猫を起こさないように
ドストエフスキー
ドストエフスキー

映画「ゲゲゲの謎」感想

 外出中のスキマ時間にピッタリとハマる上映時間があったため、日本3大しげるの命日にあやかって、見る気はなかったゲゲゲの謎を見る。以下は、テレビアニメ版は第3期のみをリアルタイム視聴し、もっとも印象に残っている関連作品はファミコンの妖怪大魔境ーー「げっげげのげー」からの「ぱわわわー、ぱわっ」ーーーという、昭和の鬼太郎ファンの中央値を自認する人物による感想です。それこそ冒頭の第一声からフィクション然とした説明セリフーー「あれは3万年前に絶滅したとされる、伝説の怪鳥ラドン!」ーーを聞かされてゲンナリしたり、「”哭倉”なんていう趣味的な当て字の地名を、初見で読めるわけねーじゃねーか!」などとツッコんだりはさせられましたが、その後にはじまった過去編は、往年の巨匠たちを思わせる堂々たる絵づくりで、横溝正史ばりの因習村でまき起こる、旧家の家督をめぐる連続殺人事件をスリリングに描いていきます。個性ゆたかな宗家一族の面々のうち、特に末娘のサヨはファンガスの性癖であるところの「穢された聖女(夜は娼婦)」として造形されており、事件の解決編は半ば予定調和的だったものの、近年のフィクションでは珍しくなった「女の情念」による破滅の美を、清々しいまでに見せつけてくれました。

 全体の4分の3ほどまでは、「ゲゲ郎のアクションがアニメ自慢のファンサービスで、ストーリーの雑味になってんなー」ぐらいの感想で、かなり好意的に古き良き日本映画の末裔として見ることができていたのですが、結界の地下で前当主と対峙するあたりから、その評価は急落していくこととなります。ゴジラ-1.0を引きあいにして、「当事者ではない人物が、左の平和学習と同じ視点から描く、幾度もカーボンコピーされて劣化した戦争」が、今後のフィクションにおける主流となることを危惧する向きもあるようですけど、本作は御大の著作が確かな下敷きにあるため、その批判は当たらないと感じました。ならば何が問題なのかと言えば、昭和の巨魁たるラスボス相当の人物を「野党の見る与党コピペ」として極めて類型的に描き、「悪の美学」や「権力の魔性」を1ミリも表現できていないことに起因する、ここまでに語られた物語全体へとさかのぼって波及してしまう、フィクションとしての説得力の欠如です。児童の身体に老人の頭部をのせたキャラ造形は「非難したい相手の容姿を醜く誇張して、戯画的に描く」の典型だし、セリフのすべてが「誅殺の快楽を増幅させるため、主人公サイド・イコール・観客を徹底的ににイラだたせる」のを目的とした非人間的な内容ばかりで、「悪いことをしてきたから、お金持ちになったんでしょ」みたいな小学生の世界観を一歩も出ることがありません。

 大きな権力を掌握した人物が持つ「懐の深さ」や「機転ある賢さ」や「人間的な魅力」のいっさいを、存在しないものとしなければならない暗黙の了解は、以前に指摘した「全共闘運動を正しく鎮圧できなかったこと」に同じ根を持っているような気がします。斧をふりかざされたラスボスがする、「会社を2つやる。いいスーツを着て、いい車といい女を手に入れろ」みたいな命乞いの勧誘に、「アンタ、つまんねえなあ!」と主人公が返す場面があるんですけど、それって一貫して強調されてきた「戦争ですべてを奪われたから、カネと権力を手に入れてやる」という野心を持った人物の発想じゃないですよね? 「農村の百姓や市井の市民の中に、人間のまことがある」という、クロサワを筆頭とした戦争経験のある監督たちの信念ですよね? 劇中において、主人公が「資本主義の走狗」より翻心する描写がまったくないものだから、この場面はギョッとするような唐突さになっていて、「サヨク妖怪に憑依されて、うわごとを言いだした」とさえ感じました(ゼット世代は、強い反発を感じるのでは?)。

 子どものあつかいが雑なのに、感動的っぽい演出がなされてるのもイヤなところで、ドストエフスキーじゃないですけど、この世界では子どもの絶望だけが唯一「取るに足る」んですよ。彼が連続殺人犯の元へ昇天するって絵ヅラも、自分の頭で考えていないと言いましょうか、昭和アニメのデータベースからオートマチックに既製品を選択したように見えてしまいました。原作にはないオリジナル脚本(ですよね?)なんだから、作り手の意志をいくらでも反映できるでしょうし、「子どもの死」をあえて触りたいというなら、もっとデリカシーが必要であると感じます。未就学児に「忘れないで」って言わせることで、自己満足的に成仏させることができるのは、大人の悔恨と後味の悪さだけでしょ。それを意図しているとまでは言いませんけど、この内容はペアレンタル・ガード12を突き抜けて、映画館に座っている実在の児童を刺しにいってると思いますよ。結部のつたなさのせいで、全体の読後感が悪くなったために、サヨたんの犬死に感が強まってしまっているのも最悪です。あと、前当主の死因って、初登場シーンを思い返すと、あきらかに腹上死ですよね? やっぱり、あんなヒヒ爺じゃなくて、サヨたんをすべての元凶にしておいたほうが、はるかに美しく収まったのでは? それと「幽霊族」って概念、ダーレスの言う「クトゥルフは水属性」と同じくらいうさんくさく感じるんだけど、これ公式設定なの?

アニメ「おにまい」感想(第1話)

 タイムライン局所で話題沸騰中のロリコン作画アニメ「おにまい」の1話を見る。ゆうに十畳はあろうかという個室を与えられ、エロゲーをパッケージ版でコレクションする主人公は、近年というよりは90年代の引きこもりオタクに見えます。「言うほどエロくないし、言うほど動きもいいと感じないのは、ネット激賞の弊害だよなー」などと油断していたところ、後半部でタイトルを回収する台詞にふいをうたれ、気づけば涙を流していました。これこそが現代の男性にとっての救済、神不在の本邦におけるドストエフスキー的救済だと感じたのです。オタクの抱く人としての苦しみは性別に由来していて、学歴、地位、カネ、家族、すべての社会的外形と競争から離れて、圧倒的に庇護される存在へと男性を「降りる」こと、これこそが求めていた魂の救済なのだと気づかされました。主人公の言葉をかりるなら、「お父さんは、もうおしまいでもいいのかな」とでもなるでしょうか。

 氷河期世代にもかかわらず、昭和の人生をトレースできている身を、能力や才覚のゆえだと考えたことはただの一度もなく、なぜいま子ども部屋の高齢ニートでないのかと問われたならば、「たまたま運がよかったから」とだけ回答するでしょう。夭折した祖父が人生で使わなかった分や、事故で亡くなった祖母が死の回避に消費できなかった分など、「血脈に埋設された運」なるものを近年では強く感じるし、この上でさらに自分の願いまでかなってしまっては、総体のバランスが崩れてしまうのではないかという恐れさえ、心の片隅にはあるのです。

 おにまい、願わくば最終話で「男性にもどった主人公が、引きこもりをやめて人生を一歩ふみだす」みたいな展開にはなりませんように! これまで私たちは牛のように黙って人生を前へ進めてきたし、もうここから降りて少女としての余生を手にしても責められないほどには、充分に頑張ってきたのですから!