ペアレンタル・ガシャポンなる概念を頻繁に目にするようになったので、諸君には魂の話をしておく。結論から先に言えば、かような概念は成立しない。肉体と魂は不可分であり、肉体が消滅すれば魂は肉体に紐づけられた固有性、すなわち意識を消滅させられる。ペアレンタル・ガシャポンという言葉を発明したのは、己のレアリティが不当に低いと恨んでいる連中だろう。しかし、リセマラの段階で、それを感じている意識イコール魂は永久に失われる。不遇へのさもしい劣等感を含めて、それが自身一代限りの固有性なのだという理解を持てば、己を愛おしく思う気持ちも多少は芽生えよう。さて、近代においては科学技術の進歩(古臭い言葉だ)から、「天上におわす神」は否定されてしまった。なので、神学的に神の御座は人の心、感情の中にあるということで科学との折り合いをつけている。ロシア文学に頻出のテーマである「内なる神が他者のため、個としての不条理を駆動する」にもつながっていく考え方だ。飢餓状態の囚人が、同じ虜囚にビスケットを分け与えるのは、個の存続を考えればまったくの不合理である。つまり、彼は行為の不合理性によって神の実在を証明していると言えるのだ。
これを、「内なる神が人類のため、個としての不利益を決断する」と読みかえてもいい。FGO世界の「抑止力」なる概念ーー人類悪の発生へカウンターとして強力な善が惹起するーーは、まさに現代キリスト教における「アダムの分霊、内なる神」を、地球規模へと拡大して表現している気がしてならない。そしてFGO世界でのキリストたる、かのクリプターは、全人類の超人化による究極の理想郷を願ったが、これは従来の文学や神学の枠組みでは仮構できない新しいテーマだったことは、もっと広く言及されていい。蛇足的に話を追加しておくと、この「抑止力」の着想は、ランスシリーズの勇者システムから来ていると推測する。世界の危機がシステム上で人類の総人口と紐づけられていて、現生人類の総数が減れば減るほど、勇者の能力が反比例に向上していくという、アレだ。ちなみに、全人類が滅亡すれば、勇者には神を殺す力が付与される。エヴァQみたいな、何の設定にも裏づけられていないフワフワ・ワードとは異なる、正しい「神殺し」の用法と言えるだろう。ファンガス、どこかのインタビューでランスシリーズについて言及していないかしら。まあ、もっとも影響を受けたものを伏せようとするのはクリエイティブの倣いであり、それがnWoの不遇を作り出していることも確かなんですけどね!
あと、シンエヴァの話をすると反応があるので、最後にあえてまたそっち方向へと話題の舵を切っていきたい。まあ、カリ高チン棒現象?(エコー・チェンバーです)を己の内に作り出してしまっていることは、重々に理解しているつもりである。テレビ版と旧劇のエヴァって、世界観の話だったと思うんですよ。「人類救済のカタチを巡っての、複数組織による綱引き」という大文字の物語に翻弄されながらも、なんとかそこへ抗おうとするキャラクターたちの苦闘が、この上なく魅力的に描かれていた。それがシンエヴァでは世界観の消滅に伴って、大文字のキャラクターに物語の側が隷属し、翻弄されるハメになってしまった。もはや古い世代の世迷言に過ぎないのかもしれませんが、こと虚構においては、与えられた事象に対する行動や決断が、登場人物の内面を彫刻すると思うんですよね。つまり、「どのような出来事に対処するか?」が、まず物語の中核・イコール・テーマに据えてあって、人々のふるまいは、それの輪郭を際立たせるための付随的な要素、すなわち触媒に過ぎないわけです。けれど、「ツンデレ」に端を発する様々な「人間の記号化」が先駆した物語群が、いまや巷間にはあふれかえっています。物語の中核が設定される以前から、どのような内面のキャラクターであるかが、作り手によってあらかじめ決められてしまっているのです。この作劇の違いが、旧エヴァとシンエヴァの間に横たわる、明々白々とした差異なのだと言えるでしょう。メタ的には、「アスカ以前にツンデレなし」の革新性が、際限なきコピーの果てに陳腐化してしまった事実へ気づかないまま、いっさいのアップデートをせずに引き写したーー「陰キャ」「ホモ」「毒親」「ナード」「メンヘラ」「昭和」「天然」みたいに一言で要約できる内面を持った登場人物たちーー結果、シンエヴァは後者の虚構群へと堕してしまったのかもしれません。
……などと上等っぽい語りに持っていったところで、序破で丁寧にビルドアップした中身をQでぜんぶブッ壊したことが等身大の正味なのは、なんとも虚しいばかりです。そして、代わりとなる世界観を思いつかず、残されたキャラだけで仕方なくパズルを始めたら、ピースがはまらない(当たり前)ので、ピースそのものを歪めたり切断したりして無理やり長方形の見かけにこしらえたのが、シンエヴァの正体なのです。