猫を起こさないように
銀河英雄伝説
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ゲーム「FGO『白天の城、黒夜の城』」感想

 聖杯戦線の最新イベントをクリア。このコンテンツ、盤面でキャラの性能差を表現できない以上、どうひっくり返したってシミュレーションゲームにはならないのに、「難易度が無駄に高い上に、コンティニュー不可能」という、FGOの中でもかなりキライな部類のコンテンツでした。それが今回は、「コンティニューありのイージーモードで、物語にスパイスをきかせる程度のSLGゴッコ」にとどまっていて、本邦の課金ゲーム最有翼としてホヨバの世界的調整ーー人種、年齢、性別、学歴など、プレイヤーの属性が何であれ、数回の試行で必ずクリアできるーーからようやく学びを得たなと感じました。しかしながら、最終戦だけはまごうことなきタワーリング・シットであり、指さし確認してターン終了したのに、ランダム無限リポップの敵がマスターの隣に出現し、3回連続でなぐられて敗北となったときは、しばらくぶりに心の底からの絶叫がほとばしりでました(遠くから近づいてくるサイレンの音)。ストーリー展開もひさしぶりにFGOらしいもので、「敵サイドの際限なきインフレーション」と「絶望的な状況から起こす奇跡の大逆転」が魅力的な筆致で描かれています。

 また、「王とは何であるか」の語りも、無印Fateからずっと引き継がれてきたテーマだと思いますが、己の人生の変遷もふまえた上で、非常に考えさせられる内容でした。「王の決断は、いつも最善になってしまう」というフレーズがまさにそれで、「トップの発した言葉が検証を経ないまま即座に組織の隅々まで浸透し、部下たちがその実現へ向けてフルスロットルで動きだす」という光景は、その集団に属さない人間にとっては恐怖でしかないでしょう。上に立つ者の決断を「最善にする」のは、常にナンバー2以下の仕事であり、調子のいいときの組織は現実そのものさえ変容させていきますが、いざジリ貧になってくると現実を描写する情報の方が曲がっていくのです。「トップの孤独と、セカンドの地獄」という言葉は、どんな人間集団にも当てはまるものなのかもしれません(余談ながら、大企業にとってナンバー1のすげかえは「社長の代がわり」にすぎないのかもしれませんが、中小企業にとってのそれは「古代における王の死」と同じ重さを持ちます)。

 「王の器」というのは確かに存在していて、それは能力の多寡といっさい関係がなく、品位や魅力さえ実体に比べれば添え物にすぎません。「王佐の才」は人工的に作りだすーー最高学府の就職先に、外資系コンサル会社がズラリーーことができますが、「王の器」はただただ出現するのを待つしかない。「王の器」とは、あらゆる人間集団に必要な「決断する機構」のことであり、その作家人生を鳥瞰するにつけ、奇跡的に思想と物語のバランスが取れていた頃の作品である「銀英伝」に青春を汚染された者たちは、「最良の君主制と最悪の民主制があったとして、我々はいつも後者を選ぶ」という態度を美徳のように語りますが、いったん管理側に回れば、どんなに民主的な組織にも「決断する王」が必要なことは、骨身で理解できるでしょう。今回のイベントにおける「王の決断は、”必ず”最善になってしまう」という言い様はけだし名言であり、当人の抱く恐怖と裏腹に、世界のクロノロジカルな「再試行不可能性」によって、その実現性は常に担保されていくのです。

 一介のライターにすぎない人物が、この真実を知っているのは驚くべきことだし、もしかすると10年近いFGOの運営を通じて、組織が拡大するにつれて食わせねばならない人間の数が増えていく事実に、以前までの書生的かつ観念的な「王の話をしよう」ではない、他ならぬ「王の自覚」が身内に芽生えたゆえなのかもしれません。これこそ、私がファンガスを最果ての塔に閉じこめておけと念ずる理由であり、もし彼/彼女がSNSなどやっていようものなら、「会社経営と有名税つらいお。あの頃のいちオタクに戻りたいお」みたいなツイートに雨散霧消しただろう愚痴が、本イベントにおいて極上の物語へと変換されたのは、「王の孤独」を身にまとったからではないでしょうか。SNSにアカウントを持っている作家のことごとくを信用できないし、彼らの著作を手にとろうとも思わない理由は、まさにこの一点です。それにしても、この至高の物語変換装置が私の脳にもそなわっていればな……という愚痴ツイートによる、物語原型の雨散霧消で終わります。

雑文「ヘブバンとキートン、そして銀英伝(近況報告2022.10.2)」

 ヘブバン、未練の毎日ログインのためだけにスマホへ保持しておくにはあまりに大容量になってきたため、泣く泣くPC版へと移行する。しかしながら、大きな画面に映して良いスピーカーで鳴らすと、見えなかった筆づかいが見え、聞こえなかった音が聞こえるようになり、手間ひまかけて作りこまれたゲームであることを、あらためて認識できました。なのに本編シナリオは……というところへまた愚痴がいきそうなので、最新イベントをイッキ見した話をすることにします。いやー、ヘブバンのギャグパートは肌があうっていうか、やっぱりメチャクチャ好きだなー。執拗な繰り返しでのギャグは、フルボイスならではのスタンダップ・コメディであり、テキストだけで同じことをしたら、きっと連打で読みとばされてしまうことでしょう。その繰り返しの部分も微妙に演技が違う感じで、「否、否、えろ」にはこらえきれず、大爆笑してしまいました。

 お決まりのシリアスな締めも、いつものようなベショベショではなく、今回はカラッとしていて好印象です。見ていて、なぜかマスターキートンの爆弾処理の話を思い出しましたね、有名な「穏やかな死」のほうではなく、バルセロナ五輪で新聞社に爆弾がしかけられる回。「まったく動揺を見せない完全無欠と思われていた人物が、内心では動揺してビビりまくっていた」というプロットが共通していたからでしょうか。ついでに、それこそ20年ぶりくらいにその回を読み返してみたんですけど、ひどく心にしみましたねー。「自分がいちばん上手くできるのはわかっているが、大きな恐怖ーーが大げさなら、億劫さーーを伴う仕事」って、事の大小こそあれ、勤め人ならだれでも持っているんじゃないでしょうか。恐怖や億劫さに負けてそれをだれかに丸投げしたら、失敗した上に時間だけが空費された状態で手元に戻ってきてしまう。この類の仕事を、泣き言はおくびにも出さず、「これはオレの役割だ」とつぶやいて、周囲に気づかれないうちに処理してのけるのが、私にとっての大人のイメージなのかもしれません。

 銀英伝で例えるなら、フィッシャー中将みたいな人。うん? 銀英伝は好きですけど、そんなキャラいましたっけ、だって? (微笑んで)そう、それ、そういうのがいいんです。けれど、いまやこういった仕事のバトンは、社会や組織の中で受けわたされることなく、消えていっていると感じます。ハラスメントという名付けで単色に塗りつぶされてしまったグラデーションの辺縁に、そのテイクオーバー・ゾーンはあったような気がしてなりません。

小説「三体(第2部)」感想

 小説「三体(第1部)」感想

 三体第2部、上巻の後半から加速がついて、一気に読了する。正直、第1部から想像していた内容とは大きく異なった、怒涛の展開と破格の面白さでした。作中で言及のある銀英伝を始めとして、ヤマト、ガンダム、エヴァなど本邦の想像力を下敷きに出力されている感じが伝わってきて、やはり水滸伝や封神演義のようなフィクションとしてチューニングを合わせるべき作品だと思います。SFとしてとらえた場合、「黒暗森林」という概念がラストの謎解きを含めた世界観の骨格になっているので、これに充分な説得力を感じられるかが評価の分かれ目になるでしょう。まあ、私は「民明書房刊」ぐらいの感じで楽しみましたけど、エンタメ目的の理論やさかいに、スーパー・ストリングスの学者センセたちよりは、よっぽど罪がおまへんなあ(ウワメ遣い)。個人的には理論そのものより、「猜疑連鎖が宇宙の律だけど、やっぱ地球から愛を広めなくちゃね!」みたいな台詞に、思わず米粒を噴き出しました。中華思想にどっぷり浸かった人物が日本のアニメに衝撃を受けた様子(ヤック、デカルチャー!)を、何の加工もなく素直に表現しているんですかねえ。

 セカイ系をなぞると思わせながら、森雪のイビツな造形に代表される「童貞男性の中でボッコボコに発酵した女性のセクシャルな魅力」を連想させる文章表現は、第1部に引き続いてそこここに散見されるものの、ヒロインとの関係性に問題の解決を集約しなかったのには、己がいかに少女へ世界の命運を背負わせる本邦の虚構群に毒されていたか、恥じ入る気持ちにはなりました。そして、本作をエンタメとして楽しんだ以上に私を落ちこませたのは、「四百年先の未来」という視座から同胞の存続を我が事として真剣に考えることのできる者が、はたしていま本邦にいるのかという疑問と、遅れてやってくる諦念です。「己の人生と、願わくば子の代がマシな時代を逃げ切れればいい」ぐらいの祈りまでがせいぜいで、そんな長大な未来を現実の地続きとして思考する人物が本邦にひとりでもいるとは、まったく信じることができません。

 しかしながら、今期のFGO夏イベにも顕著な、個人的に”刃牙問題”と呼称している「文系の想像力が最上かつ最良の価値だという妄想」ーーオレの宇宙社会学による呪文は、スーパー水爆より破壊力バツグンだぜ!ーーが、本作にも中華思想さえ凌駕する作者の自我としてシミのように表出しているので、現実とフィクションの間に、何か実効的な相互作用を見出さないのが賢明だなと、いち社会人として正気に戻りました。あれ、でもまだ第3部が残ってるけど、ストーリーはきれいに終わってない? もしかして、「黒暗森林」の思想を前提に、地球の宗教が変容していく話とかをするのかしら?

ゲーム「サイバーパンク2077(2週目)」感想

 サイバーパンク2077、いっさいの情報を遮断してメインストーリーをクリアした後、そのまま新キャラ作って2週目をプレイしてる。ジャッキーと別れるのがイヤで、紺碧プラザへ行くのを先延ばしにしながら、ときどき犯罪行為に武力介入したりゴミを拾ったりする以外は、特に目的もなくウロウロしてる。真っ暗にした部屋で大画面のナイトシティをそぞろ歩いていると、年末に必ずやってくる「まだ何もしていない」という謎の焦燥感をいっときでも忘れることができ、たいへんに心安らぐ。この街の住人は一様にクズで向上心がなく、いつも他人を陥れることばかりを考え、口を開けば政治的に間違った言葉ばかりが飛び出す。だからこそ、私は心やすらぐ。社会的な正しさの擬態が必要なく、人生に目的があるといった欺瞞から離れて過ごすことができるからだろう。

 ナイトシティでのできごとって、ぜんぶ「夜の街関連」だよな……。

 サイバーパンク2077の2周目プレイ中。1周目をクリアした後だと、最初は気づかなかった様々なアラが見えてきた。メインストーリーと箱庭の作りこみとサブシナリオとゲームシステムを別々に作って、最後にガッチャンコ(関西弁で「ひとつにまとめる」くらいの意)しようとしたらうまくいかなくて、それぞれが収まるよう順に枝葉を切り落としていったら、ついには幹にチェーンソーを入れざるをえなくなった感じ。ジャッキーやTバグとの関係性を深めるストーリーが丸々カットーーTバグに至ってはおつかいのサブシナリオがひとつポツンとあるのみーーされてたり、大小様々な組織の利害が入り乱れる街で出自まで選べるのにコーポ中心のエンディングしか用意されていなかったり、街頭の作り込みはすさまじいのに中に入れる建物が極端に少なーーこれはたぶん、エリア構築とハッキングのシステムが一体化していることが原因、コピペのがらんどうでいいのにーーかったり、独自AIで自律的に動くはずの住人や警官(犯罪行為の瞬間に間近へスポーンするのは萎える)についてたぶん発売直前に白痴化が行われたり、ちんちんの長短やヴァギナの有無や声帯の男女入れ替えなどのトランスジェンダー的キャラクリにほぼゲーム的な意味が無かったり、とにかく「あるべき場所にあるべきものがないことで生じる空洞」が多すぎるのです。細かいけど、ゲーム内でキャラクリを自由にやり直しできないのって世界観を真ッ正面から否定してるよなー、性別や見かけではないところに真のアイデンティティがあるっていうさー。

 あと、ジョニーというキャラが好きになれるかどうかがゲームへの印象を大きく左右する作りになってて、クリア後もジョニーのrelicを外せないのって、結構マイナスポイントになる人いると思うなー。冷凍漬けにしてた、あるいはクローンの肉体にrelic内の魂を転写してジョニー復活、以後はバディとして同行可能、みたいな展開を予想してたんだけどなー。いま挙げた不満の中には有志のMODで解決できるものもあるけど、メインの部分ではCD Projektにがんばってほしいところです。みんなウィッチャー3一作でこの会社の実力を判断しちゃってたとこはあると思うんだけど、ほんと前作が奇跡のバランスだったんでしょうね。数年(8年!)に渡って、出入りのある数百人のクリエイターの成果物をすべてチェックして次の方向性を与えて、ゴールを明確に提示しながらそれらを矛盾なくずっと統御し続けるって、よく考えたら人智を超えたマネジメントですもん(世界1個を丸々創造するという意味で、ヤハウェと同等の管理能力が求められるはず)。

 同社のウィッチャー3の何がすごかったかと言うと、オープンワールドRPGなのにシナリオに整合性があって、ゲームバランスが破綻していないことだったと思うんです。オブリビオンにせよフォールアウト3にせよ、最初期のオープンワールドは箱庭に特化した、良くも悪くも雑な作りのゲームでした(逆に言えば、細部を雑にしておかないと立ち行かない)。そして後発のオープンワールドでストーリー重視のものは、箱庭要素を極限まで切り捨ててほぼ一本道にすることで、物語ることに特化していたわけです。ウィッチャー3は箱庭要素と物語要素が初めて矛盾なく高いレベルで成立したという点で、極めて画期的だったと思うのです。サイバーパンク2077にも同じレベルが内外から要求され、8年間の発酵期間を経て膨れに膨れた期待を結果として上回ることができなかったのが、発売後の騒動の原因ではないでしょうか。発売直前の絨毯爆撃的アドバタイズメントで初めて今作を知った私にとっては、自宅に押し込められた空虚な年の瀬へ、予想外に訪れた良質のエンターテイメント体験だったのですが、AAAタイトルはその宿命として空前を更新する大傑作であることを常に求められ、「良ゲー」ぐらいの評価では済まされないのでしょう。

 世界観とそこで提示しようとしている命題については今日的ですばらしいと思うんですよ。殺人犯(ヨハネよりルカが好き発言とか萌え)が殉教者として十字架の上での磔刑を選び、その様をブレインダンス(VRのすごいヤツ)で録画されることを希望するとか、アラサカ社のプレジデントが息子の肉体を魂の上書きで乗っ取り、恒久の企業的安定を手に入れる(それに関する法解釈と生命倫理の演説も好き)とか、そこここで考えさせられる、魅力的なモチーフにあふれているのです。特に後者は「最良の名君による王政問題」、それが大げさなら「中小企業の創業社長問題」を想起させ、人間社会における問題の多くは個の寿命に由来しているのだなあと改めて感じさせられました。アホが総体をダメにしないよう任期を決めて支配の実権をローテーションする仕組みは、天才をアホですげかえねばならない事態を同時に抱えてしまいます(たしか銀英伝でも同じ話してましたね)。養育者に生命の継続を依存しなければならない十数年の体験から、ヒトという生き物にはどうしても神様ーーそれの命令を聞けば、脅威は取り除かれ心の安寧が約束される存在ーーを求めてしまう性向が植え付けられています。バランス感覚のある清廉潔白な無私の天才が永久の生命を有するとしたら、彼/彼女に永世を支配してもらうことにいち大衆として何の不都合が想像できるでしょうか。この架空の、それでいて根源的な問いに対する答えは、しかしあらかじめ決まっています。「変化し続け、やがては死ぬこと」が人間の本質であると同時に尊厳の根幹を成しており、被支配を求める頑なな凡夫である私たちにその点をじっくりと諭してくれるのが、今年のFGOや鬼滅のような良質の物語なのです。虚構の持つ機能のひとつとは、日常生活では起こりえないイフを突き詰めることで、隠された真実の片鱗を明らかにすることだと言えましょう。それはときに数式が世界の真理を体現するのと同じ明晰さと強度で、我々の倫理に迫るのです。

 話がそれましたが、この命題に対する西洋の物語は英雄譚に寄りがち(マーベル!)なので、魂の不滅についてサイバーパンク2077の世界観の内側で弱い人間たちが出す結論を、今後のDLCで期待したいと思います。

 サイバーパンク2077、2周目はメインストーリーをガン無視して、サイドジョブばっかやってる。女性の声にしてるんだけど、同じやりとりなのにガラッと印象が変わるのが面白い。今度こそJUNKERプレイに徹しようとハンドガンのパークにポイントを入れるも、あまりに弾が当たらなくてイライラして、「ウワーッ!」と絶叫しながら突撃してはブレードをふりまわしていたが、オートエイムのスマート武器を手に入れてから、ようやくそれらしくなってきた。

 サイバーパンク2077、女性声のVだとジョニーとのやりとりがぜんぶ痴話喧嘩っぽくなるなー。ウザさがすごく増幅されて、「ぼくのかんがえたさいこうにカッコいいバディ」を制作者に強要される感じ、どっかで体験したことあるなー、どこだったかなー、と考えていたら、「俺の屍を越えてゆけ2」だった。

 サイバーパンク2077、1周目のキチガイに刃物プレイにくらべて、だいぶハンドガンVがサマになってきた。それもこれも、ガチのFPS者にとっては当たり前の話なのかもしれないけど、マウスでエイムするようになったから。スマートリンクの無い銃でもまともに戦えるようになると、なんだか銃撃戦が楽しくなってくる。街中で黄色い矢印のついたキャラを見かけると、いままではビクビク迂回してたのに、ガンガン喧嘩をしかけるようになった。いま、なんか腱鞘炎になりにくい縦につかむマウス使ってんだけど、コントローラーでの移動から黄色い矢印を視認して右手でマウスをつかむ一連の動作が、ちょうどホルスターに手を伸ばして拳銃のグリップをつかむみたいで、すごく没入感がある。結果、黄色い矢印をもとめて街中をうろついては、ほとんどスナック感覚で文字通りの快楽殺人を繰り返す、サイコキラー・プレイになってしまっております。ロード画面のフレイバーテキストに「この年、合衆国の人口が15%減った」みたいのがあるんだけど、たぶんうちの主人公のせい。

雑文「個人と集団について」

 すごい……カラボスの小石を集めながら、旧・銀英伝を見ていると、人生からどんどん不安が消えていく……生命が消えるまで、もうずっとこうやって過ごしていたい……。

 銀英伝ぐらいだと、権力を戯画的に批判するのが、まだそんなに気にならないなー。悩みながらも弱小の組織を運営するリーダーとしてのヤン・ウェンリーが描かれているからでしょうか。これがドラゴン兄弟になると、個人から組織への言いたい放題になって、バランスが崩れちゃう。キミら、手前勝手な理屈を他人に押しつけながら暴力で蹂躙していくの、無惨様とほとんど変わらへんで。

 一部の作家や引きこもりは集団に属さない究極の個人なので、己を圧殺する装置としての組織を想定してしまいがちなのだと推測します。つまり、本気で殺されると思ってるから、相手が「壊れても、潰れても、死んでもいい」ような過剰防衛とも見える反撃ができるのかなと。「組織に一度も属したことがない」ことと、たぶん「親子関係が支配・被支配の関係だった」の2点が彼らの底流にあるのかもしれません。いったん管理する側の立ち場を経験すると、野党的・左翼的な言説のいっさいをリアルなものとして受け止められなくなるものです。私の映画やゲームへの感想なんかもそうなんでしょうけど、「責任を取らなくていいこと」「まったく無関係であること」が明白な立ち位置からしか不可能な放言というものはあって、対象から遠ければ遠いほど、その内容は苛烈さを増していくように思われます。「いいね」つけだしてから特に感じるんですけど、ツイッターってフォロワーの多寡に関わらず、無所属の個人から無関係の集団への発言が多いように思います。いったん双方の内情が見えると、単純に言葉へ落としこんでしまえない事柄が増えていき、視点のグラデーションはどこまでも細分化していきます。

 あと、視点のグラデーションと言えば、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの感想について捕捉しておきます。昔だったら「主人公きゃわわ、ちんちん入れたい」ぐらいの感情しか生まなかっただろう物語へ、「死んだ父親が亡霊となってこの世にとどまり、残された娘の苦しみをただ見守るしかないときの腕のもみしぼり方」みたいな玄妙極まる気分の視聴をしてて、世界を定点観測する位置を違えまいと意固地に決めてきた自分が、いつの間にか少しずつ流されてあの頃とはまったく異なった場所にいることへ気づかされるのです。

 でも、いまいちばん大きい気持ちは、一刻も早くすべての責任を放棄して、人生という舞台から降りて観客席に戻りたいというもの。もはや使命感は消え、ただ最前線の塹壕にいる兵士たちが故郷の家族を思い出して踏みとどまるように、同じ場所で踏みとどまっているだけ。