猫を起こさないように
演劇
演劇

海外ドラマ「ブレイキング・バッド」感想

 長くて不快なの出るお! リム……いや、ミュート! ミュートぐらいにしておけ!

 ブレイキング・バッド、シーズン3の途中ぐらい(ハエたたきの回)で脱落してたんだけど、このたびヒマにあかせて、ようやく履修を完了した。最終シーズンの話がどれも良くて、やっぱり物語というのはいかに作り手側の思い入れが強かろうとも、必ずすべてのキャラクターが不可逆に変わってーーあるいは壊れてーーいって、その終わりには始まりとまったく違う場所にいなければならないのだと改めて感じさせられた次第である。打たれたピリオドに成長と喪失のどちらが多く含まれているかが、物語の質を決めるのだと思う。物語が長期化すればするほど、作り手がキャラクターを愛しすぎるようになり、壊せなくなっていく。彼らと遊ぶことのできるこの瞬間が永遠に続けばいいと願うことが、「終わらない物語」の正体だ。グイン・サーガはある時点から(たぶん、アルド・ナリスを殺せなくなってから)確実にそうだったし、絆は腐るほどあれど喪失がないゴム人間ーー仲間のだれかが欠けることを想像できない、蝕の後の狂戦士のようにキャラ全員が「作者に守られた、弛緩した安全圏」の中にいるーーもそうなのだろうと思う(これ、オウガ・デストロイング・ブレイドがいかに特異であるかの説明にもなってる気がするな)。漫画に「終わらない物語」が多いのは、亡くなった「ン」の人も言っていたように、キャラクターがストーリーに優越する作りになっているからなのかもしれない(で、キャラクターを変化させられなくなって、ストーリーの永続化か頓挫の二択へ向かう)。

 まったくの余談だが、私はこの奇妙な二ヶ月間でゴム人間が受け入れられる本邦の土壌が、まざまざと可視化されたような気がしている。なので、医療関係者をカッコよくイラストにして応援、みたいなプロによる企画?が現場の看護師のヒステリックな絶叫で一瞬にかき消されたのを見たときは、じつに胸のすく思いがした。同時に亡くなった祖母(大陸帰り。敗戦直後、丸坊主にされて自害用の毒瓶わたされた話、したっけ?)が、戦争になったら必要なくなる仕事はするな、みたいな話をしていたことも思い出した。実業に対して虚業なる言葉があるけれど、演劇界隈の重鎮たちが己の生業を虚業と定義していないようなのには、驚かされた。「虚」から始まる無用物の絶望が、すべての創作を「実」に勝る高みへと至らせる原動力だと長く信じてきたので。ほんと、年くってから突然、名士になりたがるよね、あいつら。エロゲーとか見下してそう、同じカテゴリなのに。野良犬だからこそ届く牙もあろうに、まったくランス10のツメのアカでも煎じて飲んでほしいよ!

 脱線しまくったが、ブレイキング・バッドへ話を戻す。人が何か大きなことを成し遂げたり、ある集団の中で登りつめてゆくためには、5つの要素が必要だと思っている。まず内に秘める「知恵」と「才覚」は不可欠で、それらを100%外界へ発出するためには「胆力」が無ければならない(少ない「胆力」の分だけ、「知恵」と「才覚」の出力は減ずる)。それから、目指すべき達成の中絶を許さない、不断なる「意志」の力だ。実のところ、「知恵」と「才覚」を持つ人間は世の中に数多い(いや、ほとんどの者がこの2つを持っていると言っていいくらいだが、私を含めた多くが自分にしかない持ち物だとどこかで錯覚しており、気づいたときには手遅れになっている)。しかし、「胆力」の段階で半数ほどがふるいにかけられ、「意志」の段階でさらに多くが脱落する。そして最後の要素は、「他力」である。それは、敬愛する色川御大のギャンブル小説に表現される、すべての技術を究極に突き詰めた先で、純粋にそれぞれの持つ運だけが勝敗を決める状態に似ている。選抜の末に残った者たちの中から、最後の高みへ一人を押し上げるのは、自分の内側にはない外部からの力なのだ。独力で何でもできる人物が、赤子のような無力で他者へ身をあずけて、高い場所へと「置いてもらう」。このプロセスを抜きにして、人は誰かの上に立ったり、大事を成し遂げることはできない。もしかすると「他力」とは、人間存在への「信頼」なのかもしれない。この物語には、5つのうちの4つまでを備えた何でもできるはずの男が、1つの欠落に最後まで気づくことができない(視聴者はずっと気づいている)滑稽さとーーたぶん、悲しみが描かれている。

 え、だれかの境遇にそっくりだって? 言うな、言うな、ここまでの名調子が台無しになる(台無し)!