猫を起こさないように
輪るピングドラム
輪るピングドラム

雑文「ピングドラム以降の手法について」

質問:謹んで新春のお慶びを申し上げます。猊下の鬼滅論を密かに待っておりましたので、拝読できて嬉しかったです。ありがとうございました!時に幾原監督作品に関してのご見識をお伺いできれば幸いです。あと、お勧めのアニメ作品を教えてください。

回答:年に一度のやり取りですが、遠方の親戚でもそんなものでしょう。今年もよろしくお願いします。幾原監督ではウテナがいちばん好きなのですが、印象としてどの作品も内側に閉じることで完成度を高めていて、今回は問われたから少しだけ答えますけれど、下手な言及はしにくいなと感じています(某A監督の対極)。数年の制作休止期間を経てからの、ピングドラム以降の作品はすべて同じ手法で作られていて、第1話にバンク用のいわゆる「カロリーの高い」カットをこれでもかと詰め込んで、最終話まではそれらを変形しながら繰り返し使用していくことが演出と一体になっています。繰り返される毎にバンクに込められた意味が具象から抽象へと位相を移していって、最終的にそれが作品テーマの象徴として受け手へどのように感得(理解ではない)されるかが作品受容のキモになってる気がするんですよね。ピングドラムはちょっと危険なほど現実にあったテロ事件とオーバーラップして読ませる語り方になってて、「多くを不幸にした犯罪者の子どもが、幸せになっていいのか?」という問いかけの重さとバンクの繰り返しが最後まで緊張感をもって釣りあっていた気がするんです。でも、ユリ熊嵐とさらざんまいはバンクの華麗さが語ろうとするテーマを上回ってて、第1話で受けた衝撃が最終話に向けて漸減していき、つまり回を追うごとにつまらなくなっていき、視聴を継続するのが辛かったというのが正直なところです。同じ手法を3回続けて、オリジナルはよほどのテーマを見つけない限り、そろそろ厳しくなってきたと個人的には感じているので、いちど原作ありのアニメ制作に回帰して、純粋な演出家しての冴えを見せてほしいなと思います。えらそうですいません。あとアニメですけど、他人におすすめできるほど見てません(エヴァー某は女性にはおすすめできない)。ドラマでもいいなら、クイーンズ・ギャンビットが漫画的で面白かったです。

アニメ「輪るピングドラム22話」感想

 『鈍感がクセになって、賞賛はウソばっか』

 我が子を食らうサトゥルヌス(鏖殺)! きょうはアタシみんなにあやまらなくちゃならないことがあるの! 西の情弱エリア在住とか耕運機にまたがってフカシこいていたけど、よくよく調べてみたらピンドラが世界でいちばん早く放映される情強地域在住だったの! アタシのTLではピンドラのネタバレ禁止とかトラクターの上から見下してチョウシこいてたけど、いまから22話のネタバレ感想するね! ゴメンね! てへぺろ(シュヴァンクマイエル作品のリアルな舌で)!

 今回は「ぼくたちはあらかじめ失われた子ども」とか「あれは美しい棺だった」とか、監督の自意識が漏れだしてるセリフを、キャラクターが与えられた自我を越えて話す場面がいくつもあったけど、アタシこういうのだぁい好き! 作り手が客観性を失うほどの情熱で作品に入れ込んでいることの証拠だから!

 あと、ピクトグラムの警官が死体になった瞬間にリアルな描写に変じる場面の、監督の「ドヤァ!」が聞こえてくる感じがすごい好き! 書き割りに過ぎなかった他者が死によって実在感を取り戻す、このワンメッセージ、ワンシーンのために21話の演出を積み重ねてきたんだぜって表情が見えるようなの! この演出で監督が感じているだろう気持ちよさは、例えるなら21日後にオナニー解禁って感じかしら? きゃっ(羽生生純が描写した両手で酒焼けに紅潮した顔をおおう)!

 何が言いたいかっていうと、他者にとって書き割りに過ぎない自分を想像して、日々無力感と無効力感に甘く痺れているアタシだけど(電気フグを装着した股間のアップ)、それを乗り越えて何か発信しようって気にさせる情熱を伝播する作品ってホントすごいわよねってことなの!

 ……そして、世界にとっての書き割りに過ぎないという事実を打破するには、現代社会ではほとんどの個人にとって自殺と他殺しか手段がないということだ。結局のところ、「死」だけが重要なのだ。自らに死を与えたものの芸術や、他者に死を与えたものの教義、それらが論理や科学の分析を超えた不可侵の意味をまとう様を見よ。この世界には何かがいる。超越的な何かが。それは断じてすでに名付けられた神などではない。そう、すべてが暴かれたこの場所では、ただ「死」だけが重要なのだ。

 ドヤッ!