猫を起こさないように
アポカリプスホテル
アポカリプスホテル

雑文「Apocalyptic STARRAIL and Continuous GQX」(近況報告2025.7.10)

 崩壊スターレイルの最新バージョン3.4を読了。メインストーリー部分は、もはやゲームとして遊ばせる努力を放棄しているが、ナタ編後半で投入されるシナリオがことごとく失速ぎみの原神に比べると、たいへん高い熱量がこめられていて、大いに作品世界へと引きこまれた。先に予測していたように、オンパロスは無限の演算能力を持つ装置による”シミュレーテッド・リアリティ”であることがついにあきらかとなり、これまでに体験してきた「世界の崩壊へとむかうギリシャ悲劇」は、登場人物を同じうして3355万335回くり返されてきたことが示される。「膨大なテキストと細密な演出でつむがれてきた人々の想いは、それでもなお、プログラムされたフィクションにすぎず、現実との連絡は絶無で少しの影響もあたえられない」という絶望は、おそらくホヨバという会社が市場での規模を拡大させる過程にいだき続けてきたもので、神の被造物である人間を似姿とした人形が、ハードロックをBGMに神へ一矢むくいるという手描きのアニメーションは、「若く青くさい、熱情の切実さ」ゆえに強く胸をうった。この「虚構から現実への反逆行為」の実行者であり、のちにオンパロス世界の観測主体だとわかるファイノンというキャラクターは、壮麗かつ破天荒な綺羅星の如き他の英雄たちとは異なり、勤勉かつ実直な良識人として描かれてきた。失敗にいっさいの言い訳をせず、おのれの弱さを認めた上で、日々の鍛錬でそれを克服しようとする姿勢は好ましいものの、いささか生真面目すぎて人間的な魅力にはとぼしいと言わざるをえない。「親は婿として欲しがるが、娘は恋人に選ばない」タイプの、やや面白みに欠ける人物なのである(崩スタ未プレイ勢には、ジークアクスのエグザベ君を想起してもらうとわかりやすいと思う)。のっぺりとしたその特徴のなさは、じつのところ、驚愕の謎解きへと転化するための、「ミステリー小説における、真犯人からの視線そらし」であったことが判明し、アベンチュリンを前例に経験していたにもかかわらず、まんまと同じ手口にひっかかってしまったわけである。

 さらに、3355万335回のニーチェ的”永劫回帰”を追体験するパートは、古いオタクのたとえながら「エンドレスエイト」を想起させ、薄暗いシアターでプレイしていたことと相まって、ほとんど気がくるうかと思った。「観測者にとって”正しい”世界を求めて、無限個の試行をくり返す」物語ギミックは、太古のエロゲーであるデザイアがその原型を考案し、まどマギなるコピーキャットによって爆発的に人口へと膾炙させられたものだ。同様の物語類型として、直近ではジークアクスが記憶に新しいが、本作においては明確に次回のコラボ先でもあるFateの本歌どりを意図したのだろう。ここでまた、ジークアクス方向へ脱線しておくと、総集編による劇場版やブルーレイ販売の予告が、不自然なまでに避けられている現状について、いまにしかできない予想を述べておく。各話タイトルに話数の表記がないことから考えて、ズバリ、テレビ放送した12話へ新作の12話プラスアルファを挿入した「全26話の完全版」制作が、水面化で進行しているのではないだろうか。スタジオの体力面と金銭面での不安は、今回のメガヒットによって払拭され、パッと思いつくままにならべると「省略されたクランバトル回」「コモリ少尉とエグザベ君の交流”回”」「主人公とコモリ少尉の親睦”回”」「主人公失踪後の母親・同級生・運び屋回」「主人公とヒゲマンの特訓回」「アルテイシアと本ルート生存者の暗躍回」「最終話のエッセンスを3話に拡張(シュウジのループ回含む)」「登場キャラそれぞれの後日談」ぐらいのエピソードを、完全版において物語の大きすぎる余白へ埋めていくはずだと放言しておこう。

 ここからさらにアポカリプスホテル方向へと脱線し、本テキストは崩壊スターレイルという本筋から離れて、複線ドリフトしたまま終わると思われる。同作を最終話まで見たのだが、ゲストキャラにとどまると考えていたタヌキ一族が物語の中心にすえられて、主人公の属性である”永遠と停滞”の対比として「時間経過による成長と変化」を担当することになったのは、意想外の展開だった。6話までの感想にも書いた「昭和の風俗紹介」という印象は当たっていて、未確認飛行物体を召喚する呪文からはじまり、セーラー服反逆同盟(!)を思わせるスケバンのいでたちーーパーマネント、紫のチークとアイシャドウ、足首までのロングスカート、風船ガムという徹底ぶりーーまで、あると信じていたメインストーリーそっちのけで、徹底的に脇道のスラップスティックをつらぬく”ひらきなおりっぷり”には、もはやある種のすがすがしささえ感じたぐらいである。やがて、その「ドタバタ無法」は、結婚式と葬式を同時に挙行したあげく、祖母の遺体を手品の余興でもてあそぶという、往年の筒井康隆を彷彿とさせるブラックユーモアの絶頂へと達するのだった。ロボットたちの創造主である地球人が帰還する最終話にも、期待していたような”コッペリア的悲劇”はみじんも混入せず、最後の最後まで人をくった展開のまま、物語は幕を閉じてしまう。全体として、昭和末期から平成初期に国営放送で全52話が放送されていたアニメのサブシナリオだけを集めたような構成になっていて、これはもう国営放送で全52話のアポカリプスホテルを制作するしかない(政治家の名を冠した、例の構文)。終わる。

アニメ「アポカリプスホテル(6話まで)」感想

 タイムラインが毎週ジークアクスに沸騰することへの逆張りとして、生粋のキャピタル・ウェイストランドッ子なことも手伝って、アポカリプスホテルを6話まで見る。この作品、なんと竹本泉(!)がキャラデザを担当しているおかげか、「宇宙船サジタリウス」や「YAT安心!宇宙旅行」のような”ザ・昭和のSFアニメ”というおもむきになっていて、毎回のゲスト宇宙人?もバラエティに富んでおり、とても楽しい。試聴しながら、なぜか昨年に放送された終末トレインを思いだしたのだが、あちらは「大好きな戦車に少女を乗せたらうまくいったので、大好きな電車に少女を乗せてもうまくいくのでは?」ぐらいの気軽な思いつきからスタートした企画が、物語の終盤に進むにつれて、脱線からの横転という大事故を引き起こす様は、悪夢のような一大スペクタクルだった(「原作なしアニメは、1話のおもしろさが最大になりがちだよなー」などと無責任に感じたのをおぼえている)。ざっくりあらすじをお伝えすれば、「こころざしと偏差値の低い少女が、こころざしと偏差値の高い少女に向けたチクチク言葉」に端を発した思春期のインナーワールドの話で、結局のところサイファイとしては飛翔しないまま、「男性作家が少女に世界の謎と命運を背負わせる」例の物語類型をなぞって、尻すぼみの地味な結末で終わってしまった。

 その一方で、アポカリプスホテルは少女の見かけをした存在を主人公に置きながら、これまでのところ内面の描写というよりは他者との交流に力点がある印象で、未来のイヴやフランケンシュタインのような「非人間に仮託した、父イコール造物主との関係性」へと、テーマは収束していくような気がしている。どちらも少女を物語の主体にしながら、両者の質のちがいが監督の性別にだけ起因するとすれば、なんとも即物的な結論であり、自省をともなった、やるせない気分にはさせられる。さらに、冒頭で挙げた昭和のSFアニメに視線をむけると、かつて多くの冒険譚の主人公は、男や少年たちであったことに気づく。彼らの成長を描くためにはイニシエーションとして、それを選ばないこともふくめた「暴力とセックス」を”必ず”通過させねばならず、後頭部に右手をあてながら令和の出ッ歯がおずおず告げる、「男女の性差は、物心ともに強調しない方向でオナシャス」というタテマエにそぐわなくなってきたからであろう。しかしながら、これがあらゆる物語ーー終末トレイン、迷走の果てにどこへ行った?ーーからストーリーテリングの起伏をうばってしまう遠因になっているような気がしてならない。なんとなれば、少年は時間の経過とともに低い場所から上昇しながら、「変化し、獲得する」ことで何者かにならなければならないが、少女は時間の経過とともに「一過性の特別さ」を喪失し続けて、高い場所から只人へと降下していくからだ(その後、さらにメタモルフォーゼの段階をむかえるが、ここでは論旨に合わないため、割愛する)。

 誤解をおそれずに言うならば、主人公の性別によって「獲得の物語」なのか「喪失の物語」なのかが、否応に決まるのである。ここでインプレッションを得んがために、nWoトレインはあえてガンダム方向へ脱線したいと思う。ジークアクスの設定が、グロス販売のアイドルユニットから影響を受けすぎているという批判を見かけたが、真におそれるべきは「30代、40代、50代になっても、10代の少女が好き」という多くの男性にとって身もフタもない事実を利用した、攻成り名遂げたアラカン監督さえもあらがうことのできない、この女衒商法の巧妙さであろう。一定の年齢に達した個体を”卒業”と称してグループから離脱させ、つねに新たな若い個体を補充することで総体を維持する”スイミー方式”は、「もっとも繁殖に適した条件を満たす細胞に強い魅力を感じなければ、効率的な種の再生産は見こめない」というオスの本能を逆手にとり、オスだけでなくメスたちにも、その欲望に応じることへの対価を用意し、チョウチンアンコウのイリジウムのように暗闇へ誘蛾の光をはなつ、邪悪な男性による奸佞邪智のたくらみの極北なのである。ジークアクスもそうだが、近年になって目だってきたのは、「少年のようにふるまう少女」を主人公にすえた物語群で、暴力とセックスを経由せずにーーもっと言えば、それらはモニター外の男性にあずけてーー「獲得をともなった上昇的変化」を目指そうとする試みなのかもしれない。水星の魔女は脚本の遅延で大失敗に終わったので、新しいガンダムが最終話でこれを達成することを、ひそかに願っているのだった。そして、7話のサブタイトルにおける”リベリオン”なる稀少ワードのチョイスは、小鳥猊下の小説の一節「本質的にrebellionが不可能である苛立ち」から、インスピレーションを得たにちがいないのである(ぐるぐる目で)。

 いつものごとく、だいぶにそれた話をアポカリプスホテルにもどすと、タヌキの協力でエイリアンの共通語を理解したあとは、異星人たちの文化や文明というより、彼らの言動に仮託した「昭和の風俗紹介」へと物語の屋台骨が傾いてきている気がするし、「出会って4秒」みたいなネットミームーーググッって元ネタを知ったときは、腰を抜かしましたーーは、竹本泉キャラに発話させるセリフとしては、いささか品位と品性を欠いてはいないでしょうか(やっかいなオールドファン)。また、各話で数十年単位の時間経過が生じているのに、登場キャラをふくむホテルの備品にまったく経年劣化がないーーベッドシーツなんて、住みにごりの引きこもり兄のタンクトップみたいになるはず(わかりにくい例え)ーーのも、中華のフィクション群を経てしまった身には、なんだかもの足りないところで、「時の流れによる摩耗」をキチンと描写するべきだと思うんですよね。映画化の決まったーー陽気なオッサンである主人公を、陰気なオジサマであるライアン・ゴスリングがどのように演じるのか、不安は絶えないーープロジェクト・ヘイル・メアリーで「脳のクロック数と生物の寿命は、居住する惑星の重力によって決まる」みたいな話があったように記憶していますが、物語の後半では後発のSFとして「定命の者の、定命の程度」を大きなスケール感ーー原神で言うところの「たとえ肉体は永遠を獲得したとしても、魂の摩耗はわずか千年を耐えない」ーーで表現していただきたいところです。

 あと、本作は劇伴の一部にオタクのみんなが大好きなジムノペディ調の楽曲を採用しており、人類滅亡後のダルでアンニュイな雰囲気を作りだすことに成功しているのですが、オープニング・テーマも同じ曲調で作られているせいでしょうか、メチャクチャ音痴でヘッタクソな歌唱に聞こえてしまうのは、数学と音楽の素養が絶無な”トーンデフ耳”のせいでしょうか? みなさんには、これ、どんなふうに聞こえてるの?