猫を起こさないように
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雑文「中年が終わって、パーティが始まる」

 パーリィズ・オーバー・ゼン・ミドルエイジ・ビギンズを読了。現実との間に薄皮が一枚あるように生きているとか、きっと「人生ってウソみたいだ」と思いながら死ぬだろうとか、かなり近い生活実感を持っている人物で、もしかすると世代という言葉でまとめられるのかもしれませんが、「逆だったかもしれねェ…」という感慨はあります。結局のところ、すべてのパーソナリティは幼少期の体験を色濃く反映するものであり、筆者が徹底して言及を避けている家族との関係のほうを読ませてくれないかなーと思いました。天性の露出癖から、聞かれてもいないのに自身のことを申せば、いまチーズを好物としているのは、粉ミルクでの子育てに対する罪悪感からか、母親が離乳食でチーズを与えまくった(支離滅裂な行動)からだし、タオル地の感触に安心を覚えるのは、夜泣きに疲れはてた母親がベビーベッドへぎゅうぎゅうにバスタオルを詰めて己が抱擁の代わりとしたからです。弊害として極度の閉所恐怖症となり、小学生の時分に体育マットでス巻きにされたことが人生でもっとも発狂に近い瞬間であり、いまだに思いだすと手のひらへ汗をかきます。現実との間に薄膜があるのも、やわらかい時期の精神に向けられた、たび重なるダイレクト・アタックを少しでも弱めるための防衛規制の名残りでしょうし、残念ながら幼少期の体験から逆算するだけで、だいたいの個人的な性質には説明がついてしまいます。その「個性の凡庸さ」に、早い段階で気づいておかなければ、弱い風邪にすぎないものをこじらせる結果となります。ようやく中年が終わって、パーティを始めつつある「暴れ大納言」からは、「早めに夏休みの宿題を終わらせておかないと、バケーションの予後は悪くなる」という話をしておきましょう。近年では「末代の大騒ぎ」にかき消されがちな、当然の前提をだれかが残しておかないと、じきにキャンセルやカウンターが機能しなくなりますからね!

 じっさい、それは宿題と表現するような大げさなものではなくて、平均寿命から逆算しても生命の時間を4分の1ほど使うだけの作業ですし、貴君の人格や生き方に深刻な影響を与えるほどのものではありません。未経験者は「先天2割、後天8割」と考えがちですが、じっさいは「先天8割、後天2割」ですので、まったく気負う必要はないでしょう(さっきと違うこと言ってる)。いま7月を生きていて未着手のみなさんには、早めに宿題へ取りかかることをおススメしておきます。個人的な観察の範囲だけでも、8月の中盤へ差しかかるほどに、識字と発話に問題の生じるケースが有意に増え、4分の1が1になるリスクを高めるようですから。また、推測するしかありませんが、この宿題は8月の終盤へ進めば進むほど重さを増すようで、「やらないこと」へのアナーキーかつ優越的な高楊枝が、次第に背中の冷や汗へと変じてゆき、聞いてもいない過剰な言い訳を、周囲へまきちらかすようになります。自分を作った者たちの衰弱による完全な自己消滅への自覚と、社会の豊かさへ何も加えずフリーライドしている事実への後ろめたさが、彼らの内面でジリジリとまさってゆくからかもしれません。「世界に恩恵を受けた2が、世界に2をお返しする」という公式の、なにを足し引きする必要もないエレガントさに対して、そうではない別解を証明しようとする試みのほうが、大きな物量をともなってしまうーーそもそも”not even wrong”だからーーのは避けがたいことながら、いま7月を生きているみなさんは、そういった「非証明ノイズ」に惑わされずに、実証されたシンプルな完全解を生きてください。

 最後に、正直なところを述べておきますと、筆者の言う「インターネットが叡智の集積となる未来」を夢見た時期があり、「テキストはすべて全世界に公開」を基本とし、書いたものに値段をつけるなら「100億円、さもなくば無料」を信条とする身にとっては、このぐらいの内容で「1500円(!)を払わないと読めない」という事実が、本書における最大の皮肉だなーとは思いました。カネがあることで避けられる8月後半のミゼラブルは少なくなく、みなさんは7月を生きるうちに、先人の知恵を骨身のものとして体得しましょう。ともあれ、(浅い塹壕から上半身をのぞかせながら)ウェルカム・トゥ・アンダーグラウンド、虚構日記でした。

アニメ「16bitセンセーション」感想(最終話まで)

 アニメ「16bitセンセーション」感想(2話まで)

 16bitセンセーションを最終話まで見る。なんにでも「いっちょかみ」する酷薄(こくすい)オタク歌手がナガブチばりに「この国のタカラぁ!」と歌いあげるわりに印象の薄いオープニング曲も、無理やり歌詞の字数をあわせるための「なれど」語尾がヘンだなあと思いながら、最後には慣れてしまいました。ストーリー展開は悪い意味での「予定調和はずし」になっていて、例えるならチュンソフトのノベルゲーで分岐を水増しするためにむりくり入れられた、奇抜なバッドエンド・ルートみたいな中身をトゥルー・エンドに持ってきてる感じなのです。面識のある知人が脚本を担当している回もあるんですけど、「どうひっくり返したって面白くなりようのないプロット」をわたされての敗戦処理のようで、気の毒に感じました。あのさあ、外野でふんぞりかえってないで、キミとかキミとかがちゃんと出張ってシナリオを担当しなきゃダメじゃん! 同人誌の表紙サギみたいなもんじゃん、これ!

 あらためて全体をふりかえっても、「突然、切断的に会話を切りあげて、あらぬ方向へと走りだす」のを延々と映す場面が非常に多くて、思わず画面の前で「おまえはトム・クルーズか!」とツッコまされたくらいです。もしかするとこれは、「奇矯な性格をしたオッサン高校生が、上から目線で女子を値踏みしてから、他のロケーションへと移動する」という、いにしえの恋愛ADVに対する批判かオマージュではないのかと疑ったくらいですが、結局のところ、脚本で処理できないほどプロットがまずいだけのことでした。黎明期からネットに棲息する人物たちが、自らを自虐的に称して表現する言葉になぞらえていうなら、この作品自体が「エロゲー老人会」としか形容できない中身になっており、結果として「エロゲー業界は、なぜ衰退したのか?」という問いに対する、意図せぬ痛烈な回答になってしまっています。

 もちろん、何人かの優秀なストーリーテラーを一般文芸へとハネあげるスプリングボードの役目をはたしていた時期を、否定はしません。ですが、半島や大陸をふくめた東アジアにおけるフィクションレベルの急激な上昇を目のあたりにする現在、かつてのエロゲー隆盛の正味が「16bitセンセーションぐらいのクオリティ」にすぎなかったことをあらためて突きつけられたようで、どこかくやしい気持ちでいっぱいです。「テキストサイトが地方大会なら、商業エロゲーは甲子園」ぐらいの感覚があった時代の生き残りとしては、まことに残念でなりません。

雑文「『なぜ書くのか?』あるいは新規読者への手紙(2022.1.1)」

質問:拝啓 小鳥猊下(猊下って尊称ぽくてこの後に様をつけるか迷うのですが、アカウントへの敬意を込めまして)様

初めから言い訳がましいのですが、猊下のテキストの力強さ、確固たる視点を持って主に批判的にかかられた文章の前にただ無心に頷くことをするばかりで、何度読んでも「熱量、文量、長い文を読ませる技術、とにかくスゲ~」としか感想が出ず、ひっそりと猊下の文章を楽しませていただいておきながら拡散の一つもできなかった怠惰なもやし野郎からの私信になります。

いや、本当にすごい文章で、慇懃無礼な態度を取りながらときに下品、ときに俗的な表現を用いつつ、私にはとても思いつかない表現で猊下の感じたことにまつわる熱量を浴びることができる、いわば「小鳥節」を味わえる機会を得たことは、2021年の収穫でした、本当に良かったです。

大勢の最小公倍数的な感想を最もキレのある言葉で表現できたもの勝ちな風潮の中で、猊下の長文は生き生きとした個人の血の通った文章のように見えました。猊下が紡がれる文中で刻まれた奇妙なリズム、いや脈動を聞きながら(古のインターネットの無礼講的な粗野な温かみを感じつつ)、貴公の文章を、大きな小鳥の懐に抱かれているが如く味わっていた一年でした。辛いとき、寂しいとき、いつもそこにいて確固たる感情を見せつけ、その熱をそっと分けてくれた猊下のnoteに、twitterに、いつも救われていました、ありがとうございました。

具体的な感想が出てこない時点で当方の読解力や記憶力などお察しなのですが、とにかく猊下の文章をとても楽しませていただきました。誰にでもアクセスできる環境においていてくださり誠に感謝いたします。

ことしは例年に勝る寒冬のようです。ご自愛くださいますよう。

読者より

回答:ここは1999年に開設した「猫を起こさないように」というテキストサイトの分社なのですが、2021年になって新たな読者を得られたことは喜ばしい限りです。動きの少ないアカウントに思われがちながら、ヒマさえあればエゴサしたりnote記事の閲覧数を確認したり、「いいね!」がつこうものなら跳びあがって喜び、新規と思われる方のSNSなどは特にじっくりと読みこんでおる次第です。テキストによる発信をいくら繰り返せど周囲の状況は無音に近く、本当にだれかが読んでいるのか、読まれているとして意図は伝わっているのか、上下の区別さえない無重力空間を漂流するようで、ただ狂わずいることにさえ力を使うというのが実際のところです。このたび質問箱へ投稿いただいた感想を読み、大げさではなく薄れかけていた自分の輪郭を上書きされた気分になりました。かつて物語をめざしていた時期はあまりの無反応に苛立ち、ある奇特な御人に完全におんぶだっこで同人誌まで出しましたが、ついに期待したレスポンスは得られませんでした。最近では「感情の記録」「記憶の足跡」として、己が読み返すことを主に想定したテキストを書いています。特に虚構作品への言及は、キチンと調べて体裁を整えれば批評や評論になるのかもしれませんが、知識の不確かさや事実の誤認までもが、その時点での「人格の記録」のような気がするのです。言語を用いて精神のゆらぎを検出し、世界の混沌にあってその均衡を維持する。この意味で、いまの自己認識は「詩人」とでも言えましょうか。テキストで何を志向するかは、この20年でかなり変遷しましたが、「より多くの人に届いて読まれたい」というコアな部分だけはずっと変わっていません。貴君のような新しい読者がさらに新しい読者を呼び、そうして何か化学反応が起きて、新たな状況が生まれればと祈るような気持ちでおります。