猫を起こさないように
範馬刃牙
範馬刃牙

アニメ「範馬刃牙」感想

 範馬刃牙「親子喧嘩編」を通して見る。低クオリティの静止画に音声がついただけみたいなシロモノで、どこか激しく動かしたいシーンがあるから作画の足をためているのかと思いきや、そんなシーンは一瞬もなく、最後までずっと同じ調子のまま、低クオリティのまま終わります。意味不明の展開を超絶な作画力で、まさに勇次郎が息子の頭をなでるように無理やり読ませた原作から、作画力だけを抜いて何も足さない仕上がりになっています(ユーザー・イリュージョンの話がマルシーとれないので引かれてる)。でもね、この程度の品質で、居ならぶ韓ドラまでおさえて、ネットフリックスの視聴ランキング世界1位をとってんですよ(!)。

 原神のときにもさんざん言いましたけど、我々を停滞させているのは、もはや呪いと化した国民的心性である「神経質なまでの几帳面さと行儀のよさ」なんじゃないですかねえ。チェンソーマンがあれだけのハイクオリティだったのに、解釈違いと原作ファンに難クセをつけられて、2期の制作さえ絶望的な状況に追いこまれているのに対して、刃牙シリーズは死刑囚編から安定の「低クオリティ・コントロール」で、ついに最後の最後まで語りきっちゃった。さらには、刃牙ファンの裾野を世界各国のあらゆる人種へと広げ、近い将来に幼年編から最大トーナメント編まで作られそうな勢いです(スターウォーズの大好きな世界中のオタクたちは、この順番のストーリー提示に大興奮すること間違いありません)。

 本邦の漫画界隈には、「あまりに名作すぎて、おそれ多くてさわれない」や「ファンが厄介すぎて、怖くてさわれない」作品が、誇張ぬきで数十年来を塩漬けにされたまま、ゴロゴロしてるじゃないですか。あのチェンソーマンの仕上がりでダメなら、もう何をどうやったって一部のファンにはダメなわけで、我々は刃牙シリーズの雑なアニメ化が大成功したことを見ならうべきだと思うんですよね。全視聴者の1%にも満たない、うるさ方の原作ファンや声の大きい作画オタクは無視して切り捨てて、低品質の雑なアニメ化をもっとガンガン増やしていきましょう! 有識者および資本家のみなさん、本邦の衰えたプレゼンスを回復するのに、これほど簡単で安あがりな施作はありませんよ! とりあえず、高校鉄拳伝タフあたりからやっていきましょうか!

 『(バーガーとコークを手に、あきれ顔で)このアニメは世界でいちばん視聴されている。だから世界でいちばん面白いものに決まってるだろ。』

アニメ「範馬刃牙」感想

 ネトフリに範馬刃牙が入ってるのに気づいて、見る。「貴方との対決をもって、オレという物語の幕引きとしたい」という前章での宣言から、そこへ至る紆余曲折が描かれるのですが、アニメで見てもやっぱりゲバルをどうしたかったのかは、わからないままでした。刃牙世界における三大不遇キャラを挙げるならば、順に天内、アライ、ゲバルとなりましょう。いずれも強キャラ匂わせから、主役級の持つ作者補正を越えられずに惨敗するという展開が共通しています。本作ではチェ・ゲバラよりセルジオ・オリバへの思い入れが勝ったということかもしれません。

 いまでこそ、ネットによるミーム汚染でネタ漫画あつかいされている刃牙ですが、幼年編終盤の勇次郎との戦いは、少年漫画における頂点のひとつだったと言えましょう。妊娠、出産を経ても「愛する男の女」のままだった朱沢江珠の母性が、瀕死の我が子を眼前にして目覚め、「地上最強の生物」へ徒手で敢然と挑みかかる。犯し、孕ませ、生ませ、屈従の下に置いたはずの存在が、母なるものに化身するのを目の当たりにし、「おのれ以外のすべてが凌辱すべきメス」としか見えぬ世界で、彼はその未知の何かを「いい女」として殺す以外の選択を持たなかった(そしてたぶん、そのことをずっと悔いている。息子からの「なぜ母さんを殺したの?」という問いかけへの返答に、それがかいま見える)。その後、息子が母親の遺体を背負い、警官に追われながら商店街を駆けるシーンは、まさに情動のクライマックスであり、そのテーマ性は世界文学の高みにさえ到達していたと言えましょう。

 範馬刃牙における父親と息子の戦いは、この妻イコール母親の死を下敷きにしているからこそ、厳密に物語を編んでいくのならば、「父殺し」か「子殺し」以外の結末を持てないのです。そんな中で、父子の対決は両者の会食からそろりそろりと始まりました。「どんな強敵にも主人公補正で勝つ」と揶揄され続けてきた刃牙が、作者の思い入れがもっとも強い勇次郎へと挑むのです。おそらく、どちらの結論にするか作者自身にも決められぬまま、父親と息子の戦いは進んでいきます。途中、作中の人物にネットでの感想へ反応させたり、突然ユーイチローなる人物を登場させたり、迷走ぎみに着地点を探る展開が続きました。そしてついに、決着のときがやってきます。少年誌に掲載されている漫画なのですから、普通に考えるのなら「父殺し」で終わるのが至当でしょう。しかし、長期連載の果てに作者自身が父となり、何より範馬勇次郎をあまりに魅力的に描きすぎてしまった(どこかのヘタれ司令とは大違いですね)。当時、掲載誌の立ち読みで展開を追っていましたが、かつて勇次郎が江珠にしかけた両手で鼓膜を破壊する技を食らう刃牙の大ゴマを見た瞬間、幼年編の終盤とストーリーがつながって、コンビニで周囲に人がいたにもかかわらず、思わず嗚咽が漏れたのを思い出します。グラップラー刃牙にはじまったこの長大な父と子と母による三位一体の物語は「子殺し」で幕を閉じるのだと考え、その結末までを一瞬で脳内に幻視してしまったからでした。この象徴的なコマは、作り手自身も抗うことのできない「大きな物語」が憑依的に描かせたものだと、いまでも確信しています。

 さて、少し話はそれます。「何が起こるか作者さえ原稿に向かうまではわからない」展開が本作の魅力を作り出していますが、連載初期には人気の低迷から打ち切りの危機を経験したそうです。仕方なく、そこまでのストーリー(花田)を放棄して、とっておきのとっておきだった「俊敏なジャイアント馬場による回転胴まわし蹴り」カードを切ったら、次々と新たなアイデアが浮かんでくるようになって、人気はたちまち回復し、連載を継続することができたという話をどこかで聞いたことがあります。これは、創作を志す者にとって考えさせられる逸話で、使われない良いアイデアはときに新たな思考が発生するのを妨げるということです。ちなみに、nWoのフィクションが頓挫し続けているのも、MMGF!の終わりに至るストーリーラインがそのアイデアの座ともいうべき場所を占拠しているからです。

 話を範馬刃牙へ戻しますと、父子対決の結果はみなさんがご存知の通り、大きな物語の要請を意志の力でねじふせ、作者その人が行司役となって「どちらも生かす」ジャッジが最終的に下されました。その是非を判断することは私にはできませんが、いずれにせよ、刃牙世界の背骨であったテーマはそこで閉じ、以後に語られている内容は余生とでも呼ぶべきものでしょう。この物語はもうどこで終わっても、大往生と呼べる段階に達しているのです。ベルセルクもこの段階に入ってから、絵画作品へと移行すればよかったのにと、悔やまれてなりません。どこかで読んだ「キャスカは鞘当てに過ぎず、ガッツがグリフィスを抱けば、この物語は過不足なく終わる」という指摘はまさに至言で、あのデビルマンにおける善と悪のアルマゲドンも、アキラがリョウを組み伏すことで終わったのですから(だから、阿部定的な情念を背景に、此岸の浜辺でアキラの下半身が喪われた)。