猫を起こさないように
スプリガン
スプリガン

アニメ「BASTARD!! 暗黒の破壊神」感想

 艦これイベント最終海域を進行中。諸君のようなエリートとは異なり、乙へ落とした難易度にさえヒイヒイ言ってるクソ提督だが、潜水マス大破撤退の苦しみは諸君の抱いているそれと何ら変わるものではない。現在、4本目(4本目……!!? )のゲージ破壊に取り組んでいるところだが、己の内に潜む暴力性を強く自覚させられている。大和改二重への改装のため、山のように放置されていた限定任務に着手し、設計図0枚から勲章をかき集めたのに、その最強戦艦が資源を食うばかりでいっこうに仕事をしないからだ。ご存じのように、このイベント海域、ゲージ削りとゲージ破壊でやっていることの見かけは同じなのに、ゲームの本質がまったく変化してしまう。前者は資源と時間が成果として累積する定期預金(古ッ!)であるのに対して、後者は有り金すべてを畳に並べてサイコロの目にベットする場末の賭場と化すのだ。

 現状をまともに認識しては発狂するしかないので、意識を坊ノ岬での大破撤退からそらすために、ネトフリでバスタードをながら見しはじめる。まったく本作といいスプリガンといい、当時の中高生のうち、「就職氷河期を生き残った連中だ、ツラがまえが違う」みたいな管理職になったサバイバーどもが、いよいよ現場の実権を握りはじめ、あと10年ちょっとを逃げ切るだけの立ち場になって、もう好き放題やりだした感が伝わってきますねー。さらに10年を待てば、次世代のnWoファンが管理職として現場の実権を握り、「少女保護特区」や「MMGF!」を出版したりアニメ化したりしてくれると考えると、まだまだがんばれるって気持ちになります(ぐるぐる目で)。

 さて、今回アニメ化されたバスタードはスプリガンと違って、お世辞にもクオリティが高いとは言えませんが、あの時代の空気感だけはたっぷりと詰まっており、いろいろと当時を思い出して懐かしい気持ちになりました。アニメの出来について、ドぎつい原作ファンが新旧を比較したドぎつい絡み方ーー主人公の声が甲高すぎるのは同意しますーーをしているのを見かけ、ある世代にとってはとてもとても大切な、名実ともに神話的な作品だったことをあらためて確認できました。ちょうどグループSNEあたりが、海外のテーブルトークRPGやゲームブックなどを翻訳・翻案して本邦へ紹介し、急速にファンタジーの世界観が主に中高生男子の人口へと膾炙していった時期に、バスタードの連載はスタートします。最初期の本作は、既存作品を丸パクリした設定にヘヴィメタル趣味をふりかけただけの、メタ視点の悪ふざけが過ぎる極めて同人的な内容で、まさか10週打ち切りをまぬがれて大長編と化し、ここまでの伝説的な扱いをされる作品になるとは、だれも予想していなかったように思います。個人的にはそれほどハマらなかったのですが、呪文詠唱を丸暗記して唱えるのが流行ったり、周囲の盛り上がりはなんとなく記憶にあります。

 適切かどうかはわかりませんが、他作品をからめて全体の印象を述べると、ランスシリーズのような悪ノリのパロディと下ネタで始まったのが、氷をあやつる四天王の登場ぐらいから作者の真剣度が増して、語り方の質が大きく変わります。メタが鳴りをひそめると同時に、物語はギアを上げてグングンと加速していくのですが、やがてベルセルクと同様、作画を細密化させすぎるという自縄自縛ーーこちらは話のスケールを大きくしすぎたせいもあると思いますーーに陥って、ついには肝心のストーリーを頓挫させてしまいました。今回のアニメ化は、物語の質が変わる前の段階ーー最後は続編前提のヒキで、2期が無ければ目も当てられない尻切れトンボーーで終わっており、新たにバスタードへ触れた層に、昨今の倫理観とあわぬがゆえの悪印象だけを与え、本作を知る必要の無い「頭文字F」にまで発見されて、どこかで吊るし上げをくらって中絶させられないか、続きを期待する者としてちょっと心配しています。

 原作の展開、特にセリフをほぼ忠実に再現したこのアニメを眺めるうちに思ったのは、バスタードは少年漫画が本当に「少年・イコール・男の子」だけのものだった時代の作品だったんだなあということです。精通前と精通後ーー女性の警戒心と主観的な接触の意味が変わるーーを行き来する主人公が、女性ヒロインたちの処女性に異常なまでのこだわりを見せるところへ、特にそれを感じます。いまはどうかわかりませんが、かつての少年漫画が持っていた絶対の不文律とは「寸止め」、すなわち「主人公とヒロインが絶対にセックスを完遂しないこと(ペッティングまではオーケ)」でした。これは「セックスすることが相手との契約になり、二人の関係性と己の内面が永久に変更され、以後はそれが死ぬまで継続する」という価値観であり、セックスという行為に最大級の意味づけをし、ひたすらに「一穴一棒主義」を信奉する強い倫理観の表れなのです。裏を返せば、セックスした瞬間に失われる可能性の流動を担保し、少年の持つ無限の未来を異性から隔離しているとも指摘できるでしょう。

 かつてのオタクというのは本当に純粋な、無窮の愛がこの世に存在することを信じて、いつまでも探し続ける人たちのことでした。そんな我々にとって、ランスシリーズのエンディングが感動的だったのは、あの時代のすべての少年漫画がどこかであきらめて、それを手放していった先に、ただひとつ残された古い物語として、無窮の愛は確かに存在すると示してみせたことでしょう。つまり、バスタード時代の少年漫画が抱いていた「人生を永久に変更するセックス、そして至高の愛」という夢想に満ちたテーマを、ついには男性の視点から語り切ったのだと言えます。

 ともあれ、今回アニメ化された範囲だけでは旧世代のオタクたちが、なぜあれだけバスタードに熱狂していたのかサッパリ伝わらないと思いますので、我々の名誉のために、せめてアンスラサクス戦ぐらいまでは映像化してほしいものです。

アニメ「スプリガン」感想(6話まで)

1話まで

 スプリガンの名前をタイムライン上に見かけて、「あれかー、ロボットが変形するPCエンジンの横シューかー。『いえ、スプリガンMk.2です。きゃああっ』、え、お姉さん、出番それだけ?」とか声色をつかって遊んでたら、漫画のほうのアニメ化だった。ちょろっと1話だけ見てみましたけど、新宿プライベート・アイズのスプリガン版って感じですね(なんじゃ、そりゃ)。原作は80年代後半から90年代前半にかけて中高生だった男性の、実家の本棚を探せば必ず発掘される3大漫画のひとつーー残りはマスターキートンとサザンアイズーーで、陰キャのオタクに自己投影型のハマり方をさせた、罪深い作品であると言えましょう(夜中の台所で果物ナイフとテーブルナイフを逆手に持ってフーフー言いながら、教室にテロ組織が侵入してきたときのシミュレーションをしてましたよね?)。

 本作の提供するテンプレートとしては、16歳は主人公のオレか清楚なヒロイン、18歳は頼れる兄貴か妖艶なお姉さん、20歳以上はオッサンかオバハンで、30歳以上は世界の敵(ドント・トラスト・オーバー・サーティ!)で、40歳以上は完全な真空ーー「博士枠」でのみ老人の存在が許されるーーという世界観が挙げられるでしょう。この強固なフレームは長く少年漫画界を呪縛し続けましたが、かつての少年が漫画を卒業せず、中年を迎えてもそこに居座り続けた結果、いまや異世界転生ものーー中年の心を持った少年ーーへと変質してしまっています。女性の人生には「生物的な要請」としての抜本的なルールチェンジの段階がいくつか存在しますが、現代の男性は「社会的な要請」としてのそれを拒否し続けた結果、おぞましいことに「週刊少年ジャンプ」というルールだけで生涯を過ごせるようになってしまっているのです。

 話を個人的な体験へ戻しますと、スプリガンとは「自分で購入せず、他人の家で読む漫画」という適度な距離感を保っていました。当時、劇場アニメ化されたのを「世界のオオトモ」の名前にダマくらかされて見に行ったのですが、絵はキレイなのに脚本は支離滅裂で、セリフもなんだか聞き取りにくく、最後はCGくさい黄金の方舟が出てくるみたいな、スプリガンという作品の負の側面である「思春期への共感性羞恥」を誘発する仕上がりで、そこから完全に記憶の奥へと封印していました。今回の試聴でよみがえってきた忌まわしい記憶の数々を、いまは苦々しい思いで眺めております。あの頃、旧ソの強化人間とかスペツナズとかたくさん出てきたけど、実際はそれほど強いわけでもないことが判明したいま、次代の少年漫画ーー読み手は初老男性が中心ーーの仮想敵国はどこになんのかなー。ファンタジー世界でドラゴンとか魔王が相手ばっかりなのは、イヤだなー。転生してない16歳の少年が、令和の現実で大人を手玉に取る作品が、また出てこないかなー。

6話まで

 ネトフリ版スプリガン、配信分をすべて見終える。いやー、堪能しました。あらためてふりかえると、本作のシャドー・フォロワーたちーーあまりに深く影響を受けたため、それを公には表明していないクリエイターのことで、小鳥猊下にも多く存在するーーの作品群を映像化したものが、30年の時を経て原典へと還流しているような印象を持ちました。この場面って、あの作品のあれだけど、あの作品のあれって、じつはこの場面に影響を受けてたんじゃないの、みたいな。いつもの習い性で茶化して、「思春期への共感性羞恥を誘発する作品」みたいな書き方をしましたけど、6話までを通して見ると昨今の作品群と比べて、よっぽどまっとうな願望を描いているなあと感じました。「腕っぷしはめっぽう強く、学校の勉強はできないけれど、頭の回転は速く機転が利いて、あらゆる大物たちに一目おかれ、女性たちからは好意を寄せられ、世界を破滅から防いで人類を正しい方向へと導く、ひとかどの人物」って、青少年が抱く欲望としては「オレをイジメてパーティから追放したアイツらにチートスキルで復讐」みたいなものよりも、確実に「正しい」と思いますね。

 話が少しそれますけど、ループものや転生ものの醜さの正体って、つまるところ、生きることの本質である「一回性」を否定している点なのでしょう。どの作品も、ある決断にともなう後悔や失意など、「意志を示すこと」で生じた負の部分を解消することばかりに焦点が置かれている。人生において100%正しい決断などほぼありえず、自分自身ではないだれかのために、それを後悔ごと吞みこんで前向きなものへと変化させていこうという姿勢ーーときに気の遠くなるような主観時間を伴うーーこそが、多くのケースにおいて有効な処方箋であるのに、その事実をどこか歪めてしまう。加えて、ゲーム由来の「スキル」や「ステータス」なる概念を用いて、世界の広大さと複雑さを手に負える範囲に矮小化かつ単純化し、読み手にいつわりの理解と安心を与えている。ゲーム黎明期に乏しいロム容量の内側で現実を表現するために発明された要素ーードぎついTRPG者を招きよせそうな指摘ーーが、昨今ではより制約が少ないはずのジャンルにおいて、書き手の貧困なる想像力を補助するためだけに世界を狭める意図で逆輸入されているのは、なんとも皮肉なことです。スプリガンに代表されるかつての少年漫画は、広大な世界を広大なままに、未知の領域を未知のままに描いており、一方からもう一方へと至る変化が、やたら数だけは多い就職氷河期世代の加齢に由来するのだとしたら、そんなものに若者たちの未来を巻きこむなと考えてしまいます。

 さらなる脱線をしておくと、ファンガスの描く(この箇所、傍点付き)FGOの物語を私が愛するのは、それがかつての少年漫画と同じ系譜にあり、「一人の人生と人類の歴史の一回性」を高らかに肯定しているからでしょう。例えば、クリプターのリーダーがジーザスを依代として召喚され、いっしょにサバフェスで同人誌を作る話などはさぞかし面白くなるだろうと思いながら、「ファンガスは、絶対にそれをやらない」と強く信じられることが、FGOを続けている最後の理由でもあります(裏を返すと、そのラインが守られなくなれば、離れるという意味でもある)。

 ともあれ、ネトフリ版スプリガンは二期、三期と制作していただき、近年の「主流になるべきではない、中年どもの後悔を慰撫するためだけの作品群」を吹きとばして、2022年を中高生としてリアルタイムで生きる少年たちへと届くことを願っています。「レベル50のオマエがレベル99のオレに勝てるとでも?」なんて話、クソつまんねえだろ! もっとみんなで「精神が肉体を凌駕しはじめ」ようぜ! でも、ソメイヨシノだけはないわー、「お嬢様学校に通う霊媒体質で銃火器の扱いに長けた16歳の峰不二子」って、ナイナイ、それだけはないわー、ここだけリアリティ、まったくのゼロだわー。