接触篇
外出中に2時間ほどをつぶす必要があって、上映時間が偶然ぴったりと重なったため、その予定はまったくなかったのにククルス・ドアンの島を見ました。閃光のハサウェイをすごく楽しめたせいもあるんですけど、はっきり言ってあれとはベツモノでしたねー。20年以上前からインターネットは個人的な日記帳とイコールなので、ガンダム作品はすべて未履修ーーより正確には、単位登録して講義も出席するんだけど、学期試験で合格点が取れないーーの人物から感想を残しますが、ファンの方々の気を悪くする意図はないことを、あらかじめ宣言しておきます。原作のエピソードはネットミーム的な画像以外もちろん未見でして、全体の印象としては冗長な尺や余計なシーンがかなり多くて、登場キャラの芝居や場面ごとの感情もつながっている感じがせず、どれも唐突に思えました。しかし、これこそがガンダム文法なのやもしれず、「逆襲のシャアを3回見たけど、ストーリーが理解できなかった」人物の視点による感想であることは、公平さを期すために付け加えておきます。
ドアンという脱走兵が戦災孤児たちを孤島にかくまっている設定だと思うんですけど、その集団生活はどこか新興宗教めいていて、ある世代に特有の「地縁・血縁の否定と大家族の肯定」という矛盾に満ちた思想のようなものがそこはかとなく香ってきたのは、はたして私の気のせいでしょうか。孤島の荒地を耕す描写が何度も出てくるのに、食卓は妙に豪華ーープチトマト入りのサラダとか、どうやって作ったん?ーーで、ドアンが船で町へ仕入れに行ったのかと思いきや、向かった先は秘密基地だったり、故・高畑勲が化けて出るレベルで「新しき村」における生活基盤の掘り下げがいい加減なのです。聞きたいんですけど、アムロがバッテリーを修理して電源を復旧させたのに、ドアンが「余計なことしやがって」みたく吐き捨てる場面って、文明レベルをわざと落として、無力な子どもたちを「何でも知っている」大人である自分に依存させることで集団(教団?)を統率していたという意味なんでしょうか。
さらに気になった細かい点を挙げていくと、「島内に唯一の人造物である怪しい灯台に対して、まず遠方からガンキャノンの砲撃による威力偵察」という当たり前の戦術チョイスが行われなかったのには、「この物語が始まる前に終わるのを避けるため」以外の理由が見つかりませんでした。ガンダムを探しに出たアムロが「ドアンという人のザク」と回想しますが、あの時点でドアンとザクが結びつくような描写はなく、原作未見の私はけっこう混乱しました。時代背景もよくわからなくて、ベッドの横に水差しではなくペットボトルが置いてあったり、ホワイトベース内にTOTOの便器を設置した障害者用トイレがあったり、広島カープが存在したりするのは、ガンダムファンならどれも違和感なく受け止められるものなのでしょうか。
モビルスーツはテレビ版と比較にならないほど細密に描かれる一方で、リアルになればなるほど兵器が人型ロボットである必然性は逆に薄れていくのを感じました。ガンダムの地上戦はほぼ初見ながら、二足歩行が移動と戦闘のデメリットであるとしか見えません(敵のホバー移動には大いに納得しました)。それに、コクピットでない顔面部分に手斧を突きつけることが脅しになる芝居とか、崖の下を見て高所恐怖症に足がすくんでーー飛べるんじゃないの?ーー隙を作ってしまう演出など、ロボットなのにウルトラマンのごとく「人間が巨大化しただけ」の存在になっている瞬間がいくつかありました。単純な疑問ですけど、頭部を撃たれたり四肢の一部を斬られただけで機体全体が爆発四散するのって、兵器として問題ありすぎませんかね。ふつう隔壁とかで誘爆を防ぐ設計にすると思うんですが、演出の見た目が派手なことを優先しているんでしょうか。小破か轟沈しかない艦これみたいなもんですよ、これ。令和の御世に、不快なほど怒鳴りまくるパワハラ上司・ブライト艦長が、いつの間にか「軍法会議もの」の命令違反へ積極的に加担しており、そこまでには酔っ払いの軍人がこっそり若手士官を扇動している様子しかなくて、「翻心するような場面、あったっけ?」と自分の記憶を疑うはめになりました。
本作での描写を見て、はじめてテレビ版のアムロが少年兵だったことに気づかされましたけど、敵パイロットをビームサーベルの熱で蒸発させたり、逃げる兵士をガンダムで踏みつぶしたりするのを、わざわざ観客へ見せることに、どんな演出意図があったのか疑問が残ります。終盤の戦闘についても、5体のモビルスーツでやってきたのに、3体と2体に戦力を分散して、スナイパーを含めた2体は秘密基地内で能力を発揮できないまま頓死、残った3体もお行儀よく順番に一騎討ちってどないやねん。おまけに、なんか因縁がありそうだった女性パイロットも場面転換の直後に戦闘シーンをスキップーー自宅だったら見落としを疑って巻き戻してたと思うーーしてやられてて、「2対5の数的不利を、短中遠距離戦のことごとくでガンダムa.k.a.白いヤツ(白い悪魔じゃないの?)が圧倒する」という展開を予想していたため、消化不良感というか、「まだぜんぶ出してない」という残尿感がひどかったです。地下に避難するはずの子どもたちが、コミカルなヤギの描写につられて、いつの間にか流れ弾が直撃しそうな最前線に大挙して現れたのも、「HAHAHA、ご見物がいたほうが盛り上がるだろ? 大丈夫、大丈夫、殺さないって!」とのアメリカンなボイスがいずこからか聞こえるようでした(幻聴です)。
そして、非常にわかりにくい脚本から推察するに、おそらく世界の主要都市へ向けて発射されたミサイルが大気圏外で爆発したのを見て、ジブリ系のヒロインが「ドアン、これがあなたの仕事だったのね」とか言うんですけど、いやいや、作中のアンタの立ち位置からは、そんなことぜったいにわからへんやろ。神の視点にいる観客のウチからして、連邦?の士官が台詞で説明するのを聞いて、はじめて状況がつかめたくらいやのに。最後にドアンのザクをアムロが無許可で勝手に海へ放り投げて使えなくしたのには、心底ビックリしました。その奇矯きわまる行動を見た直後の感想は、「え、次にモビルスーツが攻めてきたら、どうすんの?」でした。これって、原作を忠実になぞっただけなのか、反戦や不戦や非戦や九条(やだなあ、ネギの品種ですよ)的な思想性に裏づけられた展開なのか、よくわかりません。でも、「あなたの戦争のにおいが争いを呼びよせる」みたいな台詞と考え方って、少年兵のものじゃないですよね? その裏にいるレフトウイングのオッサンかオジイサンのものですよね?
うしろの予定に押されて、スタッフロールの途中で席を立ちながら、「ガンダムが単騎でカッコよく無双するのを楽しみたかっただけで、野党がスポンサーのハウス名作劇場を見たかったわけではないなー」と思いました。以前、エヴァが新劇を通じて様々なクリエイターの参入するガンダムのような土壌にはなれなかったことを惜しんでいると書きましたが、本作を見終わったあとの正直な気持ちは、「テレビ版エヴァのどれか1話が翻案されて映画になっても、たぶん見に行かないだろうな」であったことをお伝えしておきます。
発動篇
ククルス・ドアンの島の内容を思い返すだけで、なぜか口元にタチの悪い笑みが浮かぶ始末で、この感情を形にしてよい?
文章が面白い時には、ファンは怒らないものだ。41.2%
悲しいけどコレ、ドぎついマニア向けなのよね。17.6%
(ヤギの突進)41.2%
ひさしぶりによく書けたなー、なんて思いながら、ククルス・ドアンの島の感想を1日に10回も20回も読み返してゲラゲラ笑ってるんですけど、予想していたドぎついガンダムファンからの反撃は、なかったですねー(ヤギの突進にそなえた柔道の構えを解きながら)。しょうがないので、手元にある架空のリスナーから寄せられたハガキに、お答えしたいと思います。最近の私の映画感想は、どれもこれもテキストラジオみたいなもんですからね!
「冗長な尺や余計なシーンって、具体的にどこのことを言ってるんですか?」とのご質問ですが、皆さまのように2回目を見るつもりはないので、記憶を頼りにお答えします。「冗長な尺」で思いうかぶのは、アムロが屁っぴり腰でクワを振るのを「ヘッ」と侮蔑のまなざしで見ていたら、何度もしつこく繰り返すうちドアンの指導があったわけでもないのに腰が入ってきて、「チッ」とオナイの少年が舌打ち(どんな感情?)するところですかね。このクワをふるうときの腰つきもそうなんですけど、アムロがペットボトルから水を飲むシーンが劇中に2回あり、どちらも妙にエロティックな描写になってて、お稚児さんというかお小姓さんというか、どこか少年愛的なまなざしを感じてしまいました。「そっかー、ペットボトルでゴクゴク水を飲むのって、フェチなんだー」と気づかされた次第です。
次に「余計なシーン」ですが、「子どもたちが灯台の螺旋階段を駆け登り、駆け降りる」ところでしょうか。映画的にはまったく必要ない場面なのに、「狭くて曲がった階段で、しかも複数の人間が同時に登り降りするのを、このカメラ位置から自然に動かせるなんて、ヤスヒコすげえ!」みたいな、昔のアニメ作品に特有の職人芸を愛でる要素になっちゃってるんですよね。この積み重ねが、「普通の映画」になるか「テレビアニメの長いの」になるかを分けているような気がしました。マが名字の人物(オマエ、どこ国籍よ?)が高笑いしながら部屋から退出するのを、カメラに回り込ませながら長々と写すシーンは、この両方の要素を兼ね備えていて、私の中の関西人は「いつまでわろとるねん!」と思わずツッコミをいれてしまいました。
ついでに、「芝居や感情がつながっていない」にも触れておきますと、中盤にジブリ系のヒロインがアムロとドアンを見つめたり目をそらしたり頬を赤らめたりするシーンがあるんですけど、その付けられた演技からは彼女の内面がまったく想像できなくて、いよいよ自分は気が狂ったのかと深刻に疑いました。そして、ドアンから「子どもたちを守るために、たとえ仲間とでも戦う覚悟があるか」と問いかけられたアムロが、しばし逡巡したあと、強くうなづいて彼の背中を追いかけるシーンは、「ホワイトベースを、ブッ潰す! ついでに僕を殴ったブライトも、ブッ殺す!」宣言としか受けとれませんでした(まあ、しばらくして、ガンダムで生身の人間を踏みつぶす覚悟だったことが判明するわけですが……)。
あと、本作における監督のアバターはズバリ、ヤギですね。稚児と少年と大人の男にセクシャルな部分をもみしだかれて快楽の声をあげたり、ガンダムの作風と水油の1枚絵で3人の男たちをなぎ倒したあと、デベソがバッテンの幼女からキスの雨あられを受けて顔をにやけさせたりと、もうやりたい放題です。他にも、崖をのぞきこむシーンが何度もリフレインされるところとか、おそらく監督の実人生における経験が色濃く反映されている部分が、ガンダムという言わば公共物に、私小説的な違和感を与えている気がしました。それと、茶色いザクの連隊が初登場するスタイリッシュな交戦シーンは副監督が絵コンテを切っているそうで、終盤のゆったりモッサリ戦闘との落差は、若々しいセックスとおじいちゃんの手淫との違いだったんだなーと思いました、おわり。