猫を起こさないように
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映画「トラペジウム」感想

 劇場公開当時から、様々のオタクたちによる正負の感情がうずまいているトラペジウムを、ようやくアマプラ配信で見る。全体的な印象としては、「男性の性欲フィルターを通さずに撮影した、思春期の少女たちのお話」で、なぜか「きみの色」を思いだしました。パッと見は、地方アイドル・グループの結成から解散までを追いかけるストーリーでありながら、その本質は、異常者であることに無自覚な東ゆうの言動を愛でる映画だと断言しておきましょう。未見の方にもわかりやすいよう、彼女の異常性を少しずつ位相をズラして例えるなら、理由もなく白發中の三元牌に強いこだわりがあり、「とても背が高いのに、なぜバスケ選手にならないんだろう」「ひどく太っているのに、なぜ相撲とりにならないんだろう」に類する思考の型を有していて、おそらく「女性の身体に男性の心」を持つ人物です。最後に挙げた性質は、思春期の少女にとって一過性の場合もあり、女子校の王子様が大学でブリブリの姫になるのを観測したことがある方もおられるでしょう。この現象を誘発するのがなにかと申せば、蛍光物質にむけたブラックライトのごとき「オス度の照射」の有無であり、令和のフィクションにおいてはバキやタフに代表される、ほとんどギャグへと突き抜けないと、発露をゆるされない種類のパーソナリティでもあります。もし本作において、東ゆうの協力者であるカメラ小僧が範馬勇次郎の0.01%でもオス度を有していたら、物語の展開がまったく変わっていた可能性はあります。

 少々それた話を元へもどしますと、作品世界そのものが「アイドルであること」を全力で称揚するアイマスやラブライブなどとはちがって、トラペジウムにおいてその特別性を信じているのは、登場キャラの中で東ゆうただひとりであることが、彼女の異質さをきわだたせていると指摘できるでしょう。アイドルなる職業に人生で一度たりとも魅力を感じたことのない者からすれば、「若い肉に価値があり、換金性まで有することを知った女性の、人生の予後は悪そうだな」ぐらいの感想しかないのですが、狂犬・東ゆうはこの冷めた視線に逆らうように、「ちがう! 特別な人間は発光するんだ!」と異様な想念を画面外へむけて吠えたててくるのです。偶像発生の初源を問えば、それは「神殿や河原や娼館や奴隷市場における、旦那衆への歌舞音曲」であり、かつては”必ず”売買春をともなう生業だったのです。「非常に整った造作」という稀少の例外こそあれ、多くの男性は「特別な情報を付加された肉」にしか性的な興奮を感じられないためかもしれません。その歴史的な営みから肉の媾合(媾合陛下!)を切りはなした上で、「一晩に一人」という物理的な限界を拡張する、動画配信やコンサートを通じた不特定多数との”まぐわい”が、現代におけるアイドルの本質だと言えます。かような穢れた実態について盲いたままで、「アイドルはみんなを笑顔にする」と「恋人のいないアイドルは高値で売れる」を同じ口から発することのできる東ゆうが、常軌を逸した妄想を破格の行動力で実現して、運痴や理系や整形などの「売春宿で値のつく少女たち」を手練れの女衒のように見初めて、いつわりの”トモダチ”へと籠絡してゆくさまは、ある種の恐怖と、誤解を恐れず言えば、清々しさの入りまじった光景でした。

 ここで確認しておきたいのは、彼女を動かしているのは名声欲ではなく、まして性欲や金銭欲でもなく、「金閣寺は燃やすべき、なぜって美しいから」へほとんど近接した、”狂人の美学”だということです。トラペジウムという作品への評価は、「東ゆうの異常さを、はたして受認できるか?」にすべてかかっており、ここからは個人的な話になってしまうのですが、彼女の言動にはたいへん身につまされるものがありました。なんとなれば、東ゆうの「アイドルになれば、なにか特別なことが起こる」という、根拠を持たないがゆえの強烈な思いこみは、「テキストを書けば、なにか特別なことが起こる」と四半世紀を書き続けて、何者にもなれずにいる小鳥猊下のそれと、奇妙な相似形を成していたからです。東ゆうには、「必ずアイドルになる」という妄執とともに、10年たっても20年たってもオーディション会場に現れる怪人として、界隈における”口裂け女”の逸話にまで昇華されていってほしい。そうして、若い肉と審査員からの失笑を買い続け、何者にもなれないまま、むなしき希望だけをいだいて、アイドルへの憧れに溺死してほしいのです。私の目には、「四者四様な、女のしあわせ」を描くエピローグは読後感を整えて、映画パッケージとしての体裁をつくろうためだけに用意された、東ゆうのような人物がけっしてたどりつくはずのない、虚栄に満ちたまぼろしにしか映りませんでした。

 「アイドルだとは明言されていないが、何者かにはなれた」ことを示す、数年後の東ゆうへのインタビュー場面なんて、あんなのはスタジオを借りて自腹で劇団員をやとって、彼女の妄想を台本で撮影させた自作自演のものにちがいありません! 小鳥猊下と同じ妄念をいだく東ゆうが、過ぎゆく時間に破滅しないのだとしたら、そんなのあまりにも都合がよすぎるし、なにより小鳥猊下がかわいそうじゃないですか! 公立校出身で、容姿にすぐれず、理系の才能もなく、実家も太くなく、オスとのつがいにもなれない東ゆうへ、「アイドルになれないまま、アイドルを目指し続ける」以外の道なんて、残されていないんですよ! フィクションだからって、ウソつかないでもらえますか(けだし名言)!

雑文「学園アイドルマスター、あるいは篠澤広について」

 一時期、たびたびタイムラインに流れてきて気になっていた学園アイドルマスターをダウンロードし、3時間ほどプレイ。同シリーズはブラウザ版の時代から片目でその存在を認識してきており、音ゲー版を少し遊んでいたこともあるが、課金をするまでハマるということは、ついぞなかった。本アプリはシステム面において、ウマ娘の後発であることを強く感じさせる作りになっており、同一キャラをくりかえし育成することで、アンロックによって初期の能力値が底上げされてゆき、時間をかけて高い評価を得ていく流れになっている。登場するアイドルたちは、いずれも魅力的に描かれているが、その中でも、いや、20年近くにわたるアイドルマスター・シリーズにおいても突出して異質な存在が、篠澤広である。二次元キャラクターとしては、綾波レイ以来の大発明ではないかと、真剣に考えている。短いズボンからストンと棒のように落ちるガリガリの両脚は、まさに拒食症患者のそれであり、きわめて病的なシルエットをあたえられている。女子に女子たることを期待しない「広」というそっけない名前の背後には、理系の研究職にでもついているのだろう、感情の起伏に乏しい両親の存在を想像させる。この少女は数学と物理の天才で、飛び級の末に14歳で博士号を取得しており、自身の研究室まで構えているような発言さえある。理系分野においては、人生でただの一度も挫折を経験したことがなく、大差が大差に見えないような圧倒的な能力で水のようにすべてを得てきた彼女がアイドルを目指す動機は、絶対的に能力の欠落した分野において、「ままならないこと」「うまくいかないこと」「どうしようもないこと」を経験したいという、刃牙シリーズにおける「敗北を知りたい」最強死刑囚のような、被虐の欲望なのである。

 篠澤広を称揚するために、だれもを不快にさせる極端な言説から始めるとすれば、本質的にアイドルなんてものは、「セックスしたい」とか「痛いほど勃起する」などの下半身ベースの欲望を、「この娘を推している」やら「舞台で輝いている」やらでパラフレーズしただけの、高級娼婦の変形にすぎない。古くは巫女や花魁のような、見てくれの整った若い肉へ、さらに文化的・経済的な付加価値を与える現代的な装置が、アイドルなのである。誤解をおそれず言えば、本作における、いや、過去のアイドルマスター・シリーズにおけるキャラクターたちは、絢爛な見かけの内側でいずれも「若い女性としての魅力を最大化させるため、歌やダンスや演技のスキルを磨く」という文脈を、ついぞ外れることがなかった。篠澤広は、ちがう。もっとも成功しそうにない分野で、これまでの人生に存在しなかった「失敗の甘美さ」という自身の生き血をすすりたいと欲望していて、そこには「商品価値のある、若い女性」という自意識が、寸分も介在していないのである。うまくいかなかったレッスンを一日の終わりにふりかえるとき、マゾヒスティックな悦びに輝く彼女の表情へ劣情をいだくのは、共犯者にさえさせてもらえない男性側の一方通行な投影なのだ。以前どこかに同じことを書いた気がするが、この「一方通行性」こそ、逆説的にもっとも不適格な存在へアイドルの資格を照射しており、荒々しい凌辱さえも「個人的な体験」として失敗の悦楽の裡に回収されてしまい、彼女の人生に寸分の影響も残すことができない狂おしさは、きっと耐えがたいものだろう。娼婦の群れの中にまぎれこんだ、異質な自己愛モンスター、それが篠澤広である。

 最初は、花海姉妹の関係性を今西良と森田透になぞらえて語るーー酒場でヤクザにからまれて透がピリつくところへ、良が天真爛漫に「ちゃんちゃきおけさ」を歌って場をおさめ、スジモノたちをファンにしてしまう際の対比などーーつもりだったのだが、彼女の存在ですべてブッとんでしまった。よろしい、インターネットに四半世紀あまりを住まう、電子妖精たる小鳥猊下の永久アバターのひとりとして、ここに篠澤広を認定するものである。

アニメ「推しの子」感想(第1話)

 推しの子、第1話拡大版?を見る。艦これの最終海域ゲージ破壊から気をそらすために再生したのですが、後半は画面に目が釘づけとなり、終盤はあまりの面白さに腰が抜けました。ちなみに、イベント海域は試聴に邪魔なので、丙に落としてクリアしました。ナヒーダとか瞳の中に星のあるキャラが好きなので、漫画版も「うちの子、きゃわー!」みたいな回だけ目を通したことがありましたが、スマホ読みに特化した最近の作品ーーコマ割とふきだしと台詞のフォントが不自然に大きく、背景は小さな画面に見えないので無しか簡素ーーだったため、原哲夫がデフォルトの昭和オタクはそこで読むのを止めたのでした(エヴァ・フォロワーとしてタイムラインに上がってくる怪獣8号も、同じ理由で読まなくなった)。

 最初はアイドルマスターかラブライブ、あっても「底辺アイドル残酷物語」ぐらいだろうと思って見はじめたので、私の常として予想を外されたことへの驚愕が高評価につながっている側面は否定しません。きわめて言語過剰な作劇であり、シェイクスピアみたいに死ぬ寸前の人間がいつまでもしゃべり続けたり、親を亡くしたばかりの子どもがネットの書き込みへ作者の憑依したような罵倒を延々と述べたり、バランスが悪いと感じる部分は確かにあります。しかし、以前どこかで書いたように「品質の違いを平均でならして、下限との差で上限を浮かび上がらせる」集団アイドルの楽しみ方がわからない人物には、星野アイの描き方はかなり深く心に刺さりました。「欠損への給餌によって地獄から輝くカリスマ」こそが人々の欲望をあおりたてるのであり、今西良や森田透を至高の存在とする者にとって「いかなる現世の汚辱を経ても穢れざる聖性」が死によって完成するのは、じつに見事なアイドルの「解釈」であると、大いに首肯させられたのです。

 最近、若年男性アイドルへの性被害がネットでのみ取りざたされていますが、栗本薫のやおいで育った私にとってそんなことは当たりまえの前提すぎて、何が悪いのかわからないくらいです。「だれからも性的に求められる至天のチャームなのに、セックスによってたわめることも支配することもかなわない」という事実に身を焼く地獄の焦燥が、アイドルへ向ける感情の正体なのではないですか? ともあれ、「アイドルもの」としては90分で完全にテーマを昇華させたので、2話以降に語られるだろうサスペンス要素へ興味が持てるかについてはなはだ疑問ですが、推しの子、第1話だけは本当にオススメです! それと、露国みたいにそろそろ「転生もの」は法律で禁じられるべきではないでしょうか。過剰に生産されすぎていて、特に若年層の自殺の何パーセントかを、確実に後押ししてると思いますよ。

雑文「ルンペン的生活者の手記」

 ノトーの運営がまたぞろルンペンの記事でフレイミングしておるようだが、「スマホでnWo!」は過去サイトと比べても相当に読みやすく、提供されているフォーマットには感謝しきりである。そして、通勤や出張の合間にどこへも届かなかった作品をノトー上で読み返すことは、うらさびしくも楽しい時間だ。

 さて、自己選択的ルンペンなる概念については、特にロスジェネ世代が過敏に反応しているように見受ける。それは戦場の如き歳月ーー才覚と努力だけでは、生き残るのに充分ではない苛烈な環境ーーを過ごした経験から、いま現在の立ち場がいかほどであろうと、我々全員の社会的自認が「特別に運の良かったルンペン」にとどまるからだろう。私は生き残った方のルンペンだが、私の額をねらって放たれたはずの弾丸が逸れ、周囲の同胞を殺し貫くのを何度も何度も見てきた。なぜ私が死ななかったかを説明するのに、自身の能力を挙げることだけは絶対にないと言える。つまり私が生き残った理由は、運が良かったか、神に選ばれているかのいずれかというわけだ。小鳥猊下なるを構成する卑屈と諦念と高慢と自己愛は、まさにこういった時代背景によって形作られてきたのである。ゆえに、ちんぽおめこを連呼する躁の汚濁と、少女保護特区の終幕のような鬱の清浄は、私の中でまったく矛盾しておらず、両者は常に行き来する場所なのである。

 先日、移動の合間を使って5年ぶりぐらいにMMGF!を読了した。巧拙はおくとして、書かれている中身のあまりの偽りのなさに涙がこぼれた。同時に、これを繰り返せば技術の向上は見込めるのだろうが、この内容でダメだったなら私が私である限りは、もう何をどうやっても仕方がないとも感じた。高慢と自己愛から転落したその卑屈と諦念は、アイドルとセックスワーカーの隣接にも似ており、現代的な病理の形象化がすなわちキング・ルンペン・小鳥猊下の正体なのだろう。

 いやー、ルンペンに言及した文章だけでなく、こんなルンペンが書いた文章まで分けへだてなく掲載してくれて、ありがとう! ひと昔前なら、駅や公園の便所壁に記述するしかなかったわけだから! 弥栄、弥栄、ノトー運営の未来に栄えあれ!