猫を起こさないように
鬼滅の刃
鬼滅の刃

ゲーム「激闘!エオルゼア(FF14奮戦記)」

 エオルゼアで不健康に麻雀しかしていない自キャラを不憫に思い、薄目で少しだけメインストーリーを進めてみる。面白くないこともないが、親を間接的に殺した相手にサービスを受けている居心地の悪さが常につきまとう。FF14のための実験と称してFF11にアイテムレベルを導入した狼藉は、試みに足の悪い老人の秘孔を突いて殺しかけるレベルだったし、FF11のデザインを剽窃した種族や敵キャラを目にすれば、愛する人の生皮を剥いでかぶった猟奇殺人者を想起してしまう。ふりかえれば、FFシリーズの中で12と14だけが他の作品たちと地続きになっていないように思う。前者は想像力のオリジナリティ、後者は想像力のプレイジャリズムによってそれぞれ特異な存在となっているのだ。ともあれ、若干の紆余曲折を経て、再び私のエオルゼアは雀荘サイズへと戻ったのであった。HAPPY END!

 なに、今日はプレステ5の発売日だったというのか! もはや私は次世代ゲーム機(死語)に対して、ドライブがてら近所の電気屋を10軒ほど回るぐらいの関心しか示せない。でも途中、「本日はフリーでの販売はありません」という貼り紙を見かけ、キショクマンメン・ステイトで「オーッ、オフコースお金は払いマスネー! ハウマッチ・シュッド・アイ・ペイ?」っつったら、「ハア?」って顔してミーに恥をかかせた店員は殺します。誤解が無いように付け加えますと、有機物が無機物に変じる瞬間へ責任を持つという意味で「殺す」と言いました。って、その一連のムーブ、かなりプレステ5に執着ありますやん! 関西弁をやめると言ったそばから流暢なネイティブ発音が出て申し訳ないが、たとえ買えたところで遊びたいソフトが一本もない。ってそれ、ただのすっぱいブドウですやん! 数週間の加療を要する言語障害で申し訳ないが、プレステ5専売であるFF16が発売されたらプレイしてやらないこともない(えらそう)。

 FF14にも感じたことだが、この制作者はとにかくネーミングのセンスがひどい。ヴァリスゼアって名詞を見た瞬間、のけぞりながら「だっせー!」と叫び、叫んだ余勢をかって思わず後方宙返りしてしまうほどダサい。「よし、英語で悪徳を示すヴァイスを使ってヴァイスゼア……は直接的すぎるな。い行で考えてみるか。い、き、し、ち、に……ヴァリス、これだ! なぜかわからないが夢幻の戦士みたいなイメージもあるし、ファイファンの世界観にぴったりじゃないか! (己をかき抱きながら)おお、我がエオルゼアの表裏となる背徳の地、其方の名はヴァリスゼア……!!」とかなんとか言いながらモニターの前で失禁してそうだ。おいコラ、地名ってのはてめえの自意識から出てくるもんじゃねーんだよ、多くの人たちが暮らす歴史から出てくるもんなんだよ! なに、シリコンバレーのネーミング方式にならいました、だと? バカモノ、あれはもともとサンタクララバレーだろうが! この西洋かぶれのキラキラネーム野郎め、蛇落地悪谷さんを見習いやがれ! FF11の制作者が「三日三晩考えて、ヴァナディールという単語がひらめいたときは、これで勝ったと思いました」っていうような確かなものづくりの感覚が、なぜ組織文化として根付いてねーんだよ! 意識高い系の自称カリスマばっか軟便みたいに輩出しやがって、ぶちころがすぞ! 思わず激してしまい申し訳なかったが、これは結局のところクリエイティブの真の上澄みは個人の才能からしか発せず、組織に接ぎ木できないことの証左かも知れぬ。

 関心を得るためだけにまた意図的に鬼滅方向へ脱線していきたいが、あのさー、鬼滅の刃のユニークさは固有名詞の発想にもあると思うんだよね。パッと見、キャラの特徴を中二病的感性でムリヤリ漢字に押し込めただけで、鬼舞辻無惨とか最初は「なんじゃそりゃ」って思ったけど、ケンケンフクヨーするうちスルメみたいに味が出てくる。これはやはり、作者の人格に強く紐づいた言語センスとしか言いようがないと思うゼア。ちなみに、私のオススメのゼアはボブ・ディランの伝記的映画「アイム・ノット・ゼア」である。諸君のオススメのゼアもぜひ教えて欲しいゼア。

 タイムラインにて「FF14はストーリーが良い」とのツイートを見かけ、「ほんとにござるかぁ?」などと疑いつつも、ときどき雀荘から出てメインシナリオをぼつぼつ進めていたが、テレポで移動してはフラグを立てるだけのおつかいが続くばかりで、いっこうに面白くならない。たまにさしはさまれるオートリーダーのダンジョンも、前衛なので近いカメラに山盛りのエフェクトで何が起こっているのかわからないまま終わる。ここ一週間での進展はと言えば、麻雀で卓を囲むときに”LIGHT PARTY”と表示されるのどういう意味かなー、光のパーティって意味かなー、とか思ってたら、”FULL PARTY”に対する”LIGHT”なのがようやくわかったぐらいだ。

 そんで今日、帝国軍(笑)のアルテマウェポンを倒すのを目的としたラスダンと思しき場所へ突入することになったわけ。けっこうな頻度で音声つきのイベントシーンが始まるんだけど、なぜかスキップできないの。奇矯な語彙のヘンな文章をいい声で朗読されるのに精神的ダメージを受けつつも、フルパーティのエフェクトまみれでむりくり進行していくわけ。敵方の最重要人物たちがわざわざ手の届く範囲へ親切にも姿を現してーー現実のボスは決して姿を現さないまま、ダメージかどうかもわからない遠隔攻撃をこっそり重ねてきてて、気づいたときには削り殺されてるーーくれて、よくそれで重要な役職につけたなとびっくりするような精神病とまごうごたくばっか並べてくんだけど、結局ぜんぶ暴力で解決するのはJRPGの悪い部分を濃縮しててすごい笑える。あと、なぐりたおされたボスが「それだけの力があるのに、なぜ俺の考えがわからない」とかアホ言ってくんだけど、黒人のヘビー級チャンピオンにアジア人の独裁国家元首が「すごいボクシングが強いくせに、なぜ共産主義思想を理解できないんですかあ!」とか言うみたいな滑稽さだなあ、と思った。

 じつは裏でプロメアっていう劇場アニメーーポップな色調で線が少なく動きが激しいグレンラガンみたいなヤツーーをアマプラで流しながらプレイしてたんだけどーーどっちもガワは新しいのに語られる内容は昭和みたいな野暮ったさで、両作品から音声を伴って流れてくる負の相乗効果により、ひさしぶりにいい年をしておたくを止められないことを恥じいる例の鬱々とした気分にさせられました。

 そうこうするうちにエンドロールが始まって、なんか各国首脳(笑)の演説が始まるんだけど、どれも小学校の校長が児童に語るみたいな中身なのね。ゲンナリしてそれを聞きながら、声優とかアナウンサーとか話業の人をあらためて尊敬する気持ちになりました。どんなにつたなく破綻したスクリプトでも、成立しているように演じてみせるんだから! 結局、FF14のストーリーの良さはわからないままでした、すいません。

 オススメされたストーリーを読むためにFF14のプレイを続けているが、どうもすべてのストーリーが縦方向へリニアーにつながっていて、FF11とは異なり順にすべてのシナリオを消化していかないとエキスパンションにはたどりつかないらしく、くだらないおつかいをテレポで消化するのが苦痛でしょうがない。戦闘システムも理解できてきて、最後にはレベル99のキャラでスキルの時間管理をしながら正しい順でボタンを上手に押す作業になることがぼんやりと見えてきた。まあ、モンハンワールドの極ベヒーモス戦コラボでなんとなくわかってたけど、突きつめていくとFF11とはまったく方向性の違うアクションゲーになっていき、RPGをプレイしたい気分には合わないなーと思っていた矢先でした、その事件が起こったのは。

 何の脈絡もないまま突然、死に化粧みたいなテクスチャの顔面でカタパルトみたいなパイオツをピンクのブラジャーで包んだオールウェイズ腹まるだしの痴女が焦点の無い目で「じゃあ、今日はエーテルの説明するね!」とか言いながら豪華なパワポみたいなの使って得意げにプレゼンをはじめんの。そしたら、疑問も葛藤もないペラッペラの死生観が失禁みたく垂れ流されるわけ。輪廻転生の孫引きのガイア理論のひ孫引きのヒゲの御大によるライフストリーム理論から玄孫引きして、おまけに何の内省も無いまま前頭葉だけで思考してるもんだから、「死んだらエーテルに回収されて、また生まれ変わるんだよ!」とかいう文字列がこれ以上でもこれ以下でもない100%の生命の解釈なのよ。つまり、FF14世界での生死にまつわる「観」じゃなくて「実相」がこれなの。この制作者にかかったら真言密教なんかも秒で理解されて、「つまりそれは現代的な価値観でアップデートするとこういうことですね」とか齢百歳の高僧に向かって前頭葉の要約を軟便みたく垂れ流し、己の軽薄と侮辱に気づきもせず同じ晩には夜の街にくりだして、その日にあったことすべてを忘れてそうだ。”Another Time, Another Place”、いま現在の地球ではないという意味での異世界(最近ではこの単語もペラくなってて、視界に入ると目をそむけちゃう)を創出するのにもっとも重要なのは、どういう死生観を持った人々が生活しているのかという想像力だと思うんです。当然、国や民族や住む場所によってそれは違ってくるでしょう。エオルゼアって、白人とインディアンがLEDライトの下で同じ死を死ぬ世界なんですよ。このエーテルに関する豪華なパワポによるプレゼンーー声つきの演技がまた得々としてやがんだーーを聞いて、こんなクソみたいなペカペカの死を迎える世界に、大切な自キャラを置いておけんわとなって(と、なって!)、鬼畜米英が目前に迫る防空壕の母親の気持ちで、衝動的にキャラデリしちゃいました!

 エヘヘ、ゲイカジョーク! 麻雀をする場所を失ったことだけが心残りなので、だれか無料で麻雀ができるアプリなんか教えてほしいナー?

映画「鬼滅の刃・無限列車編」感想

*これより、キツメの関西弁による映画感想が出ます。関東地区に在住の方は、一時的なミュートを推奨します。

 キツメのおめこ、オードムーゲ花電車みてきたで! アイマックスのダボに2400円もはろたったわ! なんやて、ファーストデーやらレディースデーつこたら、その半額で見れますよ、やて? アホか、そんな日に映画館いったら、ジャリを病院にもいかされへんセイホのビンボウ人まみれで、地元のコーリツで濃ゆうなったバイキンもらうかもしれへんやんけ! あんたもええかげんええ年やねんから、キチッとカネはらうとこははろて、客の民度をスクリーニングせなあかんで! せやけどな、アニメのアイマックスはただただ音を大きゅうするだけの調整やから、絵ぇはきれえやけどセリフは聞き取りにくいし、耳はごっつう痛なんねんけどな! んで、キツメのおめこの感想やけど、こら映画ゆうよりは長めのアニメやね。映画ゆうんは言葉にでけへん気持ちをあらわす芸術や言いますけど、この長めのアニメは気持ちだけやのうて何が起こってるかもなんもかも、ぜえんぶ言葉で説明してまうねん。ふつう映画ゆうたら長めの尺つこて、間ァやら表情やらで見るがわにいろいろ想像する余地がありますやろ? ふつう映画ゆうたら見るがわの人生経験とか上乗せできるもんやねんけど、それがぜえんぶないねん。でもそのおかげでハナたれのジャリから大卒のカシコから豹ガラのオバハンからボケたジイさんまで、100パーおなじレベルではなしが理解できるようになっとるのもたしかやねんな。もしかしたら大ヒットのヒミツはここにあるのかもしらへんな、知らんけど。ぜんぶ言葉で説明すんのんで思わずわろてもうたんは、大マジメの場面やのに、なんや「俺の右腕がお前のみぞおちを貫通しているんだぞ」みたいなセリフをエエ声で聞かされたとこやな。「え、そこ声に出して説明する必要ある?」みたいな? よっしゃ、こんどキツメ・ファンのおなごとおめこするときは、「ワイのちんぽがキミのおめこを貫通してるんやで!」って目ェみて言うたろ(最低やね)! あと、いっちゃん感心したんは、原作8巻のバトルが作品テーマなんをこれやゆうて見ぬいて、26話のテレビアニメから長編劇場版へとつながるよう構成した制作会社の、マンガを読む力の確かさやね。ワイがキツメのおめこを読みだしたんは18巻やら19巻やらが出てたころあいやったけど、こうやってアニメとして見せられてはじめて、「おお、たしかにこのバトルが作品テーマやないけ」と気づかされた次第ですわ。レンゴクはんゆうええキャラを「サメに食われて左腕がのうなりました」みたく中途半端にせんと、キッチリ殺して退場させたんもポイント高いし、作品テーマの説得力につながっとる。

 それとちょっと思うんは、栗本薫が生きとったらこの大ブームにどんないっちょかみしたかってことやね。女史の漫画の感想でいっちゃん好きなんは、閉鎖的な文壇をディスる流れで「幽遊白書を10巻まで読んだら続きが気になって、風邪ぎみだったけど思わず残りの9巻を買いに走った。おまえら文学にはこの情熱をかきたてるドラマツルギーがないから全然ダメ」というムチャぶりやね。たしか10巻の最後は幻海が戸愚呂弟に殺されるとこでヒキになってて、これぞ「死せる幻海、生ける薫を走らす」やねってキミ、やかましいわ。

 話もどすけど、「ホニャララできるようになるから、永遠に鬼として共に生きよう」ってカヲル君のエエ声で誘われたら正直ワイ、ことわれる自信ぜんぜんないわ。

「貴様の小説を商業ベースに乗せてやるから、永遠に鬼として共に生きよう」
「えろうすんませんな、あんじょうよろしゅうお願いします」

漫画「鬼滅の刃」感想

 いまさら、オウガ・デストロイング・ブレイドを読む。端的に言って、とてもおもしろかった。ひさしぶりに現実を忘れてフィクションに浸ることができたし、何よりいまを生きる子どもたちがこの作品を支持しているという事実に、胸を熱くさせられた。好ましいのは、人気の出た作品が長く連載を継続するために、設定や感情の隘路へと入り込んでいくのに対して、本作は乾いた筆致のまま、わずか二十巻ばかりの地点ーー昔人の感覚だと、これでもまだ長いがーーで物語をたたみにかかっているところだ。ジュブナイル作品は、子どもがその属性を失う前に語り終えられることで、その時代にしか心に刻むことのできない何かを永遠に彼らへ残すことができる。ネコ型ロボットや海賊ゴム人間やポケット内の怪物は、かつて子どもだった誰かが、己にとって重要だった感傷を後から来た小さな存在へ押し売りする装置と化してしまっており、言い過ぎを許してもらえるならば、ときに子どもへと害を及ぼしてさえいるように思う。

 さて、現代日本において最も重要な作品の一つであるFGOのテーマが「善と超克」であるのに対して、本作のそれは「利他と継承」だと指摘できるだろう(「快活なユーモア精神」も両者に共通している点だ)。善については、何度か話をしてきたと思う。この世界の半分は善で成り立っており、そうでないもの(悪とは言わない)と、常にほんのわずかの差異で過半の境界を拮抗している。そして、善は基本的に観測できない。新旧問わぬあらゆるメディアという間接的な秤では、微小な善の放出を測定することができない。十年、二十年と生活や空間を共にしてきた誰かが、ふとした瞬間に漏らす吐息のような形でしか、善を見ることはできないのだ。その、2つの主観が科学のような客観に転じるほんのわずかな一瞬にだけ、私たちは善なるが確かに実在することを信じられる。FGOで描かれる善は、この意味での善だ。宇宙の多くを占めながら極めて観測の困難な、存在を予想されたあの昏い物質のように、善は見えねど善はある。ファンガスを読むと、繰り返しの日常の中に消えていくその感覚が鮮やかによみがえる。そして利他もまた、善と同じ性質を持っている。特に、ネット上に蔓延する利他のような何かは、すべて偽りと考えていい。なぜなら、自己愛は言葉にできるが、利他は行為そのものでしか表せないからだ。そうそう、自己愛と言えば、「弱くて可哀そうな自分をいたわれ」と叫ぶ鬼の、見開きによる回想はすごかったね! 我が身をふりかえって身につまされたし、何より凡百の長期連載作家なら、あれだけで十週くらいは引き伸ばしそうだーーおっと、話がそれた。

 オウガ・デストロイング・ブレイドがこれほどの人気を博しているのは、キャラ立ちやアクションの魅力だけでなく、意識的にか無意識的にかは知らない、全編にわたって通底する「利他と継承」というテーマに子どもたちが共鳴しているからだと思う。老人は言わずもがな、「大人」を喪失したこの世界で、行動の規範を求める子どもたちが虚構のキャラのふるまいから、それを学べるのだとしたらーーもしかすると未来は思ったより悪くない方向へ進むことができるのかもしれない。

 ともあれ、クロコダイルか、その名前、確かに覚えたぜ! へへッ、ファンガスといい、とんでもないヤツらと同じ時代に生まれちまったもんだ……(十年前の黄ばんだ同人誌ーー善と継承がテーマーーを握りしめながら)

  現代日本における基礎教養とやらであるところの「ゴム人間」について無料公開を聞きつけて、幾度目の挑戦だろう、第一話からのマラソンを開始した。そして、これまた幾度目の中絶だろう、またも嘘P団解散後のバトルあたりで読むのをやめてしまった。あと、現代日本における常識とやらであるところの「王国」読破チャレンジにしても、コココの人が死ぬぐらいでいつも挫折してしまう。両者に共通するのは何かと問われれば、キャラの魅力とまでは言わない、主人公の強さに説得力を欠いている点である。すなわち、被ダメ/与ダメに関してシステム(=作者)の補正が強すぎて、フェアなバトルになっていないのだ。その点、話題のオウガ・デストロイング・ブレイドは、ゲーム的な想像力でバトルを組み立てていることもあってか、非常にフェアな攻防だと感じることができる。なぜ突然、こんなことを話しているかと問われたら、FF7Rの裏で某ミニの天外魔境2を少しずつ進めており、改めてシナリオの進行とほとんど一体化したゲームバランスの妙に、ひどく感心させられているからである。でも「人肉」や「オカマ」はOKで、「キンタマ」がNGなのは意味がわからないなあ、と思った。

 鬼滅、おっと、オウガ・デストロイング・ブレイドの最終回(と作者の性別?)が話題のようだが、この内容は読者やファンに向けられたものではなくて、作者自身がするキャラクターに対しての罪滅ぼしというか、過酷な結末を強いてしまったことへのねぎらいなのだと思う。一流の彫刻家や仏師が言う「素材の内側に元から存在しているものを削りだすだけ」「それが外へ出てくる手伝いをするだけ」といった感覚に似て、自分がどこか別の世界に存在するキャラの依り代となって、彼らの生き方を自動書記的に写し取るようにストーリーを紡ぐという語り手がいる(特に女性に多いように思うが、小説家なら中期までの栗本薫とか、漫画家なら高橋留美子とか)。この作者にはたぶん、虚構にすぎないはずのキャラクターたちが、現実の人間と同じ重さで実在しているように感じられているのだと思う(そして、その感覚が作品の魅力につながっている)。だからこそ、蛇足のそしりを受けてでも生命を賭して戦った彼らへ、最後に救いの安息を用意したかったのだ。別の書き手、例えばファンガスだったら死を死として、喪失は喪失のまま提示してーーそれでも、網膜を焼く生の輝きを残しながらーー終わっただろうが、これは優劣の話ではなく、資質の違いだとしか言いようがない。私は、この結末を肯定する。最後までおのれの子らを商品として差し出さず背後に守り切った、生むものの矜持に拍手を送りたい。

 正直なところ、これまでツッタイーではニュースをななめ読みするぐらいで、自分のツイートとそれに対する反応にしか興味は無かった。しかしながら、「いいね!」を解禁して他者のツイートをじっくり読んでみると、興味ぶかくないこともない。最近は、どいつもこいつもオウガ・デストロイング・ブレイドの人気にあやかって関心を得るため、興味もないのに言及しまくっているのがほほえましい。もちろんインタレスト・ルンペンである私もあやかりたいので、諸君のツッタイー仕草に従うこととしたい。

 以前、鬼滅の刃が子どもたちに人気を博しているのは、「利他と継承」というテーマへ向けた無意識の共振が理由だと指摘した。「大正浪漫」「不老不死」「吸血鬼」「太陽の克服」「剣術」「呼吸法」といった、少年漫画的に使い古された題材を用いながら、私が突出してユニークで魅力的なモチーフだと感じたのは、「善悪を超越した巨大な才能の存在」である(才能はある閾値を超えると善悪の分別を超越する)。じつを言えば、ツッタイーで月曜日に行われるネタバレでこのキャラを知ったことが、作品に触れてみようと思うきっかけであった。究極の生命体と多数の人間たちによる争いの構図が、一個の天才という集合へ要素として包括されており、彼は世界を鳥瞰する神の位置にいながら、自らの才をつまらぬものと断じ、おのれの人生を失敗だったと悔いている。才能とは、「なぜ他人にはこんな簡単なことができないのだろう」「こんな児戯に賞賛や報酬の生じることがむしろ申し訳ない」と思える何かのことで、作中の彼のふるまいは正にこれを裏書きしている。賛否両論の最終回も、「永遠の生命」と「究極の天才」だけが輪廻から外されていることを暗に示すためだと考えれば、諸君の解釈も変わってくるだろう。いまなぜか、かぐや姫の物語を見たときの感想に、「つがいを得て子を成したものが地上で輪廻の輪に乗り、そうでないものたちは月へと帰る」と書いたことを思い出した。

 ところで、ほんの二十年ばかりテキストサイトを続けるだけの簡単なことを、閉鎖したり商業デビューしたり生命を落としたり、なぜみんな実践できないのだろう。金銭が発生したことのない文筆はこの世に存在しないも同じで、結局、私はテキスト書きとしては失敗した。その深い悔恨を抱いて、生きている。