猫を起こさないように
エヴァ
エヴァ

ゲーム「原神5章4幕・燃ゆる運命の虹光」感想

 原神の第5章を実装分まで読む。特に4幕について、画面内で起こっていることに1ミリも同調できず、これほど物語に入りこめなかったのは、ディシアの伝説任務ぶりかもしれません。その理由としては、受容のための心がまえができていなかったことが半分、ストーリー展開と演出のまずさが半分、といったところです。まず、今回の魔神任務をシロネンの伝説任務だとカン違いしてスタートしてしまったのが、ボタンのかけ違いのはじまりでした。と言いますのも、なぜか大型アップデートに必ず付随してきたフィールド部分の拡張がなく、「6つの部族から6人の英雄を選出する」という設定から、残りの3部族と呼応する新エリアが登場するまで、メインストーリーは先に進まないという思いこみがあったせいです。ナタのそもそものサイズ感も、宝箱の位置を示すトレジャーコンパスの解放前から、既存マップをすべて達成率100%にできてしまったくらいで、スメールやフォンテーヌをふりかえれば、同サイズの新規マップが当たり前のようにドンと追加されると予想するのは、それほどおかしなことではないでしょう。

 シトラリなる胡乱な人物ーーおそらくセリフの翻訳に失敗しており、中国語原文で読まないとキャラ造形がわからないーーの人探しへ同行していたら、あれよあれよという間に、ご近所の顔見知りぐらいの狭い範囲内で、なぜか6英雄が確定してしまい、ナタの全容も明らかになっていない状態から、アビスとの全面戦争がはじまったのは、旧エヴァで例えれば第拾六話Bパートの途中から、そのまま人類補完計画が発動したみたいなものです。そこから、長時間にわたって離脱できない戦略シミュレーション”風”の特殊モードへと移行するのですが、基本的にストーリーは一本道で、なにをしようと成功裡に進むため、ときおり挿入される勝敗率や損耗率などに、フレーバー以上の意味がまったくありません(FF11のデュナミスをやりたいのかな、とは思いました)。MGSを彷彿とさせる姉妹潜入パートも同様で、元ネタとなる和製ゲームから本歌取りを試みながら、57577の枠組みさえとらえきれていないような有様なのです。残念ながら、これらは中華のコピー商品や偽ブランドと、まさに同じクオリティになっていて、時間に追われた定期更新をそろそろ間遠にし、ガワだけマネた仏に魂を入れるための、テストプレイとリテイク作業を優先すべきだと進言しておきます。

 また、ロシアの上級将校に当たる敵方の人物ーー二つ名はそのまんま「隊長」ーーが、「祖国を戦争で滅ぼされたことがあるので、ナタの防衛に協力したい」みたいなことを言いだしたときには、現実と虚構がオーバーラッピング(笑)し、「オイオイ、どのクチがぬかすねん!」と関西弁による激しいツッコミが入りましたし、パイモンがいちいち民間人の戦死を見て悲鳴をあげるのにも、ほとんど初めて「ウザい」という感情ーー「なに、カマトトぶっとんねん! 悲しいけど、これ、戦争なのよねん!」ーーを抱いてしまいましたし、近所の顔見知り6人による謎の儀式によって、なぜか「全部族の一般人が死んでも復活できる」状態になってからの、アビスに対する大反攻と炎神の「一人ドラゴンボールZ」も、ご都合主義の臭みが強くはなたれた「偽りの昂揚」に感じられました。それもこれも、ホヨバのつむぐ物語には、「現在の社会状況や世界情勢へ向けた、批評的な視点」がどこか含まれ続けてきたからで、今回は「ロシア(相当の組織)と共闘して、なに/だれと戦うのか?」から意図をもって焦点をボカしたせいで、描かれるナタ防衛戦と勝利の喜びは、ウソと欺瞞に満ちたものに映ってしまいます。そうなると、戦争の残酷さを伝えるために、景品表示法から課金キャラは殺せないので、その係累を退場させたのも、作り手の打算的な思惑が透けて見えるようで、どこか鼻じろむ感じはありました。

 正直なところ、今回の第5章4幕においては、世界の実相に迫ろうとしながらも、深さが足りずに座礁した印象があり、ホヨバの苦手分野での底の浅さが割れてしまったことで、日本ファルコムやタイプムーンの「世界の深奥には迫らない、なぜなら売る商品がなくなるから」という姿勢は、もしかすると企業体としては正しいのかもなー、とほんの一瞬だけ思ってしまったことをお伝えしておきます。ただ、本編のあとに解放されたシロネンの個別ストーリーは、「母なる狂気」をミステリーじたてでネチッこく描いていて、あいかわらず最高でしたね。シロネン本人も「情に流されない、冷静かつ理知的な工学系ギャル」として、大いに株を上げました(レベルMAX、スキルMAX、聖遺物は軽く厳選ずみ)。やはり、中華のフィクションは大所高所から天下国家などを語らず、「家族の物語」「時間のSF」だけを書き続けるべきなのかもしれません。この2点においてだけは、まちがいなく他国の追随をゆるさないクオリティですもの!

ゲーム「ディアブロ・イモータル」感想

質問:ディアブロイモータルやらないんですか? 面白いですよ!

回答:アイポンでプレイを始めたものの、グローブのような両手を有する巨漢少女にとってあまりに操作性が劣悪であり、早々にPC版へと切り替えるも、スマホに最適化された低解像度のグラフィックが散見されるばかりか、ゲーム性までもケイタイに最適化イコール簡略化されてしまっており、アクションとしてはかなり大味であると言わざるをえない。ストーリーにしても、あいかわらず2までの固有名詞だけを流用した質の低いアメコミみたいな内容で、エンディングまでひと通りプレイしたあと、すでにディアブロ2Rへと出戻っていることをまず諸君にお伝えしておく。

 私のシリーズ遍歴を紹介するならば、初代ディアブロはなんかエロゲーをやるためのボードがブッささったPC98で、モデムをピーガー鳴らしながらテレホーダイ時間にプレイし、セーブデータがローカル保存なのをいいことにKing’s Sword of HasteやStorm Shieldをdupeで増やしまくってーー該当アイテムを地面に落として、すぐひろうみたいなウル技(テク)ーーいた生粋のBuriza-Doッ子であり、を人類史上最高のゲームとあがめたてまつり、をオークションハウス閉鎖くらいでアホらしくなって離れ、4のトレイラーを見て、「3のシステムでマップ間をシームレスにしただけじゃねえの?」と罵りながらも淡く期待することをやめられない、ディアブロ界隈でよく見かける、きわめて標準的なファンである。

 当シリーズ全体に持っている印象だが、ディアブロ1・2はエヴァ序破、3はエヴァQとだけ言えば、ここ2年ほどnWoを追いかけている君には、もう何の説明を付け加える必要もないほど、完璧に伝わったのではないかと思う。2までの開発陣はとっくの昔に全員Buriza-Doを退社しており、3以降はガワと固有名詞だけを残したベツモノなのである(序破の製作陣をほぼ引き継ぎながらベツモノとなったエヴァQは、さらに罪深い)。3はレベルMAX(60きっかり)「まで」を楽しむゲームなのに対して、2はレベルほぼMAX(94くらい)「から」を楽しむゲームになっていて、エンディングまでを一区切りとするプレイスタイルでは差異を感じにくいかもしれない。しかしながら、レベルMAXに到達してから過ごす時間が、やがて総プレイ時間の99%を占めるようになるハクスラにおいて、この違いは決定的かつ致命的になるのである。

 ディアブロのゲーム性はよくパチンコになぞらえられるが、2がアナログの地味な演出(チューリップぱかぱか)で射幸性の高い昔の遊戯台だとするなら、3はデジタルの派手な演出(CGエフェクトきらきら)で射幸性の低い今の遊戯台だと指摘できるだろう。そして、ご質問のイモータルは3のシステムを引き継いでいるばかりか、さらに最強キャラの育成には15,000,000JPYほどの課金が必要となっており、パチンコはパチンコでもカイジの人食い沼みたいなシロモノであることが、オープンベータの段階ですでに明らかとなっている。「かーっ、2のゲーム性ならそのくらい喜んでポンと払ったのになー、かーっ、2のゲーム性だったらなー」などとのたまいつつ、千五百万円の入ったビニル製サイフの口をビチビチゆわせながら閉じている次第である。なので、PvPを目的としたクランなどには、くれぐれも誘わないように! 人間関係への恐怖感と劣等感から、他人の関心と時間をまずカネで買おうとする類の、愚かな金満家なのでな!

雑文「物語のスケールについて」

 ワンピース(衣類)やシネバ(呪詛)からの客の離れ方を見ているとそれは、懐かしさ半分と惰性半分でずっと追いかけてはいたものの、次第に商売と骨がらみになって純粋さを失ったクリエイティブに対して、じつは心のどこかで嫌気がさしていたことに、鬼滅を筆頭とした近年の、伏線をキチンと回収してバランスよく終わるコンパクトな物語群によって、気づかされた結果ではないかと思うのです。物語は長くなればなるほど、物語単体としての純粋さを失って、語り手の人格や人生と骨がらみになり、作者の変節が物語の変質につながる段階を必ず迎えるような気がします。

 例えばグイン・サーガも50巻ぐらいまでは純粋なファンタジーでしたが、最後のほうでは作者の自意識を代弁する何かに成り果ててしまったのですから(それまでいっさい登場しなかったアルド・ナリスの母親が突然あらわれ、病床の息子を数ページにわたって改行無しに罵り続けるなどの、物語の自走性ではない、作者の内発性によるストーリーテリング)。

 そして物語への興味ではなくて、作者への関心で読むようになってしまうと、ストーリーへの好悪よりも語り手への愛憎が意識の前面に出てきて、エンターテイメントの観客の本来である楽しみや喜びを味わえなくなってしまうのです(私にとってのエヴァがそれ)。

 ともあれ、この二十年かけられ続けてきた集団催眠ーーテレビの形状がボックスからプレートに変わっても、まだ画面には青い猫型ロボットや入道雲パーマが映ってるーーから我々は、ようやく目覚めようとしているのかもしれません。時代の変化というと大げさですが、長い長い夏が終わり、エンターテイメントの季節が成熟の秋へと移った年として、本邦の2020年は記憶されるのでしょうか。

ゲーム「FGO第2部第5.5章」感想

 FGO2部第5.5章クリア。都合、8時間くらいかかった計算。ネタバレなしの感想? 「些か」「言の葉」への「想い」が強すぎますな。

 ゆかい。ハア? 小鳥猊下であるッ! ンンンン、以下はバリバリのネタバレですので、未クリア者はミュート推奨ですぞ!

 2部第5.5章、エフジーオーの本編としては「些か」食い足りないが、坂田金時を主人公とした少年漫画と考えれば、まあまあの仕上がり。しかしながら、書き手がファンガスでないときの避けられない瑕疵として、「世界の謎については表面をなぞるばかりで、真実へはどうにも肉薄できない」という点があり、アルターエゴ・リンボという大悪党を数年越しに倒す話なのに、イマイチ盛り上がりには欠けました。どんなに良い書き手であっても、ことエフジーオー世界においては最善の書き手であるファンガスが常に比較対象としてあるため、ハナっから勝てない試合をさせられるのはかわいそうだとは思います。なので指摘するのは酷なんですけど、今回の書き手はストーリーラインが細くなると無意識にか語彙を厚塗りするというクセがあり、それゆえ登場キャラクター全員が一個の自意識から延長された人格だとわかってしまうのです。完全に単独の作品ならば見過ごされるだろうことを、最善との比較から指摘されてしまうのは恐ろしいと思いました。個人的なことを言わせてもらえば、1部第4章のキャラクターたちがすごく嫌いなので、第七節くらいまでは読み進めるのがしんどかったです。バベッジとかパラケルススとか、どうひっくり返しても魅力的になりようがないキャラへテキストを割くぐらいなら、清少納言をもっとお話にからめて欲しかったなー、と思いました。もっとも、彼女はファンガスの持ちキャラなので、年末に向けて監修の時間が取れなかったことが、申し訳程度の出番(平安京なので出さないわけにはいかない)で終わってしまったことの理由ではないでしょうか。

 あと終盤で、「人類愛がないと人類悪になれない」とか言い出したのには「うわー、やっちまったなー、ファンガス怒るぞー」って思いました。この前後もそうですけど、今回の書き手は語彙が重たいわりに、ストーリーテリングが単純で直線的なんですよね(逆にファンガスは平易な語彙で重層的に物語る)。不安になったのか、最後の最後でカルデアの面々に「でもリンボの言うことだから、真実である可能性は薄いよね」とか言わせて予防線を張っていたのには笑いました。リンボってミステリアスでインパクトのある隠れた人気キャラだと思うんですけど、異星の神との関係もほとんど明らかにされず、なんだか雑に処理されちゃって残念だなーって感じです。それと終幕はいつもファンガスの監修がガッツリ入って、強烈なクリフハンガーで終わるのが常なのに、今回は「あっちのオレ、どうだった?」「ゴールデンでしたよ!」みたいなシャバい終わり方で、「ああ、年末のサプライズに向けてファンガスが忙しくて、修正の手が回ってないんだな」と思いました。

 ここのところ、来るイベント来るイベント、ぜんぶに文句つけてる気がしますけど、何度も言いますが私にとって、書き手がだれであるかが最も重要なのです。つまり、スターウォーズはジョージ・ルーカスに関わってほしいし、エヴァは庵野秀明に監督してほしいし、グイン・サーガは栗本薫が書いたとこまでしか認めないし、ペリー・ローダンは読む気にならないし、FGOはファンガスにすべてのテキストを書いてほしい、単純にそれだけのことで他意はありません。

映画「シンエヴァ冒頭10分公開前夜」

 ヘイ、ユー! 話題のエヴァ・アプリはもうインストールしたかい? 最初にヴィレ(笑)かネルフ(キリッ)かの所属を選ばされ、いったん決めると二度と変更することができない、ゴキゲンのクール仕様なんだ! イングレスじゃあるまいし、情報アプリでなぜ陣営を選ぶのか!

 (ガッツポーズで上を向いて)これは、回答結果によって続編の展開が決まるのに違いない! やった、ポッと出のヴィレに数で負けるわけもなく、ネルフの圧勝で破の続きが決定だ!

 (突然うなだれて下を向いて)よく見ると、ヴィレのロゴがネルフより少し上に配置してあるな……おまけにネルフのロゴはQで使われた文字化けアイコンになってる……これはQの続きであることがもはや確定的に明らか……

 (ガッツポーズで上を向いて)いやいや、あのエヴァのこと! 他のアニメと差別化するための物量作戦でどちらの続編も作ってあり、劇場数を倍増して2つの結末を同時公開くらいはやるに違いない! 旧ファンよし、新ファンよし、作り手よし、まさに三方一両得、ウィン・ウィン・ウィンじゃないか!

 (突然うなだれて下を向いて)でも、カントクは悩んだけどヴィレを選んだって書いてある……これはやはり、Qの続編だというメッセージに違いない……

 (ガッツポーズで上を向いて)いや待て、作曲家のツイート画像には2冊の脚本が写っている! これは間違いなく2種類の続編が作られていることを裏づける証拠じゃないか!

 (突然うなだれて下を向いて)でも、参加声優のツイートにはBパートまでしかアフレコが終わってないってあるな……公開までの期間を考えれば、やはり作られているのは1つだけ……Qの続編である可能性が濃厚……

 (ベロを長く突き出した入道雲パーマ、異様に長細い両腕をぐるぐる回転させながら)キモッ!! キーモキモキモキモキモキモキモ、キモォッ!!

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」感想

 過去の日記を見返したのだが、前作については何も触れていないようだ。しかし、今回は言わずにはおれない。ネットの片隅で細々と書き継がれておる少女保護特区という更新は、旧作が与えた命題を極めて私的な形で解消したいという願望に端を発している。十余年を繰り返していれば、圧倒された体験は時間へ風化するし、同時に己の、主に精神面での力量が向上するため、完全にそれを無化する段階に達したと、直近の更新では感じることができた。読み手の感想はおくとして、個人的には確かにある種の克服にたどり着いたと思った。

 しかし、実のところ、またしても先回りされていたのだ。少女保護特区最新の更新で提示された、世界よりも手の届く一人の少女を、という構図である。誰にも求められないという点で究極に内的な作業を経て同じ場所にたどり着いていた、同時代性への嗅覚を内輪褒めする気には到底なれない。なぜなら、相手方のそれは結論ではなく、未だ途上に過ぎないからだ。そして、旧作で最後までもつれた個人の内面を精算する段階を早々と終えて、物語は世界の謎へと飛躍してゆきそうな気配である。追い越したと思えば、また先にいる、実体を伴う蜃気楼の如き、時代を象徴する化け物としか形容できない作品である。少女保護特区のエピローグを更新しようとしていた手が完全に止まったことは事実だ。無論、蟻が象へ向ける執着との指摘に反論する言葉はない。だが、少なくとも私にとって、少女保護特区は旧作と完全に等価だったことだけは記しておきたい。

 日記的な蛇足を少々。第17話から第19話までの流れがコンマ秒刻みで身体に染み付いているため、後半、旧作と同じ構図の絵が多用されるあたりで、生理的な違和感が没入を妨げる格好になった。そして、Quickeningは胎動初感の意であり、次回予告に知的な背負い投げを感じて驚いた。あと、次はアカペラバージョンになると予想した。

映画「シンエヴァ」冒頭10分感想

 シン・エヴァの冒頭公開を見て、自分でも驚くほどにガックリきている今の心情をここに残しておきたい。

 エヴァ新劇場版、序と破までは明快にエンタメ活劇路線だったし、カントクと作品の間に適切な距離感があった。新しく会社を立ち上げ、エヴァという大看板を意識的に利用して、アニメ製作の社会的位置をきちんと確立することを主眼に動いているように見えた。タイアップを含めたマネタイズをきっちり行い、スタッフにはスキルに応じた金銭的還元を怠らず、公開後は全記録全集でいかに創造したかの舞台裏を後から来た人たちが理解できるよう丁寧に残して、持続可能な文化プラットフォームとして日本のアニメを未来へ繋げていこうという確かな意志が感じられた。個人的には、カントクの公人としての性格が前面に押し出されている感じがしたわけ。登場する大人たちも旧作よりはずっと成長していて、それぞれが次世代への責任を果たそうと動いていたし、作品の内外にわたるそういった成熟のおかげで、見ていて大きな安心感があった。

 それが、Qでガラッと変わってしまった。序破のエンタメ活劇から純文私小説路線に切り替わり、カントクと作品の距離がゼロになって、旧作のように彼の情動がモロに前面へ押し出されるようになった。サードインパクト後の世界設定が嘘くさく空回りしているのに、「男と女」「セックス」「石女」などのモチーフだけが妙にリアルで生々しくて、両者のバランスが非常に悪いがゆえに、ひたすら不安感だけを掻き立てる作品となってしまった。意識的かどうかはわからないが、Qではカントクの私人としての性格が前面に押し出されている。

 公開後、自信をもって送り出した作品に対する批判的な受け止められ方にカントクは苛立っているように見えたし、Qについてだけ全記録全集が発売されていないことはこの推測を裏付ける。Qにおける大きな変節は、東日本大震災に影響された(御大が被災地にカントクを連れていきさえしなければ! 彼は眼前に広がる光景に「衝撃を受けなければならない」し、自分はそれに「作品をもって応えなければならない」と真面目に考えたのだと想像する)ゆえだと私は確信している。

 もしかすると、シン・ゴジラの大成功によってその呪いは解かれたのではないかと、どこかで期待していたのだ。しかし、公開された10分余の冒頭は、あえて言う、失敗作だったQの続きとなっていて、魅力のない新キャラと舞台設定を画面密度と情報量(空疎な造語が主な)で無理矢理に押し切ろう、マイナスから物量でメーターを振り切ることで前作ごとプラスに転換しようとあがいているとの印象をしか受けなかった。正直、序破の段階では「迫りくる滅亡を前に、小異を捨てて大同へ団結する人類」みたいな展開を期待していたのだ。今度こそ自らが生み出したセカイ系を打ち破り、相容れない他者と協調しながら世界の存続を目指す--シン・ゴジラでは、それができていたのに! そもそも、協調すべき他者としての人類はQ世界では死に果ててしまっており、もうどこにもいないのだった。

 「科学技術ではギリギリ届かない空隙を、人の知恵と努力で補って勝つ」という、かろうじて我々の現実の枠内に収まる(ように思えた)制約から来ていたエヴァの醍醐味は、重力制御なんてもの(古代人のオーバーテクノロジー!)が出てきた時点で、作品世界のルールの底が破れて、雲散霧消してしまった。依拠する現実を失い、次元跳躍、時間遡行、死者蘇生、何が出てきてもおかしくないこの状況は、自由を突き詰めた先の狂気に達していて、シン・エヴァの何を楽しめばいいのか私にはわからなくなってしまった(少し気持ちが動いたのは、パリの街が復元したところと、USBの裏表を間違えたところだった)。

 じゃあ、公開されたら見ないのかと聞かれれば、初日のできるだけ早い回に見に行くだろう。内容に関わらず、三回は見るだろう。若い諸君からの「イヤなら見なきゃいいじゃん(笑)」の軽口が聞こえるようだが、二十年以上(二十年以上!)を人生と並走した作品の完結編である。二十年以上を連れ添うDV夫について「別れればいいじゃん(笑)」のご忠告に従ったとして、DV夫と過ごした二十年が人生から消えることはないし、平穏な日常に現れた彼はヨリを戻そうと、また昼間から超絶技巧のセックスで迫ってくるのだ。

 あと、エヴァQと最後のジェダイは、連作なのに張られた伏線には特に意味が無いことを示し、シリーズの持つ暗黙のお約束(不可欠な)を壊した点で、非常に似通った性質を持つ作品だな、と思った。どちらも「別にそれをやること自体は否定しないけど、わざわざ固定ファンのついたシリーズでやらなくてもいいんじゃねえの? あれか、新作だとそのアイデアじゃ客がつかないからか」という気分にさせられる。ライアン・ジョンソンはポッと出のお調子者だからまだ許せた(許せない)が、カントクはエヴァの創始者その人なのだからいっそう罪が深い。

 それと、素朴な疑問なんだけど、どんどん敵役でエヴァもどき人造使徒(あるいは使徒もどき人造エヴァ)が出てくるけど、あれ、誰が作ってるの? ネルフってもうおじさんとおじいさんの二人しかいない組織(副司令が黒幕の電源プラグを手ずから抜きに行かなければならないほどの人手不足)なのに、ねえ、誰が作ってるの?

 え、AVANT2あるの? マジで? これはやはり、破の続きバージョンも用意されて……(以下、ループ)

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」