猫を起こさないように
ゴジラ
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映画「ゴジラ-1.0」感想

 ゴジラ-1.0を見る。CGとVFXと美術がハリウッド級で、特にゴジラ本体の仕上がりはシンのそれを上回っており、邦画でここまでやれるのかとシンプルに感心しました。背ビレが屹立する熱線のギミックもよく考えられていて、終盤の戦闘における緊張感を大きく高めることに成功しています。どんなものを作ったところで、前作と比較されるだろうし、このオファーを引き受けた監督の勇気に対して、ただただ頭が下がりました。しかしながら、ドラマパートのひどさがこれらの長所をすべて打ち消して、評価をマイナスへと突入させるレベルにまで至っていることもまた、否定できない事実なのです。「登場人物たちが全員、近代的な自我と歴史観を持っているのはおかしい」みたいな高所からの批判はピー・エイチ・ディー取得のみなさんに任せて、役者の演技という観点から問題点を確認していきましょう。ドラマパートがどのくらいひどいのかと言えば、まず近年の是枝組常連である安藤サクラさえ、「もっともマシな演技をしているにも関わらず、大根役者に見える」ような有り様で、あらゆる登場人物が周囲の状況をいっさい忖度せず、感情のままに言いたいことを絶叫する、「銀幕の中にしか存在してこなかった日本人像」の典型例になっています(ここ20年ほど、特定の監督によるもの以外の邦画を見てこなかった理由を、ひさしぶりに思いだしました)。本作にキャスティングされているのは、近年において名優と呼ばれる方々なので、監督をふくめた現場の制作サイドが、だれも作品のトーンや演技プランを役者たちに提示しなかったことが原因なのかもしれません。最初にだれかが、全力全開の大声とマナコをカッぴらいた変顔スレスレの、いわゆる「舞台演技」をやったら、いっさいリテイクが出なかったのを目にして、同調圧力的に全員でそこへ芝居を寄せていった結果ではないかと邪推してしまいます。邦画における演技のひどさって、カメラの向こうの観客じゃなくて、撮影スタッフを御見物に見たてて声を張ってる感じで、演劇由来のものじゃないかって疑ってるんですけど、ハリウッドみたいな演技メソッドって本邦では確立されてないんですかねえ。もしかしたら、昭和中期に全共闘くずれがいっせいに業界へと雪崩れこんだ結果、「過去の伝統」を総括的な批判で根絶やしにして、たしかに存在した方法論を消失させてしまったからではないでしょうか、知らんけど。

 本作の監督とQアンノがトークしている動画を見ながら考えたんですけど、シン・仮面ライダーが俳優の演技すべてに徹底的なダメ出しーーというか、絶対にOKを出さないーーを行ったのに対し、ゴジラ-1.0は俳優の演技にいっさい口を出さず、各自の思うよう好き放題にやらせていて、結局どちらも成功したとはとても言えない仕上がりになっているのは、オタク気質の監督が「人間に興味がない」ゆえに起こってしまった事故なのかもしれません(意見を言えるサブが脇にいれば、避けられたインシデントにも思えますけど!)。ゴジラや軍艦の登場で醸成された高揚感による作品世界への没入も、作中のだれかがマナコをカッぴらいて絶叫した瞬間に虚構がやぶれてしまい、観客席に座っている一個の自分へと幾度も引きもどされるのは、本当に苦痛で苦痛でしょうがありませんでした。海外での評判は悪くないようなので、もしかすると日本語ノンネイティブが字幕で鑑賞するときには演技のクサみが脱臭されて、おいしくいただけるような塩梅になっているのかもしれません。「豪華絢爛に盛りつけられ、箸をのばして舌にのせた瞬間は最高の味なのに、その直後、鼻腔に充満するドブの臭気に何度もえづく満漢全席」みたいな映画体験に、自身の気難しさと無用の敏感さを呪う気分にはなりました。いったん印象が悪い方向へ傾くと、インターネットを介さない昭和の人権教育と平和学習に洗脳された一時期を持つ身にとっては、熱線からのキノコ雲や黒い雨を見ると、「もう制作サイドにひとりの当事者もいない悲劇を、エンタメの手つきで触っていいの?」という潔癖ささえカマ首をもたげてきます。シン・ゴジラによる先祖がえりから、「ゴジラとは、本邦の国難を体現するもの」という新たな命題が本シリーズの必須要件になるのだとしたら、今後の続編たちの先行きを極めて不安に感じるので、「ゴジラなんて、怪獣プロレスぐらいでぜんぜんかまわないんじゃないの?」と無責任な放言をしておきます。

 シナリオ自体も役者の演技を外して追えば、それほど悪くないのかもしれませんが、最後に気になった場面をいくつか紹介しておきます。主人公が「自分はもう死人なのかも」と2回目に発狂するシーンで、ヒロインの行動が中国の老夫婦のごとく相手の背中を強くさすりながら絶叫するにとどまったのは、明確に”ノスタル爺”案件ーー「抱けえっ!! 抱けーっ!!」ーーだと思いました。せめて、いまをときめく女優が役者根性をド見せて、OPPAIがIPPAIにまろびでれば、「うれしいな、さわーりたい」となって(となって!)、彼の苦悩はすべて雨散霧消したんじゃないでしょうか。あと、レバーを引いたら戦闘機の脱出パラシュートが開くのを、出撃前に因縁の整備士から知らされてたって話、どないやねん。パイロットへ知らせずに機構をしこんでおいて、贖罪としての特攻を完遂する直前に彼からそれを取りあげるのが、「粋な復讐」として両者のキャラを造形する上で最高の演出になるんやないかい! それを最後の最後でぜんぶ台無しにしやがって、このダボが! 「相模湾を見下ろす高台から、パラシュートが開いたのを目視確認して無言でニヤッ」くらいでちゃんと終われんのかい! コワモテの整備士やのに、泣きそうな顔で軍の無線を聞いて安堵しよってからに、ほとんどキャラ崩壊しとるやんけ! せやなかったら、ワシら観客の知性を虚仮にしとんのかい、オォ? それと、雪風の側面にローマ字で記載されている艦名が一部の場面で”YUKAZE”になっていて、史実どおりなのかチェックミスなのかわからず、モヤモヤしました。

質問:夕風という駆逐艦もでてきますが、YUKAZEはそっちでは?
回答:ああ! なるほど!

ゲーム「FGO第2部7章前半」感想

 FGO第7章前半クリア。前後編へと分割した理由がボリュームでなかったことは残念でしたが、内容的にはさすがファンガスの筆であり、他の書き手を寄せつけぬ頭3つほど抜けたクオリティに達しています。ただ、第6章と比べると物語の展開が幾分リニアーで、語り口もわずかに雑だと感じざるをえません。さらに、サッカーW杯ネタを仕込んでくる節操のなさやパロディの多用、リアリティラインをギャグ方向に下げて危機を回避する手法など、全体としてのフィクション然とした雰囲気は少し気になりました。しかしながら、これは各界のスーパースターたちが様々な記録や偉業をうち立てたあと、あらゆるライバルが背景へと消え去り、やがて己の過去と己自身だけを行為の基準とする境地に、ファンガスが突入したからだとも言えます。

 そして古くからの型月ファンたちは、20年以上前の設定集から引っぱりだされたORTなる「ボクの考えた最強生物」に大興奮の様子ですが、FGOからの新参者にしてみれば、体内で核融合反応を行うというくだりはあからさまに例の怪獣を連想しましたし、冒頭に登場した光の巨人とU-オルガマリーがアーツカードを使うときの「デュワッ!」というかけ声は、M78星雲の宇宙人へのあきらかな目配せを感じました。おそらく第7章後半で、「ゴジラ対ウルトラマン」をやりたいんだろうなーと推測するときの気分が冷めているのは、版権が存在しない偉人や英雄には女体化を筆頭とした好き勝手の狼藉を働きながら、版権の切れていない既存IPには気づかれぬようおそるおそるアプローチするその手つきが、結局はどちらも同質の根を持つとわかるからで、同人活動に出自を持つ会社の「育ちの悪さ」をいまさらながら見せつけられた気分でいます。

 FGO第2部における世界の危機が、既存作品のパロディへのオーバーラップによって解消するのだとしたら、それは昔からの同社ファンを大いに喜ばせこそすれ、新しいファンたちを白けさせるものでしかないと、老婆心から忠告しておきましょう。かすかに匂ってきたメタの香りに不安を覚えつつも、第7章後半とそれに続くだろう終章を、いまは心静かに待つつもりです。前半で描かれた「ウルトラマンが人類を好きになる過程」は充分に感動的だったので、ここからは既存IPのオマージュから離れ、ひとりで高く飛翔することを願っています。

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

アニメ「ゴジラSP(最終話)」感想

アニメ「ゴジラSP(6話まで)」感想

 ゴジラSP、最終話まで見終わった。感想としては、「ワンクール13話のアニメで最終話だけがつまらない。でもいいじゃないですか、12話までは毎回楽しませてくれたんだから、最後くらいつまらなくたって」。あれだけ両手がもげるくらいの大絶賛を毎週くりかえしていた理系クラスタの方々がモニョってるというか、トーンダウンしてる理由がわかりました。家人にすすめず、ひとりで視聴して正解だったと胸をなでおろしております。「監督の仕事に必要なのは、OKかNGを出すだけ」「アングルさえ決まれば映画になる」で大失敗したシンエヴァになぞらえて本作を評するならば、「科学と数学の専門用語と古典からの引用を並べておけばSFになる」「ゴジラ作品に必要なのは、歴代シリーズとジェットジャガーへの愛だけ」となりましょうか。観客席で皆が固唾をのんで見守る中、ラスト10分、原理不明のまま巨大化したジェットジャガーがゴジラの顔面にプロレスばりのトーキックを食らわせた瞬間、ゴジラクラスタは席から立ちあがっての大喝采、理系クラスタは背もたれに深く身を沈みこませての大落胆、はたで見てる非ゴジラファンの文系としては、この上ない愉悦のショウタイムでした。特撮モノとしてはキレイにオチたけど、サイファイとしては飛翔しませんでしたね。ネビュラ賞は難しいかもしれません(日本SF大賞ならヨユー)。そして、ずっとラインだけのやりとりだった男女が、物語の最後の最後で顔を合わせるんですけど、駆け寄るでも肉声を交わすでもなく、距離を置いて黙ったままニヤッと口の端を歪めるの、最高に理系って感じがしました。他人の不幸は蜜の味ではないですが、よりもいで咽頭に詰まったままだった溜飲が大いに下がったことは認めざるをえません。あと、シンエヴァ公開直前と直後の私の反応も、こんなふうに楽しまれていたんだろうなーと思いました。

 ゴジラSP、1話と13話を見返したけど、すげーわ。物語の全長を100%とすると、96%くらいまでハードSFを擬態し続けて、最後の最後で「サイファイだと思った? キャハハ、ざーんねん、トクサツでしたー! ジェットジャガーだいすきー!」とか叫びながら、白衣の腺病質のみぞおちに鉄板入りの革靴でナガブチキックねじこんでくる感じ。この展開が正のカタルシスになるか負のカタルシスになるかは、完全に視聴する側の属性に依るという作りになってて、どこまで意図的かはわからないけど、すげーわ。

アニメ「ゴジラSP(6話まで)」感想

 あんまタイムラインでおもろいおもろいゆうてるから、「ゴジラSP」最新話まで見てしもたがな。クレバーなハードSFゆう感じで、たしかにメッチャおもろいねんけど、こっからは完結してから見たほうがええかなゆう気持ちもあんねん。もうこれトラウマやねんけど、シン・ゴジラの影響をモロに受けた「正解するカド」ゆうSFに見せかけた空想(クソ)アニメがあって、半分くらいまでしか見てへんのに「これ傑作やで!」ゆうて家人にススメてしもて、えらい赤ッ恥かいたことあるねん。死んどったトカゲをシン・ゴジラで復活さしたのんに影響受けとるだけの共通点やったらええねんけど、こっちも本職やのうて小説家がシナリオ書いてるいいますやんか。ほんのちょっとだけ、イヤな予感がしてんねんけど、あ、やっぱアカン。こわなってきてしもたから、もう続き見んのやめとくわ。「正解するカド」の最終回んときマジギレで画面にパンチしてもて、モニター1台ダメにしとるからな。ブラウン管のときやったらいけてんけど、薄型テレビはもろうてダメやね。「ゴジラSP」やけど、最終回が放映されてからタイムラインに流れてきた感想みて、どないするか決めるわ。

 せやけど、最近はみんな作品の悪口ゆわんね。はじめは盛り上がっとったくせに、「パタッと話題に上らなくなって」しもて、その作品がみんなにみかぎられたんがなんとなくわかんねん。モルカーとかそんな感じやったやん。風刺とかフェチがもっと見れるおもてたら、映画のパロディに終始しだして、なんやのんそれって感じで、キャラのかわいさ以外の話題がいっさい消えてもた。最近はみんな、おのれの気にくわんようになったら、ハナから無かったことにしよんねん。それ、悪口よりもよっぽどひどい仕打ちやと思わへん? 通夜での夜を徹した悪口って、故人への愛の表明やと思うねんけどなあ。ワイ、大阪で育って京都で学生生活おくっとうから、茶化しとイケずが身についてしもてるだけなんやろか。まあ、「ゴジラSP」がカドみたいに終わってもたら、ダンマリやのうてちゃんと悪口ゆうて、こら見たアカンでってフォロワーに伝えたってや。ワイとキミとの約束やで。

 アニメ「ゴジラSP(最終回)」感想

映画「パラサイト 半地下の家族」感想

 『なんだかここで結婚したような気がするし、ここで生まれたような気がする』

 視聴後、最初に思ったのは万引き家族と同じ手法を使っているなということ。つまり、弱者による明確な犯罪行為へ感情移入させ、自分が同じ立場だとしたら同じ行動を取っただろうと思わせることで、現行の社会システムの不足や不備を可視化させるやり方だ。本作で言えば社会的階級と結びついた「臭い」がそれであり、執拗に臭いを言われた後に目の前で鼻をつままれれば、私でも殺すかもしれないと感じさせてしまうところが他のメディアにはない映画芸術の一種、暴力的なまでの伝播力である。前半の一時間はコメディタッチで描かれ、半地下に住む家族の貧しさを安全圏の観客として笑わせておいて、後半のパートでは貧しい人々を笑ってしまったその事実こそが差別に気づかず虐げる側と同じふるまいであることを強烈に突きつけられるという構成になっており、視界にあり理解もしていると思っていたものが全く別の何かに変じていく落差が見事である。万引き家族が枯淡の味わいだったのに対して、本作は彼の国の伝統料理を思わせる濃い味付けで、それぞれの社会に対する両作品の価値は完全に等価でありながら、後者がアカデミー賞受賞へと至った理由なのだろう。もう一つ要因を挙げるならば、彼の国はハイパー格差社会でありながら、対外的には巨大電子機器会社ときらびやかな芸能活動を全面に押し出して、実状を糊塗する宣伝ばかりが行われてきた。そこへ非常にリアルな社会風刺の作品が現れたのだから、初代ゴジラではないが、そのインパクトが西洋にとって大きかったのかもしれない。個人的なことを言えば、家人が彼の国の芸能イコール虚構へ耽溺していく様を苦々しく見ていたこともあり、西洋の審査員と同じく評価のパラダイムシフト的なものが生じた。この視点を持つ人物がいるなら、彼の国は大丈夫なのだろう。

 あと、是枝監督的な上手さを指摘するなら、金持ちほど西洋文化に傾倒してゆき、貧乏人の中に父を敬い救おうとする儒教精神が息づいているという描き方がそれだ。冷静に考えれば常に正となるテーゼではないのだが、物語の中への落とし込み方が巧みなので、否応に真実として受けとめさせられてしまう。社会の半数以上を占める貧しき人々を共犯者にする、狡猾きわまるたくらみだと思う。

 それと、ものすごいひさしぶりに韓国映画みたなー、いつ以来だったかなーと考えてたら、火山高ぶりだった。