猫を起こさないように
葬送のフリーレン
葬送のフリーレン

アニメ「葬送のフリーレン」感想(4話まで)

 葬送のフリーレン、アニメ版を4話まで見る。金曜ロードショーでの一挙公開と聞いていたので、推しの子1話拡大版みたいなリッチさを期待していたのに、マンガ版の絵の密度と動きをそのままトレースしたようなプアさで、「これをゴールデンタイムで流すなんて、よくぞそんな大バクチをしようと思ったな」と逆の意味で感心しました。原作のストーリー展開については、まだベターになる余地がけっこうあると感じていたんですけど、本作は近年における「人気作品のアニメ化」のご多分にもれず、ストーリー展開はもちろんのこと、セリフまで一字一句たがわず(たぶん)、そのまま再現されています。昭和時代のアニメには、全共闘くずれのアニメーターが「原作をグシャグシャに換骨奪胎して、己の思想を表現する道具として使う」みたいな作品がよくあったじゃないですか(ミスター味っ子のアニメが面白かったので原作を読んだら、キャラと設定以外はまったくのベツモノで首をかしげたことを昨日のように思い出します)。他者の創造へ対するレスペクトにあふれた「お行儀のいい」アニメ化ばかりを目にしていると、ああいう原作無視の大狼藉をまただれかにやってほしいなー、などと無責任に考えてしまいます。

 ドラゴンクエストの世界観ーーなぜかファイナルファンタジーが用いられることはないーーを剽窃して、物語のビルドアップをそこへ丸投げする例の作品群を見ていていつも思うのは、「魔王」はゲーテかシューベルト由来、「エルフ」や「ドワーフ」はトールキン由来の概念として、広く人口に膾炙しているのだろうと百歩ゆずっても、「勇者」という単語だけは個人のテンポラリーな状態に対する賞賛の形容に過ぎないわけじゃないですか。古典的な教養の段階に達するほど年月を経ていない若い文化の用語の、さらに特殊な定義を読み手へと押しつけて、まっさらな物語を始めるのに必要な説明をスッとばす横着な感じは、説明なしの「勇者」概念を見るとき、いつも気になります。その疑念は同じくあるにせよ、後発のフリーレン(notダジャレ)が、雨後のタケノコのごとく乱発されている「転生ドラクエ大喜利モノ」をじっくりと観察した上で、「人生の終わりが彼方に見え始めたドラクエ世代」へ向けたボールを投げたのは、オタク文化の成熟を意識した慧眼だったと言えるでしょう。

 しかしながら、「正しい看取り」というテーマと「週刊誌の連載」はまったくの水と油になっていて、この2つを両立させることはきわめて難しいバランスであると感じざるをえません。なんとなれば、すでにハンターハンターの念を彷彿とさせる魔法バトルの挿入による引きのばしが始まっており、「他ならぬ原作者が、原作の持つ魅力の本質を理解していない感じ」がある種の不安として、ずっとつきまとっているからです。最新刊においては、ついに過去の勇者と現在のフリーレンが互いの肉体に触れたり、意思疎通のできる状態での追想編が始まってしまいました。人生も後半戦に入ると、だれしもが「二度とくつがえせない過去の悔恨」を大なり小なり、何かしら抱えているものでしょう。多くの場合においては、アルコールの力を借りた曖昧化による回避などが行われるのでしょうが、良質なフィクションがつむぐ「別の手段、別の機会、別の相手によって痛みをやわらげ、その一部をいやす」という成熟の処方箋は、きっと現実に対しても有効だろうと私は信じているのです。「死者と直接に対話して、後悔をやりなおす」なんてのは、凡百のループものとまったく同じ、幼稚きわまる大ウソの解決じゃないですか。「フリーレンが、新たな旅の仲間を看取る(あるいは、看取られる)」のを真正面から描くことでしか、この物語が正しく閉じることはないと、ここに断言しておきます。

 今回、マンガの朗読劇みたいなアニメを見ながら頭の片隅に浮かんだのは、血を分けた盟友の最期を看取った82歳の宮﨑駿が、常のごとく原作を完全に無視した2時間の劇場版で葬送のフリーレンを作れば、おそらく私がもっとも見たい形で作品のテーマは昇華されるだろうという妄想でした。そこまではのぞめなくとも、5話以降はバトルシーンをすべてオミットして旅を進めて、最終話でフリーレンの死が語られるぐらいはやってほしいものです。本来、マンガとアニメは別々のジャンルなんだから、全体の1%にも満たない狂信的かつ偏執的ファンなんてガン無視して、ぜんぶ昭和アニメみたいな「アナザー」や「イフ」をやればいいんじゃないですかね、もう。

 

映画「ジョン・レノン・ニューヨーク」感想

 これまた何年か、シアターで棚ざらしになっていたジョン・レノン・ニューヨーク見る。エイト・デイズ・ア・ウィークがイマジンの前半部分の拡大版だとしたら、こちらは後半部分のそれ。構成としては、ジョンの死を受けて「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」から「イマジン」「イン・マイ・ライフ」と畳みかけるイマジンの方がずっと好みです(少年期のショーンが父の丸眼鏡をかけて東京バビロンみたいな肩幅の服でインタビューに答える激萌え映像もあるし)。けれど、大まかな流れとしてだけ把握していたビートルズ解散後のジョン・レノンの軌跡が、関係者インタビューを通じて私の中でより精彩になったのは、僥倖でした。ヨーコから追い出されたジョンが、ロサンゼルスで酒びたりの生活となった後、狂乱する群衆の中へ「奴らは俺を欲しがってる」と言いながら自暴自棄に飛び込んでいった話や、関係者による「彼は本当に泥酔すると必ず『ヨーコ!』と叫んだ」という証言には、思わず涙がにじみました。

 オノ・ヨーコって、ビートルズ・ファンにとっては解散の引き金となった、エヴァで言うところの碇ユイばりの魔女で、むしろその存在は疎ましく語られることの方が多いように思います。しかし、泥酔してすべての理性のタガが外れたあげく湧き上がる「ヨーコ!」という叫びに、ジョンは真実に彼女を愛していたことが伝わってきました。若い時分のオノ・ヨーコのことを言えば、英語の発音のマネがうまい典型的な帰国子女(財閥の御令嬢)って感じで、よくよく聞いてみると話の中身はカラッポなんですよ。ジョンとマスコミの前に出るときも、基本的に相づちか、直前のジョンの言葉をオウム返しすることに終始している。共通の友人たちの前でグルーピーとファックして恥をかかされたことが、ジョンを追い出した理由みたいに話していましたけど、巨大なカリスマとペアで語られ続けることによるアイデンティティの衰弱も大きかったと思うんですよね。じっさい、彼と別れたあとの活動が彼女に自立と主体性を回復させ、それらをあらためて確立したからこそ、またヨリを戻すことができたのでしょう。その後、誕生日に米国の永住権を手に入れ、二人目の息子を同じ日に授かって、そこから父親として「人間になろうとする」ジョンの決意と生活は、涙なしにみることはできません。

 最近、葬送のフリーレンを読んだんですけど、高齢化するドラクエ世代に向けた、遠くない己の死を追想する物語だと感じました。淡々とした筆致で紡がれる美しい記憶のストーリーは、しかし次第に変質していきます。淡々とした筆致は、取り扱うテーマを表現するための手法ではなく、作画担当の個性であることが判明し、ハンターハンターの念を連想させる魔力の描写など、次第に原作者が富樫先生フォロワーであることを隠さなくなっていきます。「勇者の死から29年後」から時間が動かなくなり始めているのも気になります。このト書きが30年、40年と動いていく物語だと思っていました。「勇者のときには満足のいく看取りができなかったフリーレンが、新しい仲間たちをーー新しい仲間がフリーレンを、でもいいーー今度こそは正しく看取る」という岩のように静かな成長譚だと思っていたのに、週刊少年ジャンプ的なバトル漫画に内容がシフトし始めたのは気にかかります。「葬送の」が魔王軍の幹部を殺しまくったゆえの二つ名として作中に語られたのには、思わず「えー!」と声が出ました。

 なぜ唐突に葬送のフリーレンの話を始めたかといえば、ジョンの亡くなった翌日、オノ・ヨーコとプロデューサーがスタジオに集まって、残された曲や録音を聞いて故人を追悼するエピソードが出てきたからでした。「どのように記憶に残るか?」という問題は、ある程度まで人間社会に関わった者ならば、大なり小なり、だれもが抱くようになるものなのかもしれません。曲はもちろんのこと、大量の写真や映像、そしてスタジオ内のバンドに指示を出す声までが録音として残されていて、それらを見聞きすれば、ジョン・レノンという個人は、いつでも我々の目の前へ鮮やかによみがえります。テキストしか表現方法を持たない私にとって、どこか頭の片隅に栗本薫(中島梓)の残り方があるのだと思います。小説ではなく、彼女が本人として登場するエッセイ群のほうにそれを強く感じるのです。特に小説道場は、35年前に始まり、25年前に幕を閉じ、道場主が亡くなって10年以上が経ち、門弟に故人もいるのに、紙面を開いた瞬間、すべてがリアルタイムで行われている鮮やかさで、眼前によみがえります。まるでみんな、生きているかのようです。私がいまだにインターネットでテキストを書いているのは、このたぐいの不滅を求めているからのような気がしてなりません。データは10年、紙は1,000年、石は100,000年、SNSのサービスを提供する会社には、せめて100年を長らえて、次の世代へと私たちの記憶を運んでほしいものです。

 そして、ジョン・レノンがたったの40歳で亡くなったのだという事実と、彼が残した膨大なクリエーションの足跡に、あらためて打ちのめされる思いがしました。