猫を起こさないように
窓ぎわのトットちゃん
窓ぎわのトットちゃん

映画「窓ぎわのトットちゃん」感想

 スパイを夢見る少女が、二国間の争いに翻弄される例の映画を見てきた。なんとかファミリー、楽しみですね、早くもコナンに次ぐ国民的作品になりそうじゃないですか、だと? バカモノ! スパイを夢見る少女の映画と言えば、国民的エッセイをアニメ化した「窓ぎわのトットちゃん」に決まっておろうが! この週末を越えれば、そのホニャララ家族によって上映回数を大幅に駆逐されてしまうだろうから、「徹子の部屋」という重大なネタバレ(ひどくない?)を回避しつつ、元祖・和製アーニャを劇場へおがみにいくがよいわ!

 視聴する前は、著者本人が「大した中身がないので、映像化は難しいだろう」と言っていたように、下手をすると「となりの山田くん」みたいな小品の集積になっているのではないかと危惧していましたが、本作はトモエ学園での教育を物語の中心にすえて、戦前の社会と暮らしをていねいに描いていきます。「確かな考証と観察と演出があれば、脚本は補助線にすぎない」を地で行く、高畑・片渕両監督の系譜に連なる作品になっていて、前半は古き良き時代の邦画が持つ心地よさに身をゆだねられ、予告にもあった「きみは本当は、いい子なんだよ」の台詞を皮切りにして、そこからほぼ全編を泣きどおしでした。「すぐに特性の診断名がついて、その一般名詞に向けた対応を最適化する」近年の風潮のようではなく、「いっさいの判断を留保した状態で、ひとりの子どもと視線を水平に合わせる」ふるまいは、有限の時間をしか持たない大人にとって、きわめて難しいことでしょう。しかし、その理想に近似しようとする努力までを放棄すべきではないと、小林校長先生は教えてくれるのです。

 さて、ここまでを絶賛しておきながら、ところどころでスッと涙のひっこむ場面があって、原作は数十年前にいちど読んだきりのウロおぼえなのですが、おそらくアニオリで挿入されたパートが雑味と言いましょうか、ノイズになっているような気がしてなりません。具体的にいくつか例を挙げますと、憲兵に父親がつっかかるのをトットちゃんの機転で切り抜ける場面、他校の児童が竹槍で示威しながらトモエ学園を揶揄するのを歌唱で追い返せてしまう(なぜかマクロス7を想起)場面、アンクル・トムの小屋を娘に読み聞かせした父親がひとしきり敵性音楽を演奏したあとで「ぼくのバイオリンに軍歌を弾かせたくない」とつぶやく場面、ヤスアキちゃんが雨の中で水たまりに片足でリズム(死因がこじらせた風邪に思えてしまう弊害も)を取りはじめて以降の場面、友人の葬儀から抜けだしたトットちゃんが「商店街に掲げられた戦時国債のバナー」「出征する兵士たちに歓呼する民衆」「片足や両目を失った傷痍軍人」「遺骨の箱を抱きしめたまま動かない老女」のかたわらを駆けていく場面が、それに該当します。特に最後のシーンに対しては、怒りにも似た感情がふつふつと浮かび、「小児麻痺で夭逝した子どもとその親の無念と、親友の死に胸のつぶれる子どもの悲しみは、太平洋戦争となんの関係もないやろが!」と心の中で絶叫してしまいました。

 物語の後半、明らかに「トモエ学園での教育」から「戦争と国家に向けた批判」へとテーマの軸足が移ってしまい、「マンガ映画ばかり作ってきたけんども、オラたちもいいトシになってきたし、そろそろ戦争をキビシク描いてブンゲイの仲間入りすっぺか!」「んだんだ、イサオやスナオみてえになるだよ!」のような大人の思惑が見えかくれし、「それでも、生きていく」子どもたちの懸命さを汚している。教育とはまさに「きょうを行く」ことであり、会社名や役職名という過去の蓄積によりかかって、楽に定型のコミュニケーションをとる態度からはもっとも遠いやり方で、それらの社会的な外殻いっさいを脱ぎすてて、現在のあらゆる瞬間を裸で子ども・イコール・未来と対峙することであり、本作における前半から後半にかけてのこの変節は、トットちゃんの受けた教育をふみにじっているとさえ感じられるのです……そうそう、裸で思いだしました!

 児童たちが男女とも水着なしでプールに入る場面は本作の白眉ですが、百歩ゆずって女児は角度の関係から具材が見えないのだと仮定しても、大マタをオッぴろげた男児の股間がツルツルというリアリティの無さには、強いいきどおりをおぼえます! 幼いBLACK-WILLOWのCHIKUBIはあざやかなPINKで活写したくせに、いいですか、おちんちんはエッチじゃありません! あと、青森に疎開するために乗った列車で、トットちゃんが果樹の中を踊り狂うチンドン屋を幻視して幕となったのには、「オマエらは、物語の最初と最後に現れる少女・綾波レイかよ!」と思わずツッコんでしまいました(このエンディング、どうなの?)。それと、同じ上映回にストレッチャーで運ばれてきて、最前列で視聴していた高齢の女性がおられたのですが、もしかするとトモエ学園の関係者だったのでしょうか。