猫を起こさないように
ダニーボイル
ダニーボイル

映画「28年後…」感想

 奈良の片田舎の小さなシアターで、ぶんむくれながら「28年後…」を見る。なんとなれば、前作「28週後…」をゾンビ映画の最高峰だと心から信じており、公開のあかつきには当然のことながら、本邦でもスター・ウォーズ級の待遇をもってむかえられるだろうと、無邪気に考えていたからである。ところがどうだ、我が土人県ではアイマックスはおろか、単館のノミみたいなスクリーンにかけられるばかりで、1ヶ月もせぬうちに上映が終了しそうないきおい(の無さ)であり、それが冒頭の不機嫌を引き起こしたのであった。だが、いざ映画がはじまるとそんな個人的なぶんむくれは、はるか視界の背後へとたちまち消えさってしまう。弓矢を装備した父子の冒険行へ「ドキュメンタリー映像」と「古い映画の映像」を順にオーバーラップさせながら、単調な「ブーツ、ブーツ、ブーツ」という詩の朗読にあわせて、速いテンポで画面が切りかわる導入部分は、ウスターソース野郎によるハリウッド文法をガン無視した、堂々たる「B級カルト映画」のたたずまいになっていて、いっきに作品世界へと引きずりこまれたからである。赤黒い血と白濁した脳漿がしぶき、内臓がドロリとこぼれるグロ映像の連続に、右ナナメ前に座っていた老夫婦からは「うわっ、やめてえや」「こんな映画やと思わへんかったわ」などの悲鳴があがるも、座っているハコの小ささとあいまって、それさえ映画の一部を成す環境音のように聞こえたぐらいだ。おそらく、「トレインスポッティング」や「スラムドッグ・ミリオネア」のほうのダニー・ボイル作品が好きで劇場に足を運んだのだろうが、アカデミー賞監督の威光というより本シリーズの世界観を偏愛する者からすれば、彼らの無知と無検索に対しては「ご愁傷様」以外に、かける言葉がない。シリーズ初登場の匍匐前進するスローロー、おなじみの全力疾走でせまる感染者、2メートルを越える体躯のアルファa.k.a.バーサーカーなど、いちどは途絶したはずの世界観が最新の映像技術で再現される、めくるめく”恐怖のなつかしさ”に、20年前(!)からのファンは陶然とさせられるのであった。特に、文明が崩壊したゆえの満天の星空を背景にした逃避行は耽美の極みであり、暗闇の中、全力疾走で父子を追う筋骨隆々のアルファに、炎のバリスタが突き刺さるまでのシークエンスは、呼吸さえ忘れるほどのすさまじい緊迫感だった。

 しかしながら、この地点を情動のピークとして、物語そのものへのクエスチョンは、どんどん増大していくのである。まず、作中で「本土」と呼ばれているのは、どうやらヨーロッパ大陸ではなくグレート・ブリテン島のようで、前作のラストにおいてエッフェル塔の下を走りまわる感染者の群れに大興奮してから、20年(!)ものオアズケをくった身にとっては、高まった意気をかなり阻喪させられる設定であると言えよう。また、「本土で感染者を殺すこと」がムラの男子のイニシエーションになっているのだが、自給自足のコミュニティなのに欠乏する物質の描写は、それこそベーコンぐらいしかないため、わざわざ危険を押してまで本土へわたる理由としては、「そうしないと、映画が始まらないから」以外に見つからなかった。さらに、あれだけ感染者たちにビビりまくっていた主人公の少年が、遠目に父親が人妻とファックするのを見かけただけで、観客からは完全に無謀だとわかる、病気の母親を連れての本土行きを決意するのも意味不明で、「まあ、主要キャラだから死なないだろう」ぐらいのメタで薄弱な根拠しか感じられない。そもそも、外部の人間から「近親相姦もめずらしくない」と揶揄され、人口維持を目的とした乱交パーティ(だよね?)が開催される規模の小さなムラ社会で、スマホもインターネット接続もないのに、「父親が一穴主義を裏切ったことへ、深甚な怒りをおぼえる潔癖さ」は、脚本家の倫理観に由来するのでなければ、いったい人生のどこで獲得したものなのか、じつに不可解である。意味深な描写をされる病気の母親にしても、当初はレイジウイルスに感染しているのを村人から隠す目的で、二階へかくまってるのだろうと思っていた。なので、廃教会で眠りこける息子を助けるためにスローローを撲殺したときには、「理性をたもった感染者、アルファ・メスだ!」と大よろこびだったし、みずから産婆となって感染者の妊婦から非感染者の赤子をとりあげるーーこの子の体液がのちに治療の血清となる伏線なのだろうが、前作でも類似の話はすでに提示されていたーー場面において、おぼろげな予想は強い確信へと変わったのだ。

 にもかかわらず、ヨードチンキおじさんの診断で、母の奇行と怪力はリンパにまで転移した末期癌ゆえだと判明したときには、公の場にもかかわらず、強めの「ハア?」という悪態が、知らずマウスからほとばしっていたほどである。このあとに続く、とってつけたような「メメント・アモリス」発言からの安楽死という展開も、作品世界の死生観を体現しているというよりは、監督か脚本家の実体験を反映しているようにしか見えなかった。そして、あろうことか、少年がコミュニティを離れてから「28日後…」のテロップが表示された直後、感染者と近接戦闘を行うテレタビーズの擬人化みたいなジャージ集団ーー「かまれる」「ひっかかれる」「体液が粘膜にふれる」と潜伏期間ゼロで発症するウイルス持ちが相手なので、ソウルシリーズで例えるなら、レベル1全裸短剣おじさんのような存在ーーの登場で、なんら伏線を回収しないまま、物語は幕となってしまったのだった。20年ぶりのシリーズ再始動は、コロナの世界的なパンデミックに新たな着想を得たためだろうと予想していたら、まったく1ミリも、露助のルーブルほどもそんなことはなく、この尻切れトンボな欠陥映画にたいそう感情を乱されたまま帰宅してググッてみると、本作は3部作の1作目だというではないか! だったら、スタッフロールのあととか、作品内で続編の存在をキチンと明示しろよ! 右前方に座っていた善のダニー・ボイルが好きなグロ耐性の低い老夫婦なんて、ぜったい次は見に来ないじゃねえか! ここにいたり、3部作の3作目を3部作にするというボーン・テンプルばりの不安定でイビツな構成があきらかになったわけで、1にあたる本作は28年後の28日後を描き、続編の2が28年後の28週後の話で、完結編の3が28年後の28年後を語る仕組みに……って、ややこしすぎるわーい(目の前の卓をひっくりかえす)!

 おまけに撮影が終わっているのは2までで、3の制作に入れるかは今後の興収次第らしく、本邦での様子をうかがうかぎり、パリからヨーロッパを経てユーラシア全土へと感染が広がっていく阿鼻叫喚の地獄絵図は、またも古参ファンの妄想に終わりそうな気配が、すでにしてただよってきているのであった。「物語を終わらせないまま、この世を去ることによって、擬似的な永遠を獲得したい」という欲望は、広く受容される虚構世界ーーガラスの仮面や王家の紋章などーーを構築した創作者にとって、めずらしいものではないのかもしれないなと思うと、発作的な空ぜきにも似た、乾いた笑いがでてくる。ラわーん、もう”終わらないフィクション“はこりごりだよう(年齢的に)!