猫を起こさないように
アリ・アスター
アリ・アスター

映画「ボーはおそれている」感想

 「ボーはおそれている」をほんとうに、心の底からイヤイヤ見る。最近では、「2時間30分以上の映画には、監督のオナニー要素が必ず入りこむ」との確信を強めており、「3時間な上に、アリ・アスター」という事実だけで、相当に視聴する意気をくじかれます。しかしながら、ジョーカー以降「ホアキン・フェニックス主演の映画は必ず見る」という誓約をおのれに課しているため、陰鬱なるドカチンの日々から無理やり3時間を捻出して、まったく気のりのしないまま、シアタールームのソファにほとんど身体をしばりつけるようにして、視聴を開始したのでした。ここにいたるまでの心象が最悪だったせいでしょう、すべてが主人公の妄想か幻覚か走馬灯か判然としない最初の1時間は予想外に楽しく見れて、ヒステリー少女のペンキ鯨飲から外科医の家を脱出するくらいまでは、それこそデビッド・リンチの新作ぐらいの印象が維持され続け、我ながら異様に高い評価を与えていました。それもこれも、ホアキン・フェニックスによる精神遅滞の演技がすばらしく、いちいち動きがスローで言葉の出にくい中年男性の様子は、いらだちで観客を作品世界に引きこむ奇妙な魅力があり、レインマンやフォレスト・ガンプやアイ・アム・サムに連なる傑作なのではないかという期待さえあったのです。けれど、物語が進むにつれて、アリ・アスターの「見せたい絵ヅラと予定調和的な不幸がストーリーラインに優越する」という個性と言いましょうか、悪癖が頻繁に顔を出すようになると、次第に虚構が壊れはじめると同時に、きわめて西洋的な理屈っぽさが浮かびあがり、没入の熱が急速に冷めていくところは、ミッド・サマーと同様の体験でした。

 シーンごとまるまる削除してもストーリーになんの影響も与えない、絵に描いたようなスネーク・フットである演劇村パートーー「お父さんは童貞なのに、どうしてボクたちが生まれたの?」「(無言)」ーーを終えると、いよいよ「三流の監督がパンチの足りない自作に加えるのは、決まってエログロである」を地でいく展開となってゆき、屋根裏の「おCHINPOモンスター」ーー「ドヤッ! 自宅のバスルームでチラ見せし、外科医も指摘していた睾丸肥大という伏線を、みごとに回収したったで!」ーーがメガテンのマーラ様ばりに暗闇から出現した瞬間に目が点(笑)となり、心の機微は上下動を失って真一文字のフラットラインへと変じ、わずかに残っていた作り手への敬意も完全に雨散霧消して、そこからエンディングまではケイタイをさわりながら、ただスクリーンを”ながめて”いました。最後のコロセウムにおける弾劾裁判ーー怒れる母親の握力で手すりが外れて水面に落ち、スローモーションで水冠があがる、映画史上もっとも無意味な演出ーーを見ながら、このタワーリング・シットを一瞬でも大デビッド・リンチの名に比肩させてしまったことを、深く恥いる気持ちになりました。アリ・アスターの創作態度は、「観客をとことんイヤな気分にさせてやろう」という負のモチベーションを基軸としていて、正直なところ、ストーリーテラーとしては三流以下の力量しかありません。視聴を終えたいま、本作はルーパーとかノープとかザ・メニューとかラストナイト・イン・ソーホーとかターみたいな「雰囲気クソ映画」の系譜に連なるものであったことがわかりました。センスの良さを自認する若い芸術かぶれの方々は、こういった映画をついほめがちですが、あんまり声を大きくしすぎると、ライアン・ジョンソンにスターウォーズを壊されたのと同種の悲劇を、再び地上へまねくことにもなりかねません(もっとも、スターウォーズ級のIPなんて、もう人類には残されていないのですが……)。

 そして、ボーの支離滅裂な被害者としてのふるまいが、人類の運行にカケラの影響もない娯楽の範疇にとどまればよかったものを、監督がインタビューに答えた「この映画はユダヤ人の内面を表している」という発言によって、ミドル・イーストで進行中の惨禍へ向けた命題として焦点化してしまいました。すなわち、この世紀の大凡作には「ジューはしいたげられている」という視点が混入してしまっており、主人公のする「あれだけひどい目にあい続けて、これだけ面と向かって罵倒されたんだから、突然の激情でウッカリ相手を殺すまで首をしめても、過剰防衛なんてヤボは言わずに、”I’m sorry.”だけでゆるしてくれるよね?」というウワメづかいの哀願は、まさに遅滞した精神そのものの恥ずべき痴態として、世界から強く非難されるべきものとなったのです。ホラ、いつまでも過去のうらみにブンむくれてないで、住む場所をタダでもらったことと、地域の新参者として共生させていただいていることを、右や左のダンナ様に心から感謝しなきゃダメでしょ? ありあすたー(ありがとうございました)!