感じはあった。しかしながら、11はPS4版の無印、3DS版、PC版のSとハードを変えながら3回クリアしており、いまさら手をだす気にはなれなかった。「ならば、PS5かPCで遊べる過去のナンバリングを」と検索して驚いたことに、456789のすべて、現役ハードでプレイできる状況にないことが判明したのだった。すなわち、ドラクエから剥いだ生皮をかぶったニセモノである3リメイクが、今後の世代にとってのファースト・チョイスとなるわけで、巨大船ドラゴンクエストが歴史の海中へと沈没していく様を、まざまざと眼前に幻視させられたのである。インタビューにおける「ドラクエ3のリメイクを失敗させたら、ゲーム業界にはいられない」とのヘラヘラした軽口を徹底的に追及し、この制作チーフにはしっかりと詰め腹を切らせていただきたい。

 長い前置きとなってしまったが、3リメイクをいくら周回してもいやせないドラクエへの渇きをしずめる手段として、なんとドラクエ10オフラインの購入にいたったのであった。オンライン版はローンチ直後の混乱期に、趣味である人間観察(笑)のため、バージョン1の後半ぐらいまでをログインし、以後10年はまったくふれていない。当時、バトル以外にロクなコンテンツはなく、メタルスライムを求めてキュララナ海岸で延々と「ひらめきタイガー」していたのが、アストルティアにおける最後の記憶である。オフライン版は女勇者と魔王にまつわる冒険譚を描くバージョン2までがリリースされており、おそらく冒険者の獲得に失敗した場合でも、ここまでは語りきろうと想定された区切りなので、これを機会にアンルシアなる人気キャラクターをじっさいに見ておくのもよかろうと考えたのだった。このオフライン版、じつはたいへんに評判が悪く、正規のナンバリングの中でも売り上げは最低とのことだが、タネを明かせばなんのことはない、グッツグツに煮つまったオンライン版の10年選手たちが、サービス終了への恐怖から過剰に反応して、各地の掲示板やSNSで盛大なネガティブ・キャンペーンを行ったせいである。FF11でも経験したことだが、ゲームの中で電子的にしか存在しないにもかかわらず、既得権を守ろうとする側の人間の精神はどこまでも醜悪になれるものなのだ。現在のドラクエ10オンラインをチラとながめると、モンスターハンター・フロンティアの末期と同じ臭いがしている。顕著なのは客層の悪さを反映してのことか、かつて暴走族のノボリや特攻服に刺繍され、中卒ヤンキーが息子の名前に使いそうな漢字が、コンテンツに多用されるようになっている点だろう。なにも見ずに近似した例えをだすならば、「聖煌龍・怒羅業蘊」みたいな表記が醸成する、アストルティアならぬアトモスフィアである。ドラクエの本質とは、「ひらがなとカタカナによるハイセンスな固有名詞」であり、断じて珍走団のチーム名のようなものではない。

 あらためてオフライン版をさわって感じたのは、10は9のシステムを下敷きに、そのアップグレードを企図して作られたゲームだということである。ドラクエ構文を守りながらもハイテンションに饒舌なジェネリック・ホーリー遊児のテキストは当時、新しいドラクエ世界の到来と広がりを感じさせたものだが、このライターたちが10オンラインに幽閉される結果となってしまったのは、同シリーズにとって大きな損失だったのではないかと思う。本作をプレイしていると、ドラクエ世界に底流しているのは「陽気さ」「コミカルさ」「すこしエッチ」であり、3リメイクのまとっていた「陰気さ」「生真面目さ」「むっつりスケベ」の空気感は、あらためてシリーズ愛に欠けた、解釈ちがいとしか言いようのないものであったことがわかる。このオフライン版では、オンライン由来の膨大なサブクエストと豊富なエンドコンテンツによって、自キャラの能力はどんどんインフレしていくのだが、敵の強さもそれにあわせたエスカレーションをともなっていて、探索にせよレベリングにせよ、いつまでもどこまでも底ぬけに楽しい。そして、3リメイクに感じていた小さな違和感やチグハグさの正体は、10からの仕様のいくつかを無思考に接ぎ木したゆえであることも見えてきた。つくづく残念なのは、過去にこれだけの正しい教本がありながら、どうやって「伝説」の再構築に失敗できたのか、個人の功名心ーー古くさいカビの生えたゲームを、オレのオリジナル計算式でよみがえらせてやるぜ!ーー以外に理由があるなら、どうか教えてほしい。

 そねみフェイスでまた脱線してしまったが、オンラインではNPCあつかいだった各国の魅力的なサブキャラたちーーオンリー・フウラ・ウィンズ!ーーを、仲間として操作できるのはうれしい変更で、意味不明の「リアルタイム押し相撲」から11をベースとしたターン制に回帰しているのも、反射神経のおとろえた中年美少女には、たいへんに具合がよろしい。全体的に「大鍋で大量の具材とともにドラクエのエキスをじっくりコトコト煮つめたもの」になっていて、11をたっぷり堪能したあとに3リメイクへ絶望し、ドラクエのポテンシャルを「過去の思い出の美化」以上に信じたいと思っている向きには、10オフラインへふれることを強くオススメしておく(オンラインは客層が地元の中学校レベルなので、高等教育を受けた者が近よることは推奨できない)。なんとなれば、ゲーム畑以外から来たスクエニの執行役員が、「オンをオフにしても売れない」ことを学習してしまったら、半生を通じた悲願であるFF11オフラインの実現がまた一歩、遠のいてしまうからである。最後に、本作の数少ない不満点をあげておくと、カメラの上下動が禁止されていることであり、これはつたない描画性能しか持たないくせに業界でハバをきかせている、あのいまいましいスitchyにあわせての制限なのである。海外ゲームの容量が数百ギガを越えることもまれではない令和の御代において、マルチプラットフォームに含めざるをえない低スペックなスitchyの存在が、本邦のゲーム群を不必要にダウングレードさせ、不当に海外からの評価を下げさせていることは、厳然たる事実として存在する。この悪性腫瘍を切除することこそ、本邦における真の次世代ゲームの萌芽につながると指摘して、いい加減にドラクエへの言及を止めることとする。

雑文「THE ODORU and DQ3 LEGEND ALREADY DIED」(近況報告2024.11.28)

 映画「室井慎次・敗れざる者」感想
 ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想

 ようやく室井慎次・後編を劇場で見る。ほとんど邦画を見ないため、長く動かなかったnWoオールタイム・ワーストの1位が陥落し、ついに本作へとってかわられたのであった。予告編で観客へ錯誤を起こさせるために挿入された、旧エヴァ・イコール・実相寺アングルっぽい特殊部隊の突入シークエンスはほんの数分だけで、残りの時間はすべて、前編で語り終えたはずの3人の里子に関する話を延々とやる。詳細に書きだすとキリがないため、「北の国から」で例えておくと、「東京へ行く息子に父親が手わたした一万円札に、畑の泥がついている」みたいな、”お涙ちょうだい”昭和小話のパッチワークになっているのである。わざわざ劇場版1と2の犯人たちを引っぱりだしてきたのだから、前編は後編で起こる事件のビルドアップに過ぎず、東北に端を発した小さなできごとが、東京の警視庁を巻きこんだ「大捜査線」へと拡大し、かつての湾岸署の面々とモリアーティたる小泉今日子との冷厳な知能戦を、今度こそ本庁と所轄の垣根を越えた熱い共闘で打ち崩すような展開が、多くのファンによって期待されていたことと思う。それが、まちがったハコに入ってしまったのかと何度も疑うような、ほとんど前編となにも変わらない、どうでもいいエピソードが執拗に蒸しかえされるのである(あのアダルトビデオに出てきそうな女子高生との失恋話、なんなん?)。きわめつけは、20年を追いかけてきた室井慎次の人生の結末が、「寒さに強い秋田犬を冬山で追いかけていたら、ウッカリ遭難して凍死する」だったことで、カネもうけのための本質的に不要な続編によって、大切な作品を汚されるという意味においては、さすが旧エヴァの熱烈なフォロワーだけあって、旧作を台無しにする以外の効能を持たない、シンエヴァ級の「そびえたつウンコぶり」だと言えるだろう(警察無線に涙声で流れる「犬が……犬が、遭難者を離れません!」は大爆笑の、最高にアタマの悪い演出で、ここだけは聞く価値あり)。

 じつは、前編で「踊る熱」が高まった結果、わざわざテレビ版をすべて見返すまでしたのだが、最終話が記憶よりもだいぶひどかった。エヴァ様のテロップふくめ、映画好きの大学生が編集したようなアマチュアっぽい場面のつなぎ方で、警察トップのお歴々の前でする室井と青島のやりとりなどは、織田裕二の大根演技ーーホアキンがフリーザとするなら、ユージはバクテリアンーーとあいまって、支離滅裂で意味不明なものになっている。全体的に「エヴァの影響を受けた軽薄なテレビマンによる、若いセンスだのみの編集と借り物の音楽で、ストーリーが成立しているような雰囲気だけを醸成している」感じで、室井慎次・後編を見てしまった現在、この評が踊る大捜査線シリーズの正味ではないかと思いはじめている。大手テレビ局の元社長をかこむ、元スタッフによる「踊る同窓会」でついつい酒をすごして、当初の予定通り配信ドラマでお茶を濁しておけば、まだ傷も浅かったものを、「興収200億の夢、ふたたび」と盛りあがってしまったのだろう。結果、軽薄なテレビマンが軽薄なふるまいに無自覚のまま、20年をかけて映画スキルの獲得も精神的な成長もなかったことを全国的に披露する、「虚無の出がらし」みたいな映像の集積体ができあがることとなる。室井慎次・後編は、ファンの記憶と俳優の晩節をともに汚しにくる空前の駄作であり、特にすみれさんが劇場版2で銃撃を受けた後遺症に苦しんで警察を辞めたみたいな挿話は、劇場版3と4の存在がスッポリと抜け落ちており、アルコール性の記憶障害か若年性の痴呆症を疑わせるほどのひどさだった。室井慎次が訥弁で家族愛を語ると、あらゆる不良や半グレや犯罪者がみるみる改心して、魔法のように「完落ち」することから、本作のジャンルは広義の魔法少女モノと言えるかもしれない(言えない)。

 ついでにドラクエ3リメイクの進捗も報告しておくと、ゾーマとしんりゅうをかるくやっつけて、現在は試練の神殿を進行中である。またぞろ懐古的な昔話をするが、ファミコン版のゾーマはあざやかな色あいで登場し、ひかりのたまを使うと全身が青白く褪色するという演出になっていた。子どもながらに、これを「闇(夜)の世界における色あざやかさは、すべてマガイモノである」という深い人生訓として受けとっていたため、スーファミ版で変化の順を逆にされたことには、いまでも納得がいっていない。本リメイクにおいても、青白いボディがひかりのたまで色づく仕様になっており、「またニセモノのゾーマか」と画面の前で思わず毒づいてしまった。もっと言えば、スーファミ版以降のゾーマは、鳥山明のデザインに寄せすぎているため、カブトこみで頭部がデカすぎ、プロポーションが悪いと感じている。ファミコン版はもっと頭が小さく、逆三角形に近いシルエットになっていて、無そのものの白い目ーー三白眼で黒目が描きこんであるのは、ひどい解釈ちがいに思えるーーでこちらを見つめてくるのが、最高にカッコよかった。

 話をリメイクにもどすと、クリア時のレベル平均は40台前半で仲間の転職も1回ほどだったので、ゾーマにいたるボスラッシュ3連戦には死闘感があり、すばらい体験だった。ただ、バラモスゾンビの攻撃力は調整に失敗していると思うし、「プレイヤーが死なない」という、RPGのゲーム性を全否定する驚愕のイージーモードは、パラメータ上限を思いつきで255から999に変更したせいで生じたインフレを、制作側が御しきれなかったゆえの苦肉の策であることが、ストーリーの終盤へと進むにつれてわかってきた。きわめつけはクリア後に訪れる試練の神殿で、指定された武器種を装備しないと、複数回の転職をくり返してフルパラメータに近いパーティでも、1000近いダメージーープレイヤー側のHP上限は999ーーをくらうという思考放棄のザルみたいな調整なのである。最悪なのはパンドラボックスの存在で、バカ体力とバカ回復に加えて仲間を無限よびするという、「テドンの悪夢、ふたたび」になってしまっている(ねえ、アタマと性格、どっちが悪いの?)。たびたび書いているが、「最強装備をすべて集めて、キャラをカンストまで成長させて、ようやく敵味方の戦力が均衡する」という調整は、制作側の怠慢ーーくわしくは、メガテン5あたりの評を読んでほしいーーであり、レベルデザイン・イコール・数値の調整だけで世界観と冒険の旅を演出できる「本邦にスペシャルなお家芸」の喪失だと言えよう。いい加減、ファミコン版ドラクエ2などもむずかしかったと思うが、試練の神殿の難易度はドラクエのそれとはあきらかに性質を異にしており、こと最終局面にいたって本リメイクからドラクエである必然性すら消えてしまうのは、とても悲しい。ドラクエシリーズの本質とは、言葉にできない「冒険の手ざわり」であり、この感覚を本リメイクの制作者と共有できているという信頼は、もはや絶無である。

 リメイクを重ねるごとに漸減する戦士の価値についても触れておくと、新たに導入される職業を使わせるため、既存のそれとのバランス調整をいっさいせずに、強力なアドバンテージのみを与えるという措置が、スーファミ版に引き続いて本作でも行われてしまった。だれでも全体攻撃と複数回攻撃ができる世界で、ダメージ量が特につきぬけているわけでもない単体攻撃の戦士を使うインセンティブはもちろん、どこにもない。さらに追いうちをかけるように、強力無比の「まものよび」によって戦士のとくぎはすべて無意味化し、転職先として経由するわずかのメリットすら消滅してしまっているのである。おまけに、発売前に物議をかもしたように、女戦士のルックス(笑)さえダウングレードされており、この職業を選ぶ理由は、もはや1ミリも存在しないのである。パラメータ上限を255から999に変更したせいで制作者の頭が「こんらん」したのだろう、なぜか武闘家の会心率まで目に見えて下がっており、「日本人はゲームを作るのが、本当に下手になったなー」と、プレイを通じて、何度も何度もくり返し落胆させられている次第である。

 古参の愚痴ばかりになって申し訳なかったが、昔からのドラクエ3のファンならだれでも思いつく、「オルテガが仲間になる」や「クリア後に勇者が転職できる」ぐらいを雑に放りこんでおけば、勉学やスポーツではなく、ピコピコに青春をささげてきた氷河期のロースペック人材たちは、みんな文系の単純なアホばかりなんだから、他のすべての不満に目をつむって、手のひらがえしの絶賛をしたにちがいないんですよ。その最低限すらもやらずに追加した新要素がなにかと言えば、「まもの使いのせいで、戦士が死んでてやべーな……そうだ、オノしばりの超高難度ダンジョンを用意しよう!」であり、脳ミソがフットーしちゃってるとしか思えません。意味深にホーリー遊児がほのめかしたエンディングの仕かけにしたところで、「1のラスボスであるりゅうおうの養育者が、2の準ラスボスであるハーゴンだった」という、もうアトヅケ感しかない残念なものなのです(「りゅうおうのひまごじゃ!」と、どう整合をつけるんでしょうね? 「竜の血筋に見切りをつけて、破壊神に鞍がえした」みたいな意味不明の文脈が、すでに発生してしまっていませんか?)。

 あと、室井慎次・後編でスタッフロールのあとに青島君が出てくるんですけど、ドラクエ3リメイクのハーゴンにせよ、「虚無の出がらし」の「氷河期ホイホイ」はどれも似たような、古いファンに対してウワメづかいの哀願みたいな仕草をするなーという感想をいだきました。この青島君が、例のダッフルだかアーミーだかのコートを着て東北に現れるのを見たとき、平成前期のルックス(笑)と大根演技はそのままに、ユージの顔だけがメチャクチャ老けてて、それが本邦の変化できなさと低成長の時代を象徴しているようで、ひどく情けない気分になりました(エリが出演していないことだけは、本当によかったです)。