猫を起こさないように
チェンソーマン
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アニメ「ルックバック」感想

 アニメ版ルックバックを劇場で見る。発表時、意味深な公開日とあいまってタイムラインを沸騰させた原作には、主人公の名前のモジりとか、11巻で休載するシャークキックとか、藤本タツキの自伝的な物語として読ませようとする誘導を強く感じたものである。「喪失を乗り越えて、描き続ける」というテーマは、創作を生業とする人々に深くささるものだったろうと推測するのだが、作者の半生を仮託していると考えた場合、「身近な現実として、その喪失を経験したのか?」は、作品の評価にかなり影響を与える問いのように思う(劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの行き過ぎた死の描写をしぶしぶ許容できるのも、このラインが判定基準にある)。原作ルックバックは、「作者の”実体験ではない”京アニ事件への哀悼と、クリエイターたちに向けた連帯のメッセージ」をオーバーラップして読ませようとした可能性が大いにあり、仮にそうだとするならば、東日本大震災を無邪気にエンタメ化した「すずめの戸締まり」と同じーー無神経にエンタメ化したエヴァQよりはマシーーカテゴリに属しているとも言えるだろう。何度でも繰り返すが、この世には軽々と第三者が触れてはならない痛みが存在しており、エス・エヌ・エスのかかえる最大の罪禍とは、どこからでも何にでも極小の労力で言及できるという性質から、その垣根を不可視化してしまったことにある。

 話がそれたが、原作ルックバックの問題点は、京アニ事件の発生した日付にわざわざ近接させて、あらゆる人間が閲覧可能なインターネットという媒体に公開されたことだ。本来ならば、一部のマニアしか目にしないマイナーなサブカル紙へひそやかに表明されるべき中身だったのが、文字通り全世界へと配信されてしまったことで、語りの質を決定的に変じてしまったのである。おそらくはフィクサー気どりの編集者が、おのれの手柄として盤外から意味をさらに付加しようと試みたせいだろうが、本来まとうべきではなかった情報までをも、読み手に受けとらせることとなってしまった。非クリエイター職の人間に言わせれば、それは梅雨の時期に食卓へ一日おいた煮物へ鼻をひくつかせるどころではない、口腔に広がり嚥下をさまたげるまでのふんぷんたる自意識の悪臭に他ならない。眉をひそめた百姓や商人の「芸ぐらいのことで命までとられて、哀れなもんやな」という軽侮のささやきの裏で、同胞の遺骸をかきいだいて河原へ落涙する本来的な絶望が、現代においては当事者にさえ遠いものとなっているのだ。

 このたび劇場公開されたアニメ版について言えば、チェンソーマンの映像化が監督の個性を前面に出しすぎて炎上した反省を踏まえ、「原作を一言一句、一場面も変更せず、藤本タツキの描線をそのままに動かす」という手法で作られており、皮肉なことにそれがわずかの改変をむしろ浮かびあがらせてしまった。すなわち、「漫画メディアは音声を欠落している」という当然の空隙に、監督の主観が「荘厳なる音楽」という夾雑物として混入したのである。人並み以上には映像作品を見てきた経験のある身なれど、かように作品の解釈を外挿的に強いる、むしろ邪魔だとまで感じさせるような劇伴は、二重の意味でこれまで聞いたことがない。エンドロールで流れる聖歌隊の斉唱へもっとも顕著にあらわれているように、原作では「河原者の慨嘆」として静かにひそやかに描かれていた諦念と隣接する覚悟を、近年の若いクリエイターたちに顕著であるところの、例えば「一次産業へ従事する者を下に見る」ような傲慢さによって、無限のグラデーションをともなっていたはずの機微の上から、「殉教者の高潔」という名の原色ペンキで一様に塗りつぶしてしまった。これは、高度の都市インフラが個人に「無限のヒマつぶし」時間を与えた結果、虚構が生命維持に不可欠であるかのような錯覚が横行し、「ただちに地上から消滅したとして、人類の運行に何の影響も与えない、無用物である本質への絶望」が、いつか極限にまで薄められてしまったゆえの喜劇と言えるだろう。

 原作におけるラストシーンの背中は、「最愛の人を亡くした後でさえ、”つながる”ために、ペンを動かすことをしか知らない者の悲しみ」まで伝えていたのに、アニメ版のそれは大仰な劇伴のせいで、「創作活動とは、この世のすべてにまさる崇高な営為だ」という、多くの生活者の神経を逆なでする余計なメッセージーーおそらくは監督と音響担当の気分ーーを付与してしまっている。円盤リリースの際には、一次産業や二次産業で口を糊する原作ファンのためにも、劇伴だけを抜いた「無音バージョン」の収録を、ここへ切にお願いするものである。あのさあ、監督チャン、タツキ作品にキミの余計な解釈や自己陶酔は必要ないねん! 昭和の地方在住オタクから、いらん忠告をしとくけど、「都の大通りの遠く、洛外に住む不倶」という自覚から創作活動をスタートせんから、こないなハメになってまうんやで! エロゲーを出自に持つ商業作家の深海魚のような慎重さに、少しは学んだらどないでっか!

 最後に、「原作との差違」という点で気になった場面をひとつあげておきますと、あの象徴的な雨中でのダンスは、「選ばれてあることの恍惚」を胸中にとどめおけず、魂の昂揚で肉体がつき動かされたルックバックの白眉ですが、漫画における表現のほうが圧倒的にすばらしく、よくできているのだろうアニメーションをながめながら、心の中では「解釈違いのクネクネ踊りで、名場面を台無しにすんなよなー」とずっと毒づいていました。

漫画「チェンソーマン16巻」感想

 「最近、ツイッターのトレンドでとんと見かけなくなったなー」なんて考えながらチェンソーマンの16巻を読みはじめて、ひっくり返りました。「合理的配慮の義務化」に先がけて、視力に生得的な問題を抱えていたり、特性で文字を読むのに集中できなかったりする人々に向けて編集された、ユニバーサル・デザイン版を買ってしまったのかと真剣に考え、表紙と裏表紙をなんども調べましたが、残念なことにこれが通常版のようです。バカみたいにデカいコマの半分が吹きだしで埋まっていて、その中にはアホみたいに大きいフォントでセリフがならんでいる。残りの空白には、サインペン1本で引いたような強弱にとぼしい線によるキャラのアップが、ほとんど背景なしに描かれている。こいつがまた本当に読みづらくて、何回も行きつ戻りつしながら内容を理解しようとしたのですが、ついには巻の途中で読むのをやめてしまいました(こんなことは、生まれて初めてです)。いまは、「視覚に問題を抱えた方々や特性から読みとりに難のある方々が、人口の9割を占める社会にまぎれこんでしまった健常者」みたいな気分を味わっています。この一種異様な変容の理由がなにかを考えたとき、うるさ方のファンたちにアニメ2期を中絶させられて自暴自棄になったタツキが、画面サイズが小さく解像度の低い貧乏人のスマホを想定した集英ムラ独自のネット連載ルール(怪獣8号!)を露悪的に援用して自分の大切な作品を壊すという、言わば自傷行為の公開におよんでいるような気がしてなりません。チェンソーマン第2部はただちにネット連載を中断させ、一定の休養期間を彼に与えたあと、月刊でかまわないので作品を雑誌連載へもどすべきだと強く進言します。ひとりの才能あふれる作家が、無言の衆人環視のうちに自壊していくのを、現在進行形で見せられているような気がしてならないからです。

 タツキ、その言葉なきハンストにも似た抵抗運動は、現代の社会においてまったく有効じゃないんだ。チェンソーマンの現状に対して、ファン全体の1パーセントが「劣化」や「ゴミ」などの強い言葉を表明し、残りの99パーセントはただ黙って読むのをやめて、やがてキミという作家がいたことさえ忘れてしまうだろう。ルックバックで成層圏へと突き抜けて、編集者たちは作品の内容に口をはさめなくなり、ウェブ連載の独自ルールだけを伝えられ続けた結果、どこかの段階でキミは静かに発狂してしまったんじゃないか。集英ムラの連中は、ワンピースやぢじゅちゅ回銭(原文ママ)があるから、たとえキミが筆を折って失踪したところで、「逸話を持つレジェンド作家が、またひとり増えたか。これで残された作品の価値が上がるわい」ぐらいにしか思わないだろう。私にはネットの片隅でただ息をつめて、両腕をもみしぼりながら見まもることしかできない。だが、チェンソーマン17巻がページの4分の3を吹きだしに占拠されるようになったとしても、キミの才能を買いささえることだけはここに誓う。タツキ、キミは紙媒体でこそ輝く作家だと確信している。これ以上の自傷行為はやめて、集英ムラを離れてでも、ネット以外の媒体へともどる道を探すべきだ。

アニメ「範馬刃牙」感想

 範馬刃牙「親子喧嘩編」を通して見る。低クオリティの静止画に音声がついただけみたいなシロモノで、どこか激しく動かしたいシーンがあるから作画の足をためているのかと思いきや、そんなシーンは一瞬もなく、最後までずっと同じ調子のまま、低クオリティのまま終わります。意味不明の展開を超絶な作画力で、まさに勇次郎が息子の頭をなでるように無理やり読ませた原作から、作画力だけを抜いて何も足さない仕上がりになっています(ユーザー・イリュージョンの話がマルシーとれないので引かれてる)。でもね、この程度の品質で、居ならぶ韓ドラまでおさえて、ネットフリックスの視聴ランキング世界1位をとってんですよ(!)。

 原神のときにもさんざん言いましたけど、我々を停滞させているのは、もはや呪いと化した国民的心性である「神経質なまでの几帳面さと行儀のよさ」なんじゃないですかねえ。チェンソーマンがあれだけのハイクオリティだったのに、解釈違いと原作ファンに難クセをつけられて、2期の制作さえ絶望的な状況に追いこまれているのに対して、刃牙シリーズは死刑囚編から安定の「低クオリティ・コントロール」で、ついに最後の最後まで語りきっちゃった。さらには、刃牙ファンの裾野を世界各国のあらゆる人種へと広げ、近い将来に幼年編から最大トーナメント編まで作られそうな勢いです(スターウォーズの大好きな世界中のオタクたちは、この順番のストーリー提示に大興奮すること間違いありません)。

 本邦の漫画界隈には、「あまりに名作すぎて、おそれ多くてさわれない」や「ファンが厄介すぎて、怖くてさわれない」作品が、誇張ぬきで数十年来を塩漬けにされたまま、ゴロゴロしてるじゃないですか。あのチェンソーマンの仕上がりでダメなら、もう何をどうやったって一部のファンにはダメなわけで、我々は刃牙シリーズの雑なアニメ化が大成功したことを見ならうべきだと思うんですよね。全視聴者の1%にも満たない、うるさ方の原作ファンや声の大きい作画オタクは無視して切り捨てて、低品質の雑なアニメ化をもっとガンガン増やしていきましょう! 有識者および資本家のみなさん、本邦の衰えたプレゼンスを回復するのに、これほど簡単で安あがりな施作はありませんよ! とりあえず、高校鉄拳伝タフあたりからやっていきましょうか!

 『(バーガーとコークを手に、あきれ顔で)このアニメは世界でいちばん視聴されている。だから世界でいちばん面白いものに決まってるだろ。』

雑文「アニメ版チェンソーマン・第1期終了に寄せて」

 NOPEについての感想を調べるうち、チェンソーマン作者の妹アカウント(意味不明)がこの映画をほめているのと、チェンソーマンのアニメが漫画版のコアなファンたちに大きな不興をかっているのを同時に知りました。この配信全盛の時代に、いい音響設備を持っていれば話は別として、わざわざ円盤を買う層がいるとも思えませんのに、その売り上げを人気のバロメータとして語っているのには、いつまでも野球のニュースがスポーツコーナーの大半を占める「本邦の変化できなさ」と同じものを感じます。以前、いくつかの読み切りへの感想に、「この作者を理解できるのは自分だけだと思わせ、読者の一人ひとりと直接に書簡を交わすことのできる、稀有な作家」みたいなことを書きましたが、今回はこの特性がアダになっている気がします。なまじ感想を言語化できる、中途半端に偏差値の高い層がファンなので、SNSでバズりやすいと同時に燃えやすくもあったんだろうなーと思いました。当の監督さえも口を閉じていられずに、「アニメではなく、邦画のように撮影した」みたいなことを得々と語らされてしまうあたり、本当にファム・ファタールのような作家性だなあと感心してしまいます。まあ、チェンソーマンは洋画、それもB級洋画のチープさで撮らなきゃダメなんですけどね(「運命の女」の色香にやられた者の目で)!

 「アニメ版チェンソーマンのどこがダメか?」という議論をイヤイヤ横目で流し見しましたけど、わかりにくい例えながら「東大京大以外に通っていた者が、自分の出身大学は明かさないまま、私立大学の序列について語りあってる」みたいな雰囲気を感じましたねー。この例えに乗っかって言うなら、アニメ版の評価は「都心から少し離れてるけど、難易度も手ごろで、いい大学よ」とでもなるでしょうか。自戒をこめて書き残しますが、中途半端に偏差値が高い人物の言語化は、表現した内容と意識の本体に微妙なズレがあるんですよね。そして、発した言葉の方にピッタリ合うよう意識の本体を補正していくことで、やがて人格にまで影響が出るようになっちゃう。SNSがもたらした最大の弊害は、「言語化しないほうがいいもの」の存在を人々に忘れさせてしまったことだと考えています。個人的には「言語化に前駆する意識の広がりを後置される言葉で剪定しない」ということを、最近では肝に銘じておる次第です(これを記述するのが、そもそもの矛盾ですが……)。

 余談ながら、海賊王を名乗る詐欺事件の話が原作ファンの間で思ったほど燃えているように見えないのも、ファン層の大半を占めると思われる言語化の苦手な低偏差値ヤンキーたちは、ツイッターに生息していないからでしょうねー。長くなってきたのでまとめにかかりますと、アニメ版チェンソーマンの敗因は、「中途半端にかしこいメンドくさいファンが、受け手と送り手の双方に多く含まれていたこと」だと指摘できるでしょう。特に本邦での「かしこさ」ってのは、神経症の言い換えみたいなもので、美人の顔にある小さなひとつのシミさえ批判の本体にしちゃいますからねー……おっと、例えが昭和オヤジすぎて、平成キッズのみんなは引いちゃったカナ? 美醜は無いもののようにふるまうのが令和流だったよね、メンゴメンゴ! 最近では加齢と飲酒で脳細胞の多くがいい具合に破壊され、「言葉が存在しない状態」に生きる時間が増えてきました。これこそ、実家住み・マルチプルインカム・中卒ヤンキーの持つ多幸感の正体なのだと気づき、これまでの無用の苦しみをふりかえると、その遠回りに悔しいような気持ちにもさせられます。

 ともあれ、イケメンの頭頂部の砂漠化ぐらいのこと(大問題)で第2期を立ち消えにしてしまっては、元も子もありません。いまこそ私たち高偏差値の男前ハゲは、あたかも高等教育を経験しなかったかのようなフリで、アホになるべきではないでしょうか。では、みなさん、ごいっしょに! (ロンパリ前歯2本欠損ダブルピースで)チェンソーマンのアニメ、さいこー!

雑文「いつも心にデンジ君を」

 チェンソーマンのアニメ見とるけど、漫画のほうはパワーの顛末から始まる後半戦の印象が強烈すぎたさかい、なんやデンジ君のキャラがどんなんやったかすっかり忘れとったわ。ええか、おなごども、これだけはゆうとくで、男っちゅうもんはな、みぃんなデンジ君なんや。博士や大臣から大卒のカシコから中卒のトビまで、男の人生にはまちがいのぉデンジ君やった時期があんねん。心の中のデンジ君とどう向きおうたかが、男の一生を決めると言い切ってしまってもええと思うわ。よろしか、どんなごっついべべ着てカネをぎょうさん持ってようと、男はすべからく心のどこかにデンジ君を飼ぉとんのや、それだけは忘れんとってや。

 しかし、なんや、あれやな、「食欲が満たされたら、次は性欲」ゆうんは、昭和やったら恰幅のええ背広のオヤジが金むくの指輪をはめた手ぇで歯にはさかったイタメシを楊枝でせせりながら、同伴のワンレンボデコンおミズをねっとり眺めるようなイメージやったやんか。いやいや、そうやったって、記憶を美化したらあかんて、駅のホームは痰壺から黄色い痰がはみでとったし、街の道路は吸い殻とプルトップでおおわれとったって。チェンソーマンのアニメ見ててな、令和の「衣食足りて性欲を知る」っちゅうのは、こんなにもつよぉ貧困のイメージとむすびつくんやなって思たら、なんや切のうなってきてしもてん。ワシがおなごやったら、デンジ君みたいのがおったら、なんぼでもタダでオメコさせたるけどなあ。デンジ君からただよう悲しみはな、男であることの本質的な悲しみや。おなごどもは最近、ちょっと自分をたこぉ売りすぎとちゃいまっか。そんなん、ぼくらデンジ君には買われへんで。

アニメ「チェンソーマン」感想(第1話)

 チェンソーマンのアニメ第1話を見る。みなさんがほめているようにハイクオリティなのは認めますが、ちょっとCGを補助に使いすぎかなー。数学で例えるなら、「ある未解決の定理が証明されたと聞いて、どんな素晴らしいアイデアを思いついたんだろうと調べてみたら、スパコンの大規模演算による力業の解決でガッカリした」とでもなりましょうか。宮崎翁ではないですが、アニメーションの醍醐味って「特定の個人にとって生理的に気持ちいい動きの主観的デフォルメ」だと考える古い人間なので、アクションシーンにいまいちノリきれない部分がありました。

 あと、マキマさんの声がちょっとカワイイ系に寄りすぎているので、最終巻あたりのやりとりがどうなるか不安は残ります。チェンソーマンって、叙情性のあるデビルマンだと思ってるから……。

漫画「チェンソーマン第2部1話」感想

質問:えー、小鳥猊下いつも全ての事象を重く煩わしい肉に閉じこめられた哀しいボクらの言葉で解体し尽くしてくれるのにチェーンソーマン2がまだってやばくなーい?

回答:また君か。降臨より20年が経過し、もはや君くらいしか気安くはからんでこないので、相手をしよう。サイバラ女史に言及した記事あたりから、noteの閲覧数とスキがグッと増えて気をよくしていたのだが、「ヒトvsハチ」を境としてどちらも激減した。フォロワー数も減った、というか元にもどった。たぶん、ある表現が一部の読者を傷つけたのだろうと想像するが、自分の感情を的確に表現できる文章を、書かないという選択肢はずっと持ちあわせていない。インターネットで発信するというのは、様々な誤解や曲解を道連れにするということで、過去には面識も交流も無い人物から、一方的にメールで絶縁を宣言されたことがあった。私の文章を長く読んでいる向きは、まるで自分だけに親しく語りかけてくる友人だと思うようになるのかもしれない。しかしながら、私の主観を言えば、だれからの反応も無いという一点において、独房や駅のベンチで床に向かってするキチガイのつぶやきと何ら変わることはない。なので、こんな通りすがりの軽口さえ、1ヶ月ぶりにおとずれた干天の慈雨、極乾の砂漠をひとりかちゆく者へのよく冷えた水と感じられる。要望に応えよう。

 チェンソーマン第2部1話を読む。「タコピーの原罪」と「さよなら絵梨」を下敷きに、「ゲットバック」と「フツーに聞いてくれ」を深刻に受け取った読者の後頭部を、ゲラゲラ笑いながら蹴りとばしてくるような中身で、本当に人を食った書き手だなあと、改めて感心しました。作品”のみ”を使って、読み手とリアルタイムに交信できるというのは極めて稀有な資質であり、盤外戦の過剰なゴム人間の作者あたりに、ぜひ見習ってほしいものです。今回の話は、栗本薫の小説道場だったら「あいかわらずキミのセンスはブッとんでるねえ! 田中脊髄剣には、へんへー思わず爆笑してしまった。ただ、先生と生徒の不倫関係という、考えれば考えるほど重いテーマを、物語のギミックとして表面だけスーッと流してしまうのは、こう言ってはなんだがキミの悪癖だと思う。この話を描くとき、父であり夫である田中先生の苦悩や、姉であり娘である優等生の悲哀に、ほんの少しでも思い至ることができたのかどうか。いいかい、それを描けと言ってるんじゃないよ、一瞬でもそこへ意識を向けたかを聞いているんだ。耳の痛い指摘をするでしょう、ねえ? 永井豪ちゃんあたりなら、こんなもの豪放に笑いとばしてしまうんだろうけど、タツキは見かけよりずっと繊細(これ言われるの、イヤでしょう?)で、ひどく軽薄なようでいてドシリアスだから、表面上は平気なふりをしながら、心の奥ではものすごく気にすると思うね。貴方がここで停滞せず、さらにひと皮むけるのに必要な視点だと思うので、よかったら考えを聞かせて下さい」とか評されそう。そして、他ならぬ”戦争の”悪魔を1話へ持ってくるあたり、彼がこの時代にいったい何を考え、何を語ろうとしているのか、心の底から楽しみでなりません。今回は乞われたので印象を話しましたが、基本的には第2部完結まで黙ろうと思っています。

漫画「さよなら絵梨」感想

 チェンソーマンの人の、例の漫画を読む。タイトルと設定は、たぶん「ぼくのエリ」からだと思うんですけど、思いついてしまった最後の2ページのオチを描くために、198ページを端正にビルドアップする根性がすごい。これ、ドライブ・マイ・カーで例えるなら、死んだはずの妻が赤いバンダナ、白いタンクトップ、カーキ色のズボンにマシンガンをかついで映画祭に現れ、観客席へむけて銃を乱射しながら「私はこんなにも貴方を愛しているのに!」と絶叫するようなもんですよ(ハーラン・エリスンからの悪い影響)!

 本作には、前作へと向けられた様々の悪意に対する目くばせもまいてあったりして、じつにクレバーな作家だなあと、あらためて感心させられました。すべての作品で同じモチーフ(映画好きの不死の美少女)が登場するのも、ある種の才能が持つ偏執性を感じさせて、とてもいい。私が彼の作品を見るときに連想するのは、川原由美子「ペーパームーンにおやすみ」に登場する少女の部屋です(私の自意識もそこに住んでいる)。ファイアパンチの感想のときにも少し触れましたけど、小説道場なら「君の作品は一見、軽薄で剽軽なのに、どこか自閉症的な拒絶を感じる。君が描く『硝子の部屋』はきれいだが、いつかはそこを離れなければならない。先生は君が『硝子の部屋』から出てくることを、ゆっくりと待ちたいと思う。人生は、そんなに怖い場所ではないよ、タツキ」とか論評しそうな感じ。

 栗本薫ほど人生に期待をしていない私としては、社会の状況や読み手の批判に、それこそ炭鉱のカナリアの如く敏感に反応して、すばらしい作品をアウトプットする書き手であることを確信したので、ファンガスと同じく「二百年を生きる吸血鬼」の自我を保ったまま、映画に幽閉された廃屋に居続けてほしいと心の底から思いました。本作もみんなでガンガン批判して、彼に次の名作を吐き出させよう(ひどい)!

漫画「ファイアパンチ」感想

 ファイアパンチ、読む。好きなモチーフや嗜癖(人肉食とか)をぎゅうぎゅうに詰め込んだ、作家としての良い部分と悪い部分のメーターがともに振り切れている作品でした。序盤から中盤にかけては世紀の大傑作なのではないかと興奮していましたが、終盤から最終話にかけて物語のテンションは次第に下がっていき、チェンソーマンほどは漫画読みたちの俎上にのぼることの少ない理由がわかりました。「どんなキャラでも、物語のためなら躊躇なく壊すことができる」「冷笑という言葉では生ぬるいほど、人間と人類に対する期待値が低い」、この2点が突出した彼の持ち味だと思うんですけど、殺せるからといってトガタを殺したのが迷走の引き金になったと思います。それは鳥が空を、獣が陸を、魚が海を否定するのと同じ作劇であり、氷の魔女に役割を引き継がせればまだどうにかなったかもしれませんが、本作のテーマが依拠する土台を完全に消滅させてしまった。ブッとんだセンスにばかり目が行きがちですが、基本的に物語文法への意識を強く持ったクレバーな作家なので、本作では「トガタを退場させたら、この物語はどうなるんだろう?」という悪魔の誘惑にあらがいきれなかったのだと思います。そして、「外見と演技によるアイデンティティ」というフレームが無くなり、そこから思想・信条・宗教・文化・歴史・地縁・血縁・道徳・倫理・勇気・信念を順に放棄していった上に地球まで破壊して、最後に残ったのが「愛」(と映画館)だったというのは、プラネテス級のドッちらけな幕引きでした。

 どっかの炎上ユーチューバーもそうですけど、自己認識が「300年を生きる魔女」であるうちは、歴史や人類のすべては他人事だし、おのれの主観だけでいくらでも何かを断罪することができます。身体の内側から「ファイア」が消えて、ただの寒暖が身をさいなむようになり、だれもが自分よりは優れていると感じるようになってからが、人生の本番なのではないでしょうか。 え、アンタが他人のこと言えるのかって? 小鳥猊下はネット黎明期から生きているレジェンドなので、すでにそのくびきからは逃れているよ! いつまでも安心して見ていられるね!